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蜉蝣の、唄  作者: ouka
8/9

響く空蝉の声―背徳―2


Side:星羅せいら一人称「あたし」

聖なるものと意味するひじりに、阿修羅の羅。どうじて両親はこんな名前をつけたのかはなはだ理解に苦しむ。全てはこの名前から始まったのだ。二重人格ともいうべきこの両面性が。だからあたしは自分で名前を変えた。星羅と。星のように煌めくものでありたかったから。余すことなく全てが太陽に照らされる、星という存在になりたかったから。表はピカピカ、裏は真っ黒という今のわたしたちに似つかぬ名前だろうけれど。


ああ、遊馬が好き。好きで、好きで、好きだ。

聖羅は一生懸命感情を隠そうとしているけれど、人間だから仕方がないことだ。だから彼に会えると嬉しい、彼の声が聞けると嬉しい、彼に触れるだけで嬉しい。彼の瞳を見るだけで嬉しい。

「ああ、好きよ……遊馬」

あたしは手を秘所に導いて、いけないことをした。しばらく妄想したあとふうっと息を吐く。心臓がばくばく飛び出そうなぐらい鳴っている。


あたしは愛が恐ろしい。

底知れない何かを彼女は持っている。言葉にするなら、愉快犯が持つような狂気と狂喜だ。身の危険を感じるのだ。彼女が笑うときは特に恐ろしい。だけどあたしは馬鹿だから、昨日遊馬と彼女がキスをしているところを見てしまった。嫉妬してしまった。か弱くてちっぽけな星が、太陽と月が仲良くしているのを見て嫉妬しているみたいだった。太陽のように輝かしい遊馬、月のように美しい愛。そして私。一瞬の煌めきのために生きているあたし。

「馬鹿みたい」

そうあたしは馬鹿なのだ。夢をみてしまうのだ。3回願いを唱えたものに夢を叶えるはずの星が、夢をかなえて欲しいとは滑稽だ。馬鹿だ。もういやだ。


――誰でもいいから。

――「私」を。「あたし」を。

――殺してよ。


 あたしも自分で死ぬことすらできない臆病者だから。


**

Side:遊馬

女は簡単だ。結婚して一生を添い遂げようとするのはともかく足を開かせるのは簡単だ。あきらかに茶髪のチャラくてピアスをかけたようなナンパ男はだめだ。本当の肉食系ならじっと外野から獲物を狙って100%の確率で落とす。これが肉食系の定義だとする。皆はあまり分かっていないのだがほとんどの馬鹿女には攻略法があるのはおわかりだろうか。チャラいだけで釣れるのは軽いビッチしか釣れないから注意な。ここで先に結論付けて言うと、本当に女を何人も抱くためには、清潔で甘いマスク、真面目そうな風貌と、少しの筋肉、巧みな話術、見せかけの優しさがあるのだ。

諸君に一から説明してあげよう。

「清潔で甘いマスク」ニキビでぶつぶつ顔の男は性格とかよっぽど面白くないともてない。「真面目そうな風貌」ぶってるだけでOK。ここの意味ではチャラく見せないことが重要。髪は黒、女の子に手当たり次第声をかけないっていう意味。「少しの筋肉」筋肉ダルマみたいにつけて自信はつくかもしれないけど女の子はドン引きだから。「巧みな話術」女の子を笑わせること。気をつかうこと。「見せかけの優しさ」俺はこれを上っ面kindnessと呼んでいる。よくあるのが彼女が好きすぎて奉仕しまくるやつ。女の子きもがるからやめてあげて。重すぎないことが重要。ちょっと消しゴムあげるとかそれでOK。


全ては計算上で女の子は落とせる。俺はこのセオリーを小学生のときに学んで誰にも教えることなく重宝している。


放課後、カーテンに写るのは男と女。

ああ、神よありがとう。こんな可愛い子とチューさせてくれて。

カーテン越しに目を細めながら、西日を拝んだ。

「……遊馬くん、そういえば聖羅とどう知り合ったの」

 ふんわりと黒い髪がゆれる。桜色の唇が「まだキスして」と誘っているようにしか見えなかった。平静を取り戻して、我慢する。

「ああ、俺らのクラスって一年のときから一緒なんだけどな、最初の授業であいつが横の席だったんだわ。それより愛ちゃんもっかいキスしよう」

ごめん、我慢できなかった。

 「えー、一日一回だよう」

可愛い可愛い可愛い。ああかわいすぎる。白いほっぺたに食いついてぎゅっとしたい。

思えばこれほど自分が陶酔している女の子も珍しいと思う。処女雪の様に白くて儚くて美しい。籠に入れて一人で愛でたい。だけど一方でその一面の銀世界を踏み荒らしたいという感情が芽生えていた。踏み荒らして、めちゃくちゃにしたい。俺一杯に穢したかった。

