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Falling【32】 天を統べる獣

 


 僕には、君が汚れているようには見えない。

 その瞳はとても澄んでいる。

 たとえたくさんの血で濡れていたとしても。

 たとえたくさんの罪で溺れていたとしても。

 僕は君から目をそらさない。

 君は美しいから。

 だから、そんな顔をしないでくれ。

 


 ↓↓

 ↓↓↓↓


 

 湖面がいきなり隆起した。


「……なんだ?」


 岸辺に座っていたメイツはそれに気付いて、エヴァとともに湖を見つめる。

 サクやその友人たちが帰ってきたのかと安堵して見ていると、水はどんどん膨らみ、メイツの身長よりも高くせりあがった。

 弾ける音を立ててそこに姿を現したのは、赤い猿のような姿の魔獣。


『ぬう……〝抜鏡(バキョウ)〟を使って正解じゃったわい。〝狂戦士〟は置いてきてしもうたが……命には変えられんか』


 

 魔獣――狒々典はそのまま泳いで近づいてきた。

 おおきな姿が岸にたどり着くと、そこにいるメイツたちに気付いた。


『ほほう、人間と獣人族が一緒にいるとはな……今日は珍しいものばかり見るわい。おぬしら、中に入ってきた人間の仲間かのう?』

「え、あ、はい」


 きっとサクたちのことだろう。

 狒々典がのっそりと岸にあがる。ぶるぶると体を震わせて水を飛ばした。

 その水滴に濡れながら、メイツが目をぱちくりとさせて聞き返す。


「ええと、あなたは?」

『わしは狒々典。このダンジョンの守護を司る者じゃ。おぬしらの仲間と戦ったがあっさり負けてしまってのぅ……からがら逃げてきたわけじゃ』

「そうだったんですか」


 ほっと息をつく。

 どうやらサクたちはうまくいっているらしい。

 メイツにとってはそこだけが杞憂の種だった。いくら村の誰よりも強いとはいえ〝鏡の海〟はサクひとりで攻略できるようなところじゃない。一緒にいたあのふたりが力添えしてくれたのだろう。


「……よかった」

『それにしても人間。おぬし、血の匂いがするのぅ。なにか怪我でもしとるのか?』

「ああいえ、さっき友達と喧嘩しただけです」

『ふうむ……人間は野蛮よの。そうは思わんかね獣人族の女子(おなご)よ』

「そうかもね。すくなくとも、メイツにはあてはまらないけどね」


 エヴァはとくに興味もなさそうに答えた。

 狒々典は不思議そうな表情をしてから、メイツに向き合う。


『……おぬし、メイツというのかの?』

「はい。そうですけど?」

『種族を超えた友好は、あまり賢いとは言わぬぞ』


 じっとこっちを見つめてくる。


「どうしてですか?」

『共存し難きゆえに、生物は種族というものに分かれておる。これはごくごく自然の営みじゃ。むろん、絶対的に不可能だとは考えておらんが……おぬしらの友好も、絹の珠のように大事にせねば崩れてしまうからの。気をつけるのじゃよ』

「はい。わかりました」


 メイツは素直にうなずいた。

 まだエヴァと交友があるってわけでもなかったけど、せっかくの言葉だ。ありがたくもらっておいた。

 エヴァは、つまらなさそうに下を向いているだけだった。


『ところで人間。ひとつ頼みごとをしても良いかの?』

「なんでしょうか?」

『おぬしの持ってるもので、もっとも価値のあるものが欲しいのじゃ』


 狒々典は神妙な様子だ。


『おぬしの仲間は、わしの大事なものを奪っていってしまってのう。おそらく壊されるじゃろう。その代わりになにか物が欲しいのじゃ。わしは強欲の魔獣での……なにかを持っていないと気が済まないのじゃ』


