葬る蝶々―脱皮―2
「んんっ……やっ!そんなに……」
私は恥じることなく、男を求めた。一瞬兄の名前を呼びそうになりながら、喘ぎ声を出す。私は、唇を男の堅い胸板に寄せた。彼の手を兄の手だと思いつつ。彼と愛しい兄を重ねながら。身体が一気に弛緩した時は現実を目の当たりにして絶望しそうになった。
嗚呼、これ程私は陽大を求めていたのだ。陽大だけを頼りにして、陽大だけを想っていた。この世界が許さないとしても私はこの気持ちを隠し続けることはないだろう。
彼の可愛い新しい妹。暖かい新しい彼の家族。私はそれだけの事に全く絶望感を味わった。
私は私を掻き回す舌と手に気を取られ、咄嗟的に声を発した。眼の前の男は満足そうに行為に及んでいる。嗚呼、馬鹿な人。自分を誰に重ねられているか分かっていないなんて。そう軽蔑しながらも彼を求め続けた。この欲望を解き放つにはやはりこの男の力も大切なんだと理性に言い聞かせながら、声を上げる。馬鹿は私も同じなんだと自分を嘲りながら、私は又軽く頂点に達した。
兄を忘れるために抱かれているのに、その男を兄と重ねているなんて全く愚かな女の極みだと、私は息を整えながら思った。
宝石を引っ繰り返したような夜景。きらびやかなシャンデリア。光るグラス。揺れるボトル。まわるテーブル。艶かしいドレス。真っ赤に染まるルージュ。どれもかれもが豪華で夜の世界に相応しい。光が強ければ強いほど闇も深いもの。人口の電気が私を照らす。月も星もそんな淡い光じゃ私に届かない。私は笑って、お客様の手を引いた。
「女神の微笑だ」そう言われる内に私はこの店でのそれなりに高い地位にいるようになった。自らが望んだことではなかったったけれど、母を助けるためには仕方がなかった。母は前よりもやつれ、呼吸器も付けられた。もう死ぬのも時間の問題だろう。そうお医者様に言われた。私は堪らなくなって客の手に縋りつく。人肌が恋しい。心地いい場所だったけれど、終わった後の喪失感は計り知れない。だけど行為の快感は私を絡め取る。麻薬の常用性に嵌ってしまったかのように。
「うわ、ヒナちゃん。今日は指名するよ」
「ありがとう。○○さん。……私今日は寂しいの慰めてくれる?」
私は美貌に自信はなかった。高校に入っても一度も化粧もしたことないし、付き合った人も居なかった。それを店で言うと、嘘だ!といわれたけれど。
――この髪の毛だけが、私の自慢できる物だった。兄に大好きだといわれた髪。大切に伸ばした髪だった。絶対に染めたり巻いたりはしなかった。
私はお店に入って、お金を稼ごうと化粧を覚え、仕草を覚え、誘惑する術を知った。もともとアルバイトをしまくっていたので接客業は得意だったけれど、正直ここまで上り詰めるなどとは思っていなかった。
夜の頂点に。
「ヒナ。指名だよ。ここの店をの一番をだせだと!上客だし社長さんだから気を抜いちゃ駄目よ。ワタシは気にくわないけどさ」
「そんな事言わないで。ママ。行ってくる」
私はママに頭を下げて、その『社長さん』とやらの方に歩いていった。
――No.1を指名するなんてザラじゃないけど。
私は軽くそんなことを思いながら席まで行くと、ゆっくりと頭を下げた。私は魅惑的に胸をちらつかせて微笑む。嗚呼私も成長したなと自分で感心した。
「始めまして。ヒナ、と言います。宜しくお願いします」
私は面を上げると何故だか違和感を覚えた。少し居た堪れないような気分。調子が悪いのかな、と軽く思って微笑む。そのお客は三人いて、始めまして僕は……等と自己紹介をしている。しかし、私は煙草を噴かしている男に釘付けになった。
「……ヒナちゃん?――陽菜?」
彼は少し、呆然として私の事を見ている。私もまさかこんな所で会うとは思っていなかった。盲点だったと、今更ながらに後悔する。彼は煙草の灰が落ちようとも気にせず、私をじっと凝視していた。篭った声が私の耳を心地よく刺激する。懐かしかった。涙が溢れそうになるのを必死で堪え、私は冷静に状況を把握していた。
「何だあ社長。終始不機嫌だったのにヒナちゃん見ると変わっちゃってー!」
「ほらほら、ヒナちゃん困ってるじゃないですか!」
部下らしき人たちが彼を――私の愛しい兄を囃し立てる。今も変わらない風貌。やはり幼い頃とは違っていたけれど、昔の面影ある凛々しくて整った端整な顔だった。
だけど私たちはやはり“男”と“女”で身体はおろか顔付までもさほど似ていない。部下たちが私を兄妹としてではなく、性の対象として私の兄に薦めている様子を見てひどく傷ついた。二卵性。"双子だった"という事実だけが私の胸に突き刺さった。
「――陽菜……やっと、見つけた。」
彼は急に立ち上がる。煙草を灰皿に放り込み、私の手を取った。そしてごつごつした手が私の手を握り締める。昔と違った逞しい手に私は胸が高鳴って、心臓に熱い物を注がれたようだった。熱い血液が脈を通って身体中に駆け巡っている。
「……社長?」
部下の一人がそう呟いて私は、ハッと我に返った。『社長』?
