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蜉蝣の、唄  作者: ouka
6/9

絡む蜘蛛の糸―束縛―2


 どこで螺子ねじを落としてしまったのだろう?

 まるで蜘蛛の糸が脳を巣食っているかのようにぼんやりとしていた。周りがフィルターがかかっていて視界がかすむ。

 ただ一つ。鮮明に残るのは愛しい妹の姿だった。


 俺はあの日のあと、ぼんやりとしたまま夜の街を徘徊していた。なんだかおかしい。そう認識できただけでもまだ理性はあったということだった。


「陽菜」


 ネオンが瞬く大都市。宝石を引っ繰り返したような煌びやかな風景。全てが俺をうんざりさせた。

「陽菜……?」 

 無意識といった方がいいだろう。ネオンが輝く中で陽菜を見つけたのは。


「――ひ」

 もう一度。今度ははっきりと彼女を呼ぼうとして、嬉々として声を張り上げる。

 

 と。

「……寂しいの、慰めてくれる?」

 陽菜が囁いて言う。陽菜を抱く見知らぬ男に。魅惑的に。扇情的に。昔の純情さも素朴さも微塵も感じさせようとはしていない様子で。陽菜は男を興奮させる身体のラインぎりぎりに沿った服を着て、赤いルージュの唇が光った。長い睫毛に細い腰。するりと伸びた美しい手足。


――陽菜の抱く男の姿。

 俺はもう一度唾を飲む。そして俺の頭の糸は弾け散った。


――俺の蜘蛛の糸は『俺の理性』を留めていたのだと。失って初めて知った。



**

 

 狂ってから初めてしたことは、男の整理だった。陽菜に近づくものはもちろん、陽菜に好意を抱いているもの、陽菜と接触したものですらことごとく去ってもらった。一番苦しんでこの世を去ってもらったのは陽菜を抱いた男たちだった。こちらの会社で圧力をかけたあと、借金地獄においこみ、人を使っておどし、海外で殺した。自殺したほうがましなほどの苦痛を味あわせた。原型をとどめていないほどいたぶったので、警察は見つけられないと思う。


 次にしたことは、陽菜の身辺調査だった。母親の容態、彼氏の有無、今までの人生。あらゆる手を使って調べさせた。陽菜は意外と寂しい人生を送っていたようだった。小学生で俺と引き離されたあと、中学生になり片親がいないことでいじめられた。最近そのいじめっこは上司や周りから毎日いびられいじめられ鬱になって自殺したようだ。


 陽菜は高校生になると接客業を始めたが、店主に見初められしばらくは付き合っていたらしい。そいつはあろうことか陽菜を暴行し別れたあともストーカー化していたようだ。だが店主は火事で死んだ。自分で家に火を付け家にいた両親、妻、小さな子どもを死なせてしまった。店主はさぞかし部屋中うじゃうじゃと蠕動ぜんどうする虫が恐ろしかったのだろう。


 大学生になると本格的に夜の仕事を始めた。母親の治療費を払うために。なんとけなげで可愛い子なんだろう。彼女の負担になるといけないと思って、ここ数日母親の薬には遅延性神経毒を混ぜているのだが、なかなか死ななくて困っている。我が母親ながら変に生命力が強いので驚きだ。


 そしてなにもかも整ったとき、俺はさも偶然であるかのように陽菜の店に入り、「店の一番(陽菜)」を指名した。陽菜がこの店の一番であるのは他の女が陽菜を邪魔しないように手回ししていたからだ。やはり陽菜は一番輝いているから。一匹野原を舞う蝶のように。