したい、やりたい。

しょうがないでしょう。男なんだから。

クラスにいるほとんどの女の子は抱いた。写真を撮って脅したから誰にも漏れていないはずだけど。今まで色々女の子を食べて今まででもすごい楽しかったけれど、それよりずっと最高級の食事が眼の前にいる。

甘いマスクと、真面目そうな雰囲気、巧みな話術、見せかけの優しさ、親しみやすさ。これらがあれば女の子はすぐ落ちるのだ。女とは簡単だ。日暮だけはめんどくさそうだからやってないけど。ああそんなことより愛ちゃんまじ可愛い。。心が締め付けられる。頭がくらくらする。


するとその幸せな瞬間は突如終わりを告げた。

「あれ?月夜どうしたの」

 俺は愛の目線の向こうにいる人物に目配せした。

 窓からのぞくと、涼やかな目元をした爽やかそうな人がいた。


――男だった。


「愛ちゃん?」

「ああ月夜よ。私のパパ。とっても大切な人なの」

 パパ? あきらかに2、3程度年上にしか見えないこの人物がパパ?

「俺はちゃんと愛ちゃんの大切な人?」

 会ってそうそう聞く質問ではないと思ったけれど、そんなのはどうでもよかった。だって愛ちゃんは天使のように優しく微笑んでくれたから。自分が舞い上がってしまいそうだった。


――うわ、やばい。ぎゅってしたい。

 そうすべく手を伸ばした瞬間。

「愛さん」

 存在感なく、男が口を開いた。


「愛さん迎えに来ましたよ。危ないですから」

 愛は早かったね、と男に呟いた。この男は本当に父親なのだろうか?と思うぐらい若かった。顔の造りや背格好、雰囲気が全てなんだか涼やかだった。だけどなんとなくいらっとした。

「失礼ですが、年齢をお尋ねしても宜しいでしょうか」

 思いきって尋ねると、愛も口を開いた。


「……そういえば私も知らないわ、何歳なの?月夜」

「さあ」

 親子のとんちんかんな回答が返ってきた。

 愛ちゃんどうして父親の年齢ぐらい知らないんだ!


 優しそうに笑う男を遊馬はまじまじと見やった。

威嚇するように男を見上げる。


「お父さん」

「お父さんと言われる筋合いはありませんが何でしょう」

 一蹴された。


「じゃあ、パパなら良いの?月夜」

「黙りなさい」

 一蹴していた。彼は愛の細い手首を強く掴んだ。愛はびくりと身体を震わせ、ごめんなさいと蚊の鳴く声で呟いた。


 「……愛さん、帰りますよ」


 燃えたぎるような眼が自分を貫いた。

 萎縮する。身体中の血管が収斂し、心臓の鼓動が早鐘のように鳴った。

――怖い。


 殺意。

殺す。

 自分の愛しているものを取るのなら、許さない。憎悪で煮え滾る怒りの眼だった。罪を犯したのならそれ相応の罰を。罪には死を。それほどの優位差が両者にはあった。


憤怒の眼。

 息が荒くなるのを感じて、ぎゅっと拳を握る。吐き気がした。胃から何かが込み上げて来て、一瞬言葉につまる。身体の穴という穴があいて何かが出たがっていた。口ががちがちと言っていた。身体がかゆい。頭が割れるように痛かった。めまいがする。耳鳴りが雷のように響いていた。身体がぎしぎしと軋んでいた。