そうだ、彼は私と違う身分の人なのだ。彼は倖せにならなくてはいけない。彼の邪魔をしてはいけない。私は穢れてしまった。もう何人と寝たかは分からない。お金と名声と夜の世界に足をどっぷり浸けてしまったのだ。こんな女に気にかけてはいけない。煩わせてはいけない。例え“双子だった”としても、彼を束縛してはならない。彼には彼の人生があって、その人生は私には関係ない。
昔は一心同体だったのに――どこでこんなにすれ違ってしまったのだろう。どこで狂ってしまったのだろう。私は意を決して、手を振りほどく。
「――放して!!!」
私は、精一杯彼を睨み付けた。愛しい彼を。恋人のようにさえ想った彼を。だが――彼が愛しいから、私は憎まれなければ。愛しいからこそ私は彼を憎まなければ。彼の生活を壊しちゃいけない。私は周りのお客に構わず叫んだ。何だ、と好奇を含んだ視線が私たちに向けられようとも、私はこれから紡ぐ言葉を止められなかった。
「もう、遅いのよ。――あの頃の私はもう居ないわ。帰って」
必死でそう言うと、彼は明らかに怪訝そうな顔をして、もう一度私の手を握り締めた。
「放して!帰ってちょうだい!」
「陽菜。少し出よう」
彼はそう言って、私の手を引っ張った。とてつもなく強い力。私は逆らえるはずもなく叫んでいた。お願いだから、私の事は気にかけないで欲しい。帰って欲しい。そんな願いは聞き入れられるはずもなかった。彼は呆然と口を開ける部下を他所に、大量のお金をママに手渡し、私を外に連れ出した。
彼は手を振り上げる。絶好のタイミングでタクシーの扉が開き、私はその狭い社内に押し込められた。
「いやっ!何するの!?」
「……陽菜。母さんの居場所を言え」
「運転手さん。すいません、止めてもらえますか?」
私は彼の言葉を無視して、運転手に告げる。運転手は困ったように陽大の様子を窺った。彼は指して問題もないように飄々(ひょうひょう)としている。
「――止めないで下さい。……さあ陽菜、母さんの居場所を言うんだ」
彼は私の手をギュッと握る。血の巡りが止まり、息苦しさを感じた。酷く真摯な表情で私を睨み付けている。嗚呼、それでも私は心をときめかせていた。どうしてここまでときめくのだろうかと私は疑問に思うほど激しく心臓はのた打ち回っている。それでも彼を突き放さなければ、と何度も何度も命令した。
「私は穢れてしまったの。そしてあの頃のような私じゃないわ。貴方はあの暖かいおうちで一生暮らしてればいいのよ。別に恨み言を言ってるんじゃない。私を放っておいて。お母さんはちゃんと私が面倒を看てる。お願いだから」このまま放っておいて、と私は言葉を紡いだ。
彼はぴくりと柳眉を動かす。ふうーと深い溜息を吐いて、視線を前に戻した。
「……分かった。けれど母さんの安否(だけ教えてくれ。」
彼はそういうと、私の腕を放した。放してくれて、嬉しいのか悲しいのか分からなかった。胸から込み上げてくる感情に気付かぬふりをして彼を睨みつける。嗚咽など絶対あげるものか。そう心の中で吐き捨てた。
――私が懇願すればすぐ私の手を放せるような、そんな軽い想いで私に関わらないで。かき乱すのは止めて。
――私がただをごねたらすぐ見放せるような。それ程の想いで、私を苦しめないで。
――好き、だけど憎い。
私は、涙がこみ上げそうになるのを、舌を噛んで堪えた。
**
薬品臭い病室だった。どこの病室も等しいことだが、お母さんの病室は特別だと思う。鼻のひん曲がるようなアンモニアの匂い。病室の死の匂い。お母さんは呼吸器をつけて、死んだように眠っていた。実際もう直ぐ他界するのだが。何度見ても心が痛む風景だと心の中で毒づく。ひっそりと呼吸器の音だけが響くこの部屋は、とてつもない寂寥感を私に押し付ける。