 さて、話は陽菜と瞬間に戻そう。


 「――ヒナちゃん?――陽菜ひな?」

 偶然を装って店に入ったものの俺は呆然としてしまって煙草の灰を落としてしまうほどだった。

陽菜の肢体が美しかった。すらりと伸びた手足、大胆に開いた男を誘う胸元。高く結い上げられた髪の後れ毛。俺は陽菜にすっかり目を奪われてしまった。

「何だあ、社長。今日は不機嫌だったのに、ヒナちゃん見ると変わっちゃってー!」

「ほらほら、ヒナちゃん困ってるじゃないですか!」

 部下がはやし立てているのを俺は殆ど聞こえていなかった。ただ、陽菜の姿を隔離したかった。男の汚い視線から遠ざけたかった。誰の男も遠ざけたかった。

 はっとした。

――誰にも見せないように閉じ込めて俺のものにする。


「そうか、そういう手があった」

「社長?」

 俺はそうぼそりと呟いた。部下を無視して、煙草を灰皿に雑に放り込む。陽菜の手を掴んで、店を出た。不意に彼女は俺の手を振り払い叫んだ。


「――放して!!!」

「もう、遅いのよ。あの頃の私はもう居ないわ。帰って」


 あの頃の私はもう居ない?それなら俺も同じだと思った。弱くて情けない自分はもういない。車の後姿を見つめているだけの俺はもういない。男がいてすごすごと帰った俺はもういない。

 陽菜の手をもう一度握り締めた。陽菜は泣き叫ぼうとも気にしなかった。俺はは手を振り上げてタクシーを呼びとめると、狭い車内に彼女を押し込めた。


「いやっ!何するの!?」

 陽菜こそ、何をしていたんだ。俺を頼ってくれればよかったのに。俺は少し怒りを覚えつつ、陽菜を問い詰めた。陽菜を苦しめる母親を殺さねばならない。

「陽菜。母さんの居場所を言え」

「運転手さん。すいません、止めてもらえますか?」

 陽菜は俺の言葉を無視して、運転手に告げる。運転手は困ったように俺の様子を窺った。俺はそれどころじゃないんだ、と運転手を睨み付ける。どちらが上の者だか分かっているだろう。


「――止めないで下さい。さあ陽菜、母さんの居場所を言うんだ」

 母親の場所なんてとうに知っていたけれど、彼女に言わせるということが彼女への罰だった。俺が母さんを殺して、一生心に抱えて俺のことだけを考えられるようにさせてやる。優しい彼女のことだった。あの時居場所を教えなければとひどく自分をさいなんで生きるだろう。


 彼女は悲しそうに言った。

「私は穢れてしまったの。そしてあの頃のような私じゃないわ。あなたはあの暖かいおうちで一生暮らしてればいいのよ。別に恨み言を言ってるんじゃない。私を放っておいて。お母さんはちゃんと私が面倒を看てる。お願いだから」


――暖かい、お家?

 あれが? あれが暖かいお家、と言うならば他の家はどうなるというのだろう。

 表面だけ良い義母親だった。しかし、新しい義母親は俺を好いて、父さんに毒を盛った。世間では病死ということになっているけれど。俺が中学生のとき義母はことあるごとに俺を贔屓し、俺に甘え、寝室に何度もやってきた。気持ちが悪かった。彼女は小さい自分の娘さえ俺に近づくのも許さず、話しかけようとすると小さな娘を棒でたたいた。最初の頃は俺に近づくと少し注意する程度だったが、次第にどんどんエスカレートしていき虐待するようになった。

 俺は何度小さな少女を守ったか知れない。それでも妹とは思えなかった。臆病で、自分のことしか考えず、お兄ちゃんと慕う姿に辟易した。お兄ちゃんと呼ばれるたびに、お前は妹じゃないと心の中で否定した。

 父さんも父さんで義母に薬を盛られたと知りながら死んだ


 俺はふうーと深い溜息を吐いて視線を前に戻した。怒りが最高潮に達しかけていた。

「分かった。けれど母さんの安否あんぴだけ教えてくれ」

 俺は陽菜の腕を放した。これ以上握っていると陽菜の手を壊しかねなかった。


――陽菜。

――泣きそうな、その姿ですら愛しい。

――俺だけのものに。

――陽菜。蝶よ、舞い迷っておいで。



 陽菜が案内したのは病院だった。長く続く階段はまるで死の階段を上っているようだった。

 病室の前の名札を見ると、母の名がかかっているのを見て、母さんは入院していたのだと、改めてそう思う。薬品臭い病室だった。病室の死の匂い。母さんは呼吸器をつけて死んだように眠っていた。実際もう命は短いのだろう。呼吸器の音と、薬品の臭いが彼女の命の短さをあらわしていた。