 負けそうになる自分を叱咤して、唇を噛み締め思い切って言い捨てた。


「お父さん、心配してたんだろ。じゃあな!」


 身体中から汗が噴出すのを感じながら、それでも遊馬は何も無いように走り去って行った。



**


「だからお父さんじゃないって。結構やりますねえ」

 月夜は呟く。面白くないように眉を顰めながら。


「そうね。月夜のあれを見て、卒倒しなかったのは彼が初めてだと思うわ。」

 あれ、とは即ち愛でさえも恐怖する月夜の眼差しだ。隣に居て、眼光を浴びていない愛でさえも、少し手が震えていた。あの少年は一体どんな意思を持っているのかと愛は感嘆すらしてしまった。手を見る。爪が深く食い込んで血が流れていた。


「愛さん。どこであんな面白そうなおもちゃ見つけたんですか?」

 気に入って貰えて、と呟いた愛の眸には余り力が無かった。


「あれはおもちゃの付随物みたいなものよ。いい人そうに見えるけれどほんとは不真面目で軽薄で、女の子を抱くことしか考えていないクズ。面白いのはもう一人、二つの人格を抱えた人。名前は聖羅。彼女は遊馬くんのことが好きで、彼は私のことが好き。三角関係ってやつね。おもしろそうでしょう」

 力なく笑う。

 月夜はそうですね、と呟いた口で愛の唇を乱暴に奪った。


「ふ……っ、ん……」

 何度も角度を変えて、抵抗する愛の歯をこじ開ける。むちゃくちゃにしたせいか、血の味が二人の口内を駆け巡った。舌を入れて掻き回す仕草は、何だか月夜がいつもとは違って乱暴だった。抱きしめられて強引に唇を屠られる。愛は抵抗しようと胸板を押すが力では叶わなかった。次第に快楽が身体を駆け巡り、力が抜け始めたころ。


「劣情とは何とも、男のさがというか何と言うか――」

 唇を話して愛を抱きしめたまま、情け無さそうに月夜は溜息を吐いた。

 心なしか、身体は火照って吐いた息が暖かい。そしてまた思い出したように愛の唇を犯した。異常な性欲と強い支配欲が月夜を突き動かしていた。


「今回は愛さんが悪いんですよ。これ以上おイタをすると本気で怒ります」


 愛は伝う糸を妖艶に舐め上げると、少し笑った。いい気味、と幽かな声で呟いて、上唇を舐めた。


「遊馬くんとキスしたことに怒っているの?」

 可愛さ余って憎さ百倍――月夜は唇を噛み締めた。

 計り知れない衝撃が月夜の中で渦巻いていた。

 ――今朝には無かった見知らぬ男の香りが彼女の唇から滲み出ていた。


「僕が嫉妬するって分かってやっているんですか?」

 恨めしくそして怒気の篭った声が響く。蝉がけたたましく鳴くのを止めて、辺りは静寂に包まれていた。


「あら、嫉妬してくれているの?ふふ震えたさっきの私は小動物のように可愛かった?」

 愛は揶揄して、妖艶に微笑んだまま月夜に口付ける。


「最近、あなたがまなの方か、あいの方か区別が付けづらくて困ります」

「だから、まなは消えたって言ってるでしょう。」

 くちゅ、くちゅと唾液の混ざる音を立てて、二人は一つになっていた。


まなさんは消えたのではなくて、あいさんに混じったと考えた方がいいでしょう。先程震えている愛さんはとても嗜虐心をそそられましたし。僕にとっては一粒で二度美味しいです」

 愛からキスをしてもらえて幾分か気が晴れたのか、さっき程機嫌を損ねることなく月夜は続けた。


「でも他の男の臭いをつけて帰ってくるのは止めてください。マーキングされているみたいで酷く不愉快です」


 愛は返事をせず、唐突に唇を月夜の鎖骨に這わせた。

「く……っ」

 ふと快楽が月夜に駆け巡る。しかし、月夜苛立ちを覚えていた。愛はアメとムチを使い分けるのが巧いのだ――。そしてそれに翻弄される彼自分も酷く腹立たしい。快楽に耽って喘がされている自分に酷く劣情を覚えた。アメは甘美なる物過ぎて、月夜には抗い難い衝動となって身体中を駆け巡る。