 メイツは手ぶらだ。武器も鞄も持ってない。

 村に一度はもどったけど、サクがダンジョンへ入ったことに気付いた村人たちが武器を持って湖まできたんだ。慌てて追ってきたので、鞄もなにもかも置いてきた。

 それを知っているエヴァが、服のなかをごそごそと探って、


「メイツはなにもないから、ぼくがあげるよ。それでいい?」


 取り出したのは果実。

 森に生っている果実が三つ。


「好きなの選んでいいから」

『……ほう。いいのじゃな?』


 ギラリ、と狒々典は目を光らせた。


『もっとも価値のあるモノをもらっていっても、いいのじゃな?』

「もちろ――」


 とうなずきそうになったエヴァの手を、メイツが止めた。

 どうしたの? とエヴァがメイツに尋ねる。

 メイツは首を振った。

 その顔は真剣そのもの。

 滅多に見せない表情だった。


「メイツ、どうしたの?」

「ごめんなさい狒々典さん、それはできません」

『なんじゃと?』

「もっとも価値のあるモノは、あげることができません」

『……なぜじゃ』

「僕らが生きているからです」


 メイツはこんどはにっこりと笑って、狒々典の手元を指差した。


「どんな物を持ってたとしても、僕らが持っている一番価値のあるものはまぎれもなく自分の〝命〟です。……狒々典さん、その後ろ手に持ってるのは鏡ですね? それでなにを写そうとしてたんですか?」


 メイツが問うと、狒々典は豪快に笑った。


『ぶわっはっは! これに気付くか人間! すばらしい慧眼を持っておるのぅ。そのとおり、これはわしの〝霊鏡(レイキョウ)〟……おぬしのいったとおりの最も大事なもの(・・・・・・・)を盗み取る鏡魔法じゃよ』

「……ぼくを殺そうとしたの?」

『そう睨むでない獣人族の子よ。わしは強欲の魔獣……そうすることが生き甲斐なんじゃよ』


 友好的に見えて命を奪おうとしてくるとは、油断も隙もあったもんじゃない。

 とはいえ事前に気付けてよかった。

 いまにも怒りだしそうなエヴァの手を握って、メイツは笑った。


「まあまあ。狒々典さんも悪戯がすぎますよ。僕らはただここに座ってるだけなんですから、あまり怖いことしないでください」

『それもそうじゃの。わしはおぬしらになんの恨みもないし、命をとる必要もない。むだに戦う気力もないしのぅ』

「ですよね。よかっ――」

『じゃがおぬしらの仲間に恨みはあっての?』


 ゴッ!

 と。いきなり横薙ぎに振りはらわれた狒々典の拳が、メイツを吹き飛ばした。


「メイツっ!」


 メイツは不意打ちに反応することもできず、地面を跳ねるようにして転がった。かなりの距離を吹き飛ぶと、樹に身体をぶつけて止まる。


「っ……いててて……」


 頭を強く打った。

 メイツが痛みに顔をしかめて後頭部に手をあてると、血が出ていた。

 目の前がくらくらする。

 さすがダンジョンの守護者だけある。軽く振っただけでこの威力とは。

 よくもまあ、サクたちは勝ったものだ。


『おぬしら人間は嫌いじゃ』


 狒々典は、ずしりと重い足音を踏みならし、倒れたメイツの前に立った。

 睨まれているだけで、押し潰されそうになる迫力。

 その大きな拳を振り上げてつぶやく。


『強欲の魔獣のわしなんぞでは比べ物にならぬくらい強欲で、そして凶暴じゃ。おぬしにはほんに恨みはないがのぅ……それでもわしは強欲の魔獣。殺したい相手を殺さずにおいておけるほど我慢強くはないのじゃ。ゆえに人間……そのまま死んでくれ』