私は何時も病院に来る格好とは程遠く、そして相応しくない煌びやかなドレスを着て其処に立ち竦む。スカートに入ったスリットが今はとても気持ちが悪かった。それに気付いたのか陽大は私に上着を被せた。生暖かくて、奇妙な気分になる。
「母さん」
陽大は、口をかみ締めて言った。それはそうだろう。父はもう亡くなり、母は死の淵に立たされているのだ。せめて、元気な時に一度だけでも会わせて上げれば良かったと今更ながらに後悔がよぎる。しかし、かぶりを振ってその思いを断ち切った。彼に頼ってはいけないと、心の中で自分を戒める。
「面倒を看ている、とはこういうことか。引っかかっていたんだ」
彼は優しそうにお母さんの頬を撫でる。ごめんなさい、と心の中で呟いたけれど口に乗せることはできなかった。彼は扉近くで佇む私を振り返る。
「治療費は?」
「……え?」
「大変だったろう。だから夜の仕事なんてしてるのか?」
ええ、とも言い難くて私は押し黙った。私は何を言っていいいのか図り兼ねて、下唇を噛む。彼はまだ、飄々とした表情で、私を見つめていた。漆黒の眼が私を捉えている。私を見ている。
「……そう、と言えば満足なわけ?大金持ちの貴方とは天と地との差ね。地の底に這っているような私はあなたのような天空にいる人と一緒に暮らすことはできないの。だから」もう良いでしょう?と言葉を続けた。
疑問系に載せた拒絶。早く彼を断ち切らなければ。そうしなければ私は壊れてしまう。彼に縋りたくなってしまう。どうか離れて。
「……そうか」
彼は、蚊の鳴くような声でそう言って母の方に向き直った。何をするのだろうと私は訝しげに思って眉を顰める。彼はゆっくりと息を吐いて、母の頬をもう一度撫でた。儀式のように。
「さようなら。母さん。今までありがとう」
彼は、艶かしく、そしてゆっくりとお母さんの首に手をかける。余りにも美しい動作に私は眼の前の光景を気にせずに押し黙ってしまった。――ゆっくり、ゆっくりと。緩慢な動きで彼の爪がお母さんの気管に食い込む。呼吸器がぶるぶると震え、先程までに規則的に鳴り響いていた音が揺れる。
――何をしているの?
私は呆然として眼の前を凝視する。
「――ゴホっ!!!!」
お母さんは苦しそうに咳いたのを聞いて、私はハッと我に返った。
「ちょ……っ!何するの!?止めてっ!!!!やめて!!」
ゴホゴホと咳き込む母の傍らにある装置の数字がピーっと鳴り響く。私は彼の手を掴んだ。思い切り、彼の頬を張り飛ばす。機械音が少し、小さくなって穏やかになっていった。看護婦さんを呼ぼうとナースコールを手にすると、彼は私の手を掴む。
「何をするの!?」
「母さんのために、お金を稼ぐために身体を売ったのか?」
「なによ。貴方に頼れば良かったわけ?双子だったあなたに……とても幸せな生活を送っている貴方に?」
「そうだな」
彼は寂しそうに言って、私を抱きしめた。
強い強い抱擁。私は息が詰まりそうになった。もう先程のときめきは無い。母を手にかけたという――愛しかった兄に嫌悪すら抱いていた。もはや最低で最悪な人だ。もうこの人は兄でも何でもない。
けたたましい呼吸音に重なるように、私の心臓も鳴り響いている。
「私たちの前から消えてちょうだい!あなたは兄でもなんでもないわ!放して!」
「それは好都合だ」
陽大はそう言って、私の手首を掴む。私の抗議していた口を塞いだ。齧りつくような接吻。甘いのとは程遠い、激しいもだった。彼は我が物のように舌を進入させて、私をかき回した。私はぞわぞわと背筋が凍りつくような感じを覚える。歓喜とも、悲哀とも分からぬ感情に私は震えた。兄がこんな人だったかしらと過去を振り返る。優しくて、大好きな、私だけの兄。しかし、彼は妹と呼ばれる新しい愛しい存在が彼には出来、おそらく恋人と呼ばれる対象も作っただろう。
――嗚呼、私はあの時から彼の事を知らないのだ。