ひっそりと呼吸器の音だけが響くこの部屋は、とてつもない高揚感・・・を俺に押し付ける。


――母さんが、いなくなれば。

――陽菜の心残りはなくなって。

――陽菜は俺だけのものになる。


「お母さん」

 陽菜が俺に聞こえないようにひっそりと言った。俺は恍惚とした表情を隠しながら、寒そうで扇情的な格好をした陽菜に俺の上着を掛けてやった。


「母さん」すまない、と。

 俺は噛みしめて言った。もうすぐ陽菜を手に入れられる、と嬉しさを隠しながら言った。


「面倒を看ている、とはこういうことか。引っかかっていたんだ」

 俺は優しそうに母さんの頬を撫でる。けた頬だった。

 今まで陽菜を養ってくれてありがとう、ただ陽菜の重荷になった責任は重いですよ、と心の中で呟く。不思議なもので全く後悔していないことがおかしかった。優しい母が大好きだったはずなのに、今は陽菜を捕まえるための道具として見ているなんて。こんな息子ですいません、と笑ってしまう。母さんはなんとなく微笑んでいるような気がした。

 俺は依然として扉にたたずむ陽菜を振り返った。心なしか、悲痛にくれた表情をしている。

「治療費は?」

「………え?」

「大変だったろう。だから夜の仕事なんてしてるのか?」

 俺は、無表情で陽菜に詰め寄った。


――逃げてくれ。早く。

 心に居るもう一人の「俺(理性)」が叫んだ。


「……そう、と言えば満足なわけ?大金持ちの貴方とは天と地との差ね。地の底に這っているような私はあなたのような天空にいる人と一緒に暮らすことはできないの。だから」


 もう良いでしょう?と彼女は言葉を続けた。

 彼女は表情を隠しているが、俺には分かった。彼女の真意を。俺を遠ざけて、俺に迷惑をかけないつもりだ。俺が大金持ちだから自分のような穢れた存在とは関わらない方がいい――。そう思ってのことだろう。陽菜はなんて優しいんだろう。


「……そうか」

 俺はそう言って、母の方に向き直った。


――嗚呼、母さん。少しの間だけだったけどこんな俺を養ってくれてありがとう。

 こんな息子を産まなければ、母さんも苦労しなかったのに。母の頬をもう一度撫でた。


「さようなら。母さん。今までありがとう」

 俺は母さんに手をかける。ゆっくりと。それ俺の最後の理性だったのかもしれない。それでも手の力は強くなっていき、確実に気管にくいこんでゆく。確実に母を死に追いやっていった。