 ふと、愛は月夜を覗き込んだ。猫の眼のように細く鋭く尖った眸が、愛の眼から映し出されていた。

「聖羅はとっても綺麗なの。心の中にドロドロと渦巻いたものがあって、嫉妬とか絶望なんかで一杯溢れているの!ああはやく壊したい!」

 愛はまるで舌足らずの子供のようにはしゃいだ。月夜にめいいっぱい抱きつく。

 愛は月夜の耳の裏を舐めた。精一杯背伸びして、月夜の服を引っ張る。


「月夜。お願い。少しだけそっと見守っていて?月夜、愛してるから、ねえ?お願い……」

狂気を、快楽を、――……満たすために。





**


――まるで、空蝉の様だと思った。

 蝉の抜け殻のよう。そして抜け殻のままに踊らされる道化のよう。


「遊馬?」

 重い鞄を肩に掛け、綺麗でもない廊下を歩いていると、遊馬がいた。

「ああ日暮」

 あちらも気付いたようで、近寄ってくる。


「すごい汗、大丈夫?」

 ちょっと本気で呟いてしまうほど彼の身体には水が滴り落ちていた。

 ちょっと様子がおかしい。どうしたの?と尋ねようとすると、彼「ははははっ」と力なく笑った。さっきよりはましだ、と言っていたけれどそれでも尋常な様子ではなかった。

「本当に大丈夫なの、遊馬」

遊馬と呼ぶたびに胸が締め付けられる。いつもそばにいて名前を呼ぶことができたらいいのに、彼の名前を呼ぶたびにいつもそう思う。憎まれ口を言うたびに、もっと甘い言葉をささやきたいといつも思う。

夢なのだ。空蝉のように空っぽの夢。夢など抱かないほうがましだと思いながら、そう思ってしまうほど私は狂ってしまったのだ。遊馬に会いたいと思いながら、会うたびにいつも失望させられる。彼が共にいたいのは私ではないと気付いてしまうから。

遊馬は口を開いた。

「日暮」

「なに?」

「日暮。いきなりなんだが、今の俺ってどう思う?」

「え?」

 いつもの遊馬ではなかった。

「俺さ、」

 ちょっと奇妙だ。

 かなり険しい表情で下を向く姿は、何かに怯えているように見えた。


「俺ってねえ。やっぱり人間だから女の子と付き合いたいわけよ」

「うん」

 私は心がざわめいたけれど平静を装った。

「もうちょっとで付き合えそうだったんだけど、肉食動物にすんごい目つきで睨まれてさ。『先に唾つけたのは俺だ!』ってな感じで。で、俺は逃げて帰ってきたわけ。言っている意味分かる?」

 彼は又笑った。でも痛々しいその笑みは、直ぐに消え去った。


「何が何だか、分からないけど、とりあえず負けたのね。負け犬さん」

「ふん」

 力なく笑う姿は、ちょっと疲れが滲み出ていた。


「俺どうしたんだろう」

「どうしたのでしょうね」

「俺、ほんとうにどうしたんだろう」再度呟く真っ黒な彼の眸には私が映っていた。すると、彼はしゃがんで膝を抱える。汗が滴り落ちていた。何に追い詰められているのか、

「日暮、助けてくれ」

「何言ってんのよ。もう行くわよ」

 これ以上構っていたらダメだ、と自分の中のサイレンが鳴り出していた。

 警報。さっさと去らないと、この気持ちが隠せなくなる。「あたし」が爆発しそうだった。遊馬が自分を頼ってくれて、私だけを見てくれていた。濡れそぼった身体を抱きしめて自分のものにしたかった。でも実際彼は私のものじゃなかった。干渉する権利なんて持ってない。でも近くにいるために私は自分を戒める。そうやっていつも過ごしてきた。


私は彼とともにいるために断ち切ろう。

 

「まったく何やってるんだか。せいぜい頑張ってね。じゃ、私帰るから」

 そういって、振り返った瞬間――




 「何か」が、起こった。


  ――ドクン

「……っかは……っ」

 私は咄嗟に痛む胸を掴んだ。身体が心臓と呼応して大きく軋む。

――ドクン。

発作だ。星羅が現れてしまう。どうして、と軋む心臓を押さえつけながら呟いた。今までになかったことだった。遊馬の前で星羅が出てこようとするのは。このままではこの想いを隠すことができなくなる。身体が燃えるように熱かった。