彼の虚像だけを追っていた私は、彼の『今』を知らない。彼も闇の世界に足を踏み入れてしまったのかしらと、角度を変え啄ばむ様なキスを受け入れながら、そう思った。涙が洪水のように流れていた。私の身体は悲しいことに狂喜して、感じてしまっていた。
そして、私たちは、禁忌を犯してしまった。
もう私は狂ってしまったのかと思った。陽大に抱かれる。眼の前に死につつある母が居ながら。双子同士という禁忌を犯しながら。近親相姦とはよく言ったものだった。近い距離で親しい者と身内の前で、犯されて。
私は快楽で何が何だか分からなかった。嬌声が響けば、私は喉を潰したくなり、胸を掴まれれば、こんな物は必要なかったと嘆き悲しむ。眼の前が真っ白になったと思えば、組み敷かれて露になった彼の身体が見えた。じらされ、求め。彼は私の耳元に唇を寄せ、そして私に聞こえるよう呟いた。
「何人……陽菜のこんな喘ぎ声を聞いたんだろうな」
彼は無理やり、私の唇を貪ると、私を突き上げた。
**
頭の中に呼びかける声。艶かしい響き。少女の声と知ったのは、私の意識がはっきりしてからだったと思う。その声は私を包むようだった。
――ねぇ、陽菜。貴方は、その男が憎いの?
「憎いわ」
――でも、愛してるのね?
「……ええ」
――…私も愛していたわ。私の家族を。だけど私の愛と貴方の愛は少し違うようね。
「……何が言いたいのの?」
――あなたはかれなしではいきてはいけないってこと。
――…解き放ちなさい。貴方の愛憎を。
……ひらひら。ひらひら。
……ゆらゆら。ゆらゆら。
蝶がひらりと舞った。まるで春を惜しんで散っていく桜の花弁の様だと思った。まるで翅をもがれたかの様なそんな儚い動き。いやむしろ蜘蛛に捕まったかのような妖しい動きだった。虚ろな眼を移動させ、私はその存在の動きを追う。瞬きを繰り返す。蝶々の漆黒の鱗粉の行方を私は追った。たとえ蜘蛛に絡め取られようとも、私は満足だった。
私は、ゆっくりと身体を起こす。そして一瞬何が起こったのか分からなかった。
「………?」
私は真っ白な寝台の上に横たえられていた。しかし部屋は酷く無機質で、生活感は余り滲み出ていないのが目に付いた。さらさらとした感触が私を覆う。酷く優しい物だったけれど、私に恐怖しか与えなかった。
「起きた?ママ」
――ママ?
私は訝しげに思って、顔を上げる。すると絶世のといっても良い程の美少女が姿を現した。手には大きなお盆を持って、お粥と水を置いている。少し危なげな動作なので私は冷や冷やしてしまった。しかし美しいといっても儚げとは言い難かった。酷く生に執着しているような――そんな禍々しさを感じた。
「……誰?」
少女はニッコリと笑う。多分高校生ぐらいだろう。その美貌は否定できないが、何となくあどけなさが拭いきれていないのが正直な感想だった。少女はお盆を寝台の上に置いて、私に差し出してくれた。心配そうな顔をして、私を覗き込んでいた。
「愛。私愛って言うの。これ一生懸命作ったの。ママ、食べて?」
「その、――『ママ』ってなぁに?」
私は一瞬小さな子供に使う言葉を言ってしまったが、この際良いとしよう。それよりも生まれてこの方妊娠した事もないのに『ママ』と呼ばれる事が酷く抵抗感があった。そういう行為はしていたが、私はちゃんと避妊をしていたし……、と真剣に悩んだ。
「ママは『ママ』。愛は『愛』。ママは陽菜、って言うんでしょ?月夜とお似合いの名前。太陽と月の名前。私は貴方達の愛の結晶となるの」
少女は笑って、私に抱きついた。顔をすりすり寄せ、甘えてくる。何、と言いかけると、すると、バタン!と扉の開く音がして、私はそちらに振り返った。
「愛さん!浮気ですか!?」
青年だった。蒼白な表情をして、息せき切りながら立っている。年齢は不詳。十五といわれれば十五だろうし三十といわれれば三十なんだろうなと思った。分からない。皺は有るといえば有るし、無いと言えば無い。少年だと言われれば違