「――ゴホっ!!!!」


 ピー…


 機械が母さんの危険を知らせると、陽菜はハッと我に返ったようだった。

「ちょ……っ!何するの!?止めてっ!!!!やめて!!」

 陽菜は俺の手を掴んだ。思い切り俺の頬を張りとばす。彼女の眸からぽろぽろと涙が溢れ出してきた。容態の悪化を知らせる機械音が、ただ単調に病室に鳴り響いていた。


「母さんのために、お金を稼ぐために身体を売ったのか?」

 俺は、独り言のように言った。彼女は眼を赤くしながら、答える。

「なによ。あなたに頼れば良かったわけ?双子だったあなたに……とても幸せな生活を送っているあなたに?」

 ……――幸せな、生活。

 一体何のだろうと思う。俺は陽菜だけいればいいと思っているのだけど。

「そうだな」

――陽菜が生きていくために身体を売ると言うのなら、俺は彼女の全てを買ってみせよう。


 強く強く彼女を抱きしめる。彼女をこれ以上、放さないように。

 蜘蛛の糸に掛かった蝶々を、取り逃がさないように。


「私たちの前から消えてちょうだい!あなたは兄でもなんでもないわ!」


「それは好都合だ」


――これからの行為をするに当たって。

 陽菜の手首を掴む。彼女のルージュの唇を大きく塞いだ。今まで飢えていたかのように彼女の唇を貪った。もう我慢が出来なかった。


――陽菜、愛してる。

 彼女は俺の舌を噛んだ。反射的に陽菜から離れるが、諦めず彼女を貪る。血が出ているが、さほど気にはならない。俺はにやりと笑って彼女の怯えた目を覗き込む。

「躾がなってないね。陽菜は」

 ぶるぶると震える陽菜を見ていると醜い征服感がむくむくとあふれ出る。舌を彼女の首筋に当てる。


――どれくらいの奴が、彼女を手に入れたのだろうか。

――誰が、彼女を抱きしめたのだろうか。

――どこのどいつが、彼女を抱いたのだろうか。


 全てを消した。だけど許せなかった。もう一度苦しめて殺したかった。

 彼女の嬌声が響く。満足して、そして落胆して…彼女にこう言った。

――嗚呼、陽菜は蜘蛛に捕まってしまった。


「何人……陽菜のこんな喘ぎ声を聞いたんだろうな」

 俺はそのまま彼女の唇を奪い、無理やり彼女を突き上げた。



**



 白濁した液体を払う。気配を感じて仰ぐと真っ白なワンピースを着た少女が部屋の扉に佇んでいた。

陽大はるとさん。ああ陽大伯父さまと言うべきかしら。『ママ』を綺麗にしてくれてどうもありがとう」

 扉に掛けていた手を流麗に下げ、長い髪を掻きあげる。そこにはうっすらと笑みが浮かんでいた。俺はその笑みを見て背筋に悪寒が走った。


「お前は、あの時の……」


「処理にお忙しいところ申し訳ないのだけれど、『ママ』は貰っていくわね。嬉しい……『ママ』、とっても綺麗よ。ウエディングドレスに包まれてるみたい」

 少女は恍惚とした表情で陽菜を見ていた。真っ白なワンピースが揺れる。

 俺は思い切り睨み付けて、口を開いた。


「陽菜に何をするつもりだ!?」

「あら、心外ね。その陽菜に何かをしたのはだあれ?」

 言葉に詰まる。振り返って気を失う陽菜を見つめた。

――俺は陽菜に何をしていたんだ?

 呆然とする俺に、女は魅惑的に口角を吊り上げる。


「ママも可哀想ね。こんなに想う人にこんなことをされて。それも血の繋がったお兄ちゃんだなんて笑っちゃうわ」

 小女は言葉を続ける。

「知っていた?陽菜は一度陽大伯父さまを訪ねたのよ。でもねあなたはもう一人の妹にご執心だったものだから、諦めて帰っちゃったのよ」

「違う!!俺は……」

「あんな子妹じゃないって?ご執心じゃないって?ふふ、何度も笑わせないでよ。つらかった陽菜にそんな楽しい風景を見せつけたのはあなたでしょう」


 俺は咄嗟的に顔を背けた。


「どうして寂しい陽菜を放っておいたの?」

――やめろ、


「どうして陽菜を抱いたの?」

――やめろ!!!


「どうしてあなたは陽菜を――愛したの?血のつながった双子なのに」

――やめろーーーーーーーーっ!!!!!!!!


「さ、陽大伯父さま。自分の罪を思い知った?それだけで許してあげた私たちに感謝して欲しいわ。さあ、ママをちょうだい。じゃないと分かってるわよね?」


 彼女が近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと。ひたりひたりとまるで幽霊のように。

 何が、起こっている?










「……死んだ?」

 愛は後ろにいる月夜に問いかける。月夜は笑いながら

「いいえ、亡くなっていませんよ。息はあるようですけれどね。ですが最近の愛さんはこわ――」

「何か言った?」

 愛はこれ以上ないほど満面の笑みで月夜を振り仰いだ。月夜はびくりと身体を震わせる。

「い、いえいえなんにもございません」

 愛はにっこりと笑う。

「陽大伯父さまってまるでゴキブリみたい。生命力は強い、欲望も強い。これでもまだ生きているでしょう。これで生きているなんて本当にゴキブリだわ。頭と体を切られていても生きているゴキブリみたい。笑っちゃう」

「気持ちは分からなくないですよ陽大さんのこと。あ、こういうのってお義兄さんって呼ぶべきなのでしょうか。私も愛さんにご執心ですからねえ。さ、陽菜さんを運びましょう」


 月夜が陽菜を抱え上げようとすると愛はそれを制して言った。

「あんまりべたべた触らないでね。せっかく綺麗なのに、月夜のきたない手で穢しちゃうでしょ」

 月夜はがっくりとうなだれた。



**



『――より、○×株式会社、社長はトラックにねられ現在意識不明の重体――』

「あら、この近くね」

 髪の長い、美しい女性が掃除機を止める。

 彼女は「愛も気をつけなさいね」と傍にいた『娘』に呼びかけた。少女は笑う。

「私はもう小学生じゃないのよ」


『――より、○×株式会社、社長はトラックにねられ現在意識不明の重体――』


 無機質なニュースキャスターの音声が淡々と事実を述べる。陽菜は掃除機を止めてソファに座りこんだ。何だろう、酷く頭が痛い。肩が凝ってるのかしら? 耳鳴りが鳴っている。疲れているのかもしれない。