「おい、日暮? どうした?」

 遊馬が私の顔を心配してか覗き込む。私は苦しみながらその顔を必死に見た。眼に焼き付ける。憎らしいほどの端正な顔だった。遊馬はきっと私の事嫌いになるだろう。私は諦めてふっと息を吐いた。もう共にいることができないのなら私の人生はこれで終わりだ。私はそのまま私の意識を手放していた。


side:星羅せいら一人称「あたし」


「……おい! 日暮!」

 げほげほっと苦しそうに咳いて、喉を押さえる。ここまで抵抗しなくてもいいのに、聖羅。何だかもう一人の自分が少し忌々しかった。

――でも乗っ取ってやったわ。愛しい遊馬の前で。

少し優越感が湧いて、ザマーミロと心の中で吐き捨てた。

「大丈夫か!?」

 必死で遊馬はあたしの背中をさすってくれていた。ああ遊馬、そんなところが好き。彼の顔は端正で整っていた。

「遊馬……ごめん、ちょっと喘息の気があって。ごめんね」

 聖羅みたいに呼んでみる。あたしはいつも聖羅の眼を通して遊馬を眺めていたけれど、私はいつもあなたのことを想っていた。そう言えばはじめましてかもしれない、きっとあたしのことが分からないから自己紹介をしていたほうがいいだろう。

「あたし……星羅って言うの。初めまして」


「はぁ? 急に咳き込んだと思ったら、何意味不明なことを言ってるんだ? ほんと心配させるなよ」


 なんて優しい人なのだろう。心配してほしいがために自傷を繰り返す人の気持ちが本当によくわかる。遊馬が好きだ。手首に傷をつけて心配させたくなるぐらい好き。彼の全てを食べたいぐらい好き。

あたしはふふ、と笑って鞄を抱え込だ。いつもならこう思っていたらいつの間にか聖羅の人格に交代していたけれど人格が交代しないということは、もう二度と遊馬は聖羅会うことはないということだ。彼女には可哀想だけどあたしが今のホスト(主体)だ。彼女に邪魔はさせない。もう二度と。

「大丈夫か? 保健室に行くか?」

「ああ、ごめんね。ありがとう。ちょっと付いていってくれる?遊馬もちょっと調子が悪そうだから休憩しに行かない?」

休憩、という言葉の真意を悟ったのか否か、彼はああと言って歩き出した。


「遊馬……そう言えば愛ちゃんに会ったの?」

「愛ちゃん?会ったけど?」

「ふうん」

 面白くなかった。そんな気がした。彼の周りには障気が充満していた。禍々しいくて面妖な気だった。瘴気は唇から洩れている。万一あたしがそれに触れてしまったら即座に気が違って狂ってしまうだろう。彼が今立っているのも不思議だった。どこまでも頼りがいのあるたくましい人だと胸が躍った。だけど次に会ったら、愛を殺してやる。

「……愛ちゃん、もう帰っちゃったの?」

「愛ちゃんは……えーと、帰ったんじゃない?多分」

「そう」

 多分それどころじゃなかったんだろうと容易に予測できていた。だってこの障気だもの。必死で振り払おうとしたに違いない。あたしはそっと手で紫の障気を手繰り寄せてみた。まるで蜘蛛の糸のようだ。ねばねばしていて、なかなか離れなかった。愛という人物が恐ろしかった。でもこの気配は愛だけじゃなかった。


「誰か他の人もいた?」

「よくわかったな」

 あたしはまあね、と軽く返事をする。嗚呼やっぱりこの障気は愛のものだけでは無かった。黒々と円を描いて、彼の身体に纏わり付くようだった。あたしは何だか少し気分が悪くなった。こんな障気見たことない。こんなに禍々しくて恐ろしい障気にはあたしは感じたことはない。ふとあたしが何だか寒気がして、後ろを振り返った。長い長い廊下の先。

そこには彼女がいた。笑っていた。美しく笑っていた。

「あら、馬場くん。聖羅。まだ帰ってなかったの?」

 鈴を転がしたような軽やかな声。黒黒と輝く髪。そしてあたしを射ぬくような眼にあたしは少したじろいだ。

「……愛ちゃん……」

嗚呼あたしには分かる――おびただしい程の胞子が散っていた。

美しい、麗しい、艶めかしい、恐ろしい。

「あら、私の事は『愛』で良いのよ。……『星羅』」

 星羅、と名前を告げた瞬間障気が爆発した。あたしは捕まるまいとして後ずさったけれど、瘴気はあたしを覆い隠して攻撃してきた。ふとあたしはたまらくなって自分の意識を手放した。