 狒々典は拳を振り降ろした。

 一片の迷いもない。

 人間を殺すことに、なんの躊躇いもなかった。


 潰される――


「――メイツに、なにするの」


 でも、その殺意はメイツには届かない。

 狒々典の巨大な拳は小さな獣人が受け止めていた。

 片手ひとつで。


『獣人族の子よ……そこをどけ』

「どかないよ。どくわけない」

『わしに逆らおうとは、愚かなり』

「愚かなのはどっち?」

『ぬん!?』


 もう一方の拳を叩き込もうとしていた狒々典は、とっさに後ろに跳んだ。

 なにかを感じとったのかそのままエヴァから大きく離れる。

 動物的直感が強いのだろう。

 あきらかにエヴァを警戒していた。


『おぬしもただものではないな……ここで使うとは思わなんだが、念のためじゃ。……ともども死んでくれ獣人の子。〝千鏡(チキョウ)〟』


 突如として狒々典の周囲に小さな鏡が無数に浮かぶ。

 そこから、勢いよく矢が飛び出してきた。

 サクの武器。サクの攻撃方法のひとつ――矢。

 避けられる数じゃない。

 呆然とするメイツ。狒々典が薄く笑みを浮かべたような気がした。


 圧倒的な数の矢の前に――エヴァは動じなかった。


 ただその手を、軽く振るっただけ。

 まるで虫を払うふうに振っただけだ。

 暴風が吹き荒れる。


『ぬぬうっ!?』


 風の魔法を放ったかのように、突如として生まれた突風が矢をすべて弾き飛ばした。矢はそのまま跳ねかえり、狒々典の体に突き刺さる。とっさに魔法を解除して矢を消した。


『お、おぬし……〝裏鏡〟――『〝烙鏡〟!』』

「うわっ!」


 いきなり足場がなくなった。

 突如空いた大穴。重力と、風がメイツとエヴァを吸いこもうとする。


 だがエヴァは落ちない(・・・・)


 なんということもなく、浮いたように穴の上に立っていた。メイツが落ちないよう片手で抱きとめて、じっと狒々典を睨みつけていた。


『おぬし……?』

「……許さないよ」


 一歩。

 狒々典にむかってエヴァが歩く。

 一歩。

 穴なんて気にしないように、空中を歩く。


 メイツは思い出していた。

 何度も聞いたことがあるあの話。

 数年前、ソレがあったときにも繰り返し聞いた、あの伝説。


   ――その獣、息を吐けば生物が死に絶え――

   ――その獣、爪を振るえば山は割れ――

   ――その獣、ひと声啼けば雷が落ちる――

   ――天を支配し、天を翔る獣の王――

   ――その名は――


『……天獅……?』


 ようやく狒々典が気付いた。

 赤い顔を青ざめて、震える。

 エヴァに睨まれ、地に足が張りついたように動かないのだろう。恐怖に支配されていた。


「ぼくは魔法を使えないから、こんなふうにしかできないの」


 エヴァは狒々典のすぐそばまで歩いてくると、地面にそっとメイツを降ろした。

 背を向ける。


「だからメイツ。これからぼくがすることを、見ないでね」


 エヴァは弱々しくつぶやくと、その手を振りかぶった。


『わ、わしが悪かった……だ、だからやめてくれ……』

「許さないの。あなたはメイツを傷つけた。ぼくは、許さない」

『そこを頼む……わ、わしはただ、人間が嫌いなだけじゃ。おぬしも天獅ならわかるじゃろう? 人間の醜さが、人間の弱さが……だからおぬしも数年前、人間どもを殺戮して――』

「あなたはぼくのこと、なにもわかってないよ。知ったふうなことを言わないで」


 失望したような、冷たい声。

 驚愕する狒々典のすぐそばにエヴァが立つ。

 腰を沈めて、爪を煌めかせ、


『や、やめ――』


 薙いだ。


 断末魔は短かった。


 エヴァの爪は狒々典の体を、軽々と切り裂いた。


 どんな武器でも食いとめそうな筋肉も、金属のように硬そうな骨も、その巨大な体躯も。

 なにも気にすることなく断ち、その血を撒き散らせた。


 生物としての圧倒的な差。

 絶対的な強者。


 千切れた狒々典の胴体から吹きあげる血を浴びながら、天獅エヴァルルは、目を伏せて振り返った。


「……見ないでって言ったのに」

「どうして?」

「こんな醜いぼくは、見てほしくない」


 ちらりとメイツを見た。

 すこしだけ目が合うと、また目を伏せる。


「……エヴァ……」


 メイツは、自然とエヴァに近寄っていた。

 同じように血を浴びて、赤く濡れながら、エヴァの頭を撫でる。


「……メイツ?」


 とてもとても、悲しそうな目だったから。


「見てるよ」


 だからメイツはほほ笑んだ。


「君がどんなことをしたのか、僕はまだよく知らない。君がどんなことをするのか、僕にはわからない。だけど僕は君を見てるよ。君のこと、見たいと思う。たとえ血で濡れていたって、たとえ罪に溺れてたって構わない。だっていまの君は、君が思ってるよりずっと…………綺麗だから」

「…………ほんとに、変なひとね」


 天獅は少しだけ怒ったように、唇を尖らせた。

 でも、メイツの手を払ったりはしなかった。



 湖のほとりに、血の雨が降りそそぐ。

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