 座りながら傍に有った山茶花をパチン!と勢い良くはさみで切った。庭で咲いていた美しい山茶花。牡丹が良かったのだけれど、牡丹は虫に喰われて駄目になっていた。


 ニュースキャスターが先程の言葉を繰り返していた。その経営者は結構な有名人らしく、画面アップで顔が映し出された。

 こういうのって、ご家族はどんな事を想ってテレビを観るのかしら。どんなに悲しく想うのかしら。ひとごとのように感じてしまうけれど、例えば愛や月夜が居なくなってしまえば、私はきっと半狂乱で泣き叫んでしまうだろう。嗚呼、ひどく気分が悪い。ごめんなさいね、と思いながらテレビのスイッチを消そうとする。少し手が痙攣・・したように思ったけれど構わずスイッチを押した。


 ――嗚呼、嫌だ。疲れてる。今日は愛に家事を手伝ってもらおうかしら。

 そんな事を考えていると、月夜、愛しい旦那さまが帰ってきた。


「お帰りなさい。お疲れさま」

「嗚呼、疲れましたよ~。愛さん良い子にしてましたか?」

「ええ」

 月夜はゆっくりとソファに座って、テレビのスイッチを付ける。


『――より、○×株式会社、社長はトラックにねられ現在意識不明の重体――』

 チャンネルを変えているとさっきと同じようなニュースが流れる。すると、気まずそうに月夜は私を振り返った。

「陽菜さん。大丈夫ですか?」

「えっ?どうして分かったんです?ちょっと身体の調子が悪いの」

 ちょっと、愛しい旦那様は詰まりながら

「……陽菜さん。僕は、あなたの事愛してますよ。あなたが誰の事を愛していようと」

「えっ?急に何を言うんです。私もよ。愛も、あなたも大好きよ」

 月夜は安心したように微笑んで、ゆっくりと立った。私の傍まで歩み寄り言った。


「雲想衣裳花想容 春風払檻露華濃 若非群玉山頭見 会向瑶台月下逢」

 彼は手をゆっくりと私の頬に添える。何をしているの?と問おうとしたら、しずくが彼の指を伝っていた。私の涙だった。どうして私は泣いているのだろう?

「どういう意味……?」

「雲は貴方の衣装のようで、ここに咲いている牡丹の美しさは貴方の容貌のよう。気持ちのいい、春に吹くような風が吹き抜け、美しい雫がキラキラと輝いている。もしこんなに美しい女性と会おうと思ったならば、西王母の住む群玉山のほとりへ行くか、仙人の住むという瑶台へ月夜の晩に行くしか会えない、と。李白が楊貴妃を賛美した唄です。美しい唄ですよ。僕大好きなんです」

「でもあなた残念だけどこれ牡丹じゃなくて、山茶花さざんかよ」

「えっ!じゃあ、李白にごめんなさいといっておきましょう。結構訳でもあやふやな所がありますし。」当時の中国の昔の花といえば牡丹なんですよ、と月夜が胸を張って言った。

「そうね。ごめんなさいと言っておきましょう。あら、そういえば、愛は?」

 すると、今までの冷静な態度とは逆に急に月夜は慌てだした。


「えっ、もももももしかして、ゆゆゆゆ誘拐!?あっ、僕外探しに行ってきます!!」

 ピュー!って擬音語が似合いそうな様子で外に出て行った。私は笑ってしまう。嗚呼、こんな毎日がこれから続いて欲しい。そう願って。


「灯台下暗しってね。多分家のどこかに居るでしょう。お昼寝とかしてるんじゃないのかしら。愛―!どこに居るの―!?」

 私は階段を駆け上っていった。

「愛――!!」








 無機質な音が響く。


 ガガ、ガガガガ…


『――○×株式会社、社長はトラックにねられ現在意識不明の重体――のニュースですが、先程意識を取り戻しました。だが依然重体…――』





ねばりと

執拗に

そして、憎しみを持ったかのように

蜘蛛が糸を紡ぐ

対象を放さぬように。何事も束縛するかのように

それはまるで自ら赤い糸を、蝕むかのように



※引用※清平調詞・李白







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