「……あなたより聖羅のほうが好きなの。だからごめんなさいね」


side:聖羅せいら一人称「私」


 彼女がそう呟いた時には私はもう「聖羅」になっていた。はあと息を吐く。倦怠感に襲われて気を抜けば崩れ落ちそうだった。息が苦しい。何だかこの空間はとても圧迫感があった。星羅が主導権を握って、私はもう二度と表に出て来られないと思っていた。だけど出て来られた。愛ちゃんが私を引っ張り出したから。

「愛ちゃん、私のこと……」

「好きよ。でもさっきの女は嫌い。だって気に食わないのですもの」

 気に食わないから嫌いだとは何とも子供じみた理屈だと思った。でも愛ちゃんの笑みに私は幼さを微塵も感じ得なかった。禍々しかった。


「そうじゃなくて。私と星羅のこと知ってるの?」

 愛ちゃんは笑みを深めた。私は息を整えようと息を吸い込むほど息苦しくなってくるのが分かっていた。


「知ってるわ。遊馬くんにも言ってあげたら?眼を丸くしてるわよ」

 私は隣に目を向けると呆然とした遊馬の姿があった。


「どういうわけ?話が見えないんだけど」

「また今度ね」

また今度があるのだろうか。

遊馬は空気を読まずに口を挟む。

「お父さんは?」

「嗚呼、パパ?帰ったわ。じゃあ帰るね。ばいばい」

 愛は笑った。でも私たち二人とも口を噤んだまま、笑っていなかった。私は圧迫感に解放された事に安堵を覚えていた。


「……なあ、日暮」

「何よ」

「俺お前のことが好きだ」

私はドキリとした。彼の真剣な眼差しに。そして恐怖した。私はもう逃れられなかったから。

「急にどうしたの?」

「ずっとお前のことが好きだった」

「いきなり何」

「好きだ。どうしようもないくらいお前が好きだ」


心臓が止まった。

「あっ……」

 遊馬の冷たい手が素肌を刺激する。堪らず私は声を上げると遊馬はその声を封じるかのように口を塞いだ。

「ん……むぅ……」

何が何だか分からなかった。

「ん…………」

 苦しい。唾液が混ざりあって、息もつけない。私は苦しくて遊馬の堅い胸勢い良く押した。遊馬は構わずに唇をぺろりと舐める。悲しいほどに冷たい眼をしていた。


「好きだ、聖羅」

 胸の下の線をなぞり、触るか触らぬかの境で持ち上げる。

「……聖羅……」

 遊馬は耳の後ろに唇を這わせた。視線が私の胸を貫いていた。

「聖羅、かわいい、かわいいよ聖羅」

甘い言葉に溶かされそうだった。今までの「星羅」が想像していた妄想よりもずっと甘かった。もう秘所は濡れそぼっていて、つうと太ももに滴れていたのが自分でも分かった。遊馬は手をそこに這わせた。下着の上からそっと押す。私が堪らなくなって悲鳴を上げてしまった。そのまま遊馬が屈んだと思ったら、私をひょいと抱き上げて、保健室に向かう。


「どこ……に行くの?」

「ベッドの上」

 そう言って遊馬は首筋を噛んだ。私は下腹に圧迫する遊馬を感じていた。見上げると、苦しそうに眉を顰める遊馬がいた。

「ごめん、限界だ」

 ゆっくりと保健室の扉を開けた。カチャリとした音がもう私達は元に戻れないことを示していた。

滑るような指、なめらかな唇。汗のにおいがすこし、嬌声。

声を出してあえぐ、もっと下さいと。こんなちっぽけの私に生きている実感を下さい。そんな声が蝉の鳴き声のように大きくなっていく。

だけど遊馬は亡霊のようにぼんやりしていた。何かに操られているようだった。

それでも。

好きだ。

遊馬が好きだ。

たとえ遊馬の中身がないとしても、蝉のような抜け殻だとしても私は遊馬を愛している。


「――は、あっ」

遊馬は自分のものを全て吐き出したあと、私を抱きしめた。蝉が奏でる音色だけが私たちの吐息を覆い隠していた。

「気持ち悪い」

ぽつりと言う。だけど彼の返事はなかった。愛は彼の思考を奪ったのだろう。ベッドの片隅にあるホルマリン漬けの脳みそがそれを鮮やかに表わしていた。


「最悪」

淡々と脱ぎ捨てた制服を着る。行為の前はあんなに邪魔でしかたがなかったのに、いざもう一度着るとなるとどうしてあんなにぐちゃぐちゃにしたことを後悔するのだろう。それと同じで、行為の前はあんなに愛おしくてたまらないものが、行為の後ではどうしてしちゃったのかしらと頭をかしげてしまう。


心が軽い。今まで重くてしかたがなかったものが軽い。ふと上を向いた。彼女の影があった。

「愛ちゃん、いるんでしょ」

甘い吐息を吐きながら彼女は現れた。甘い吐息と魅惑的な眼。

「聖羅。久しぶり、おかえりなさい」

おかえりなさいだって。笑っちゃう。ただなんとなくしっくりくるのが分かる。今までの私はどこかに浮遊して地に足をつけていない。そんな気がしたから。

「どうさっぱりした?ずっと深く何かを抱えていればいるほど、それを解き放ったとき本当に気持ちいいものよね。濃ければ濃いほど狂ってれば狂っているほど快感になる。ただよくある頭がおかしいキ○○○○ではだめ。美しい狂気ではないとダメ」

「その点、遊馬は合格だと?」

「遊馬?」愛は誰だったかしら、と頭をひねる。「ああ、あれ?」

隣には横たわる大きな物体があった。生前は大きくてたくましくて気持ちよくしてくれた体がころんと横たわっていた。彼が脳みそを抜き取られる前の最後の言葉は「どういうわけ?話が見えないんだけど」だからなんと可哀想なのだろう。そして最後の私の返答は、「また今度ね」だった。彼には「また」なんてなかった。遊馬の短い一生はそんな短い会話で終わりを遂げた。それ以上もそれ以下もなかった。

「そうね。あれ、ね」

鼻で笑った後、聖羅は近くにあったハサミを取った。


「聖羅、どうしたの」

「ううん、なんか面倒になったの。何もかも。」

「うん?」

「最期の言葉を聞いてくれる?」

「ええ、いいわよ」

普通の女子高生の会話ではないと思った。

「人ってね、何か重いものを抱えているからこそ生きていけたんだなあと思ったの。重いものが無い状態、何もない状態だと、未練も、恋慕も、情愛もなにもないってことで、この世に何も思い残すことができないの。重くてつらいものがあるからこそ、蝉のように大きな声を出して、『もっと生きたい』って言うはずでしょう。だけど私はあれに抱かれて、心に住んでいた闇(星羅)もなくなって、全てが取り払われた状態で。テストだってどうでもいいし、ましてや自分の将来だってどうでもいい。全てが軽くて、重い人生が、ちっぽけなものだと思うようになったの。どうでもいいと思うようになったの。だから私はそれを終わらせようと思う。何が言いたいかというと、遊馬がどうでもよくなってしまったの。それではだめかしら」

「……いいえ」

「愛ちゃん、私、こんな人生だったよ」

「うん」

「じゃ、さようなら」

「またね」


そして私の短い一生もこれで終わりを告げる。


**



「うわー、陽菜さん! 今日はすき焼きですかー」

「ふふ、愛が買ってきてくれたの。ね、愛」

「感謝してね。でも味はまあまあかしら……まあまあ狂気だったからねえ。でもお腹すいた。あら、そう言えば蝉が鳴かなくなったね」

ふふん、と月夜が鼻を鳴らすといつものように講釈を始めた。

「中国では蝉は生き返り、復活の象徴としてすんごい価値があるものなんですよ。昔は地位が高い人が死ぬと、蝉の彫刻を口にいれて埋葬したそうです」

「なんで?」

「地中から地上に出て飛び立つ。風流じゃないですかあ」

するとママが横から口を挟んだ。

「一筋の夕日に蝉の飛んで行く、って正岡子規も言ってたのよ。風流よねえ」

「ママすごい!」

「うぬっパパのことはどうでもいいんですか!」

「パパの話は長いからさあ」

「ま、愛ったら」


一つ、一つ肉がなくなっていく。

ふふ、さようなら、聖羅。

愛は、にっこりとほほ笑んだ。


時を経て

あれほどの声が鳴りやんだ

生きたいと、誰か私を見てという声。

それは生命に執着しなくなった

抜け殻で、現身うつしみで、空蝉うつせみで、しかばねで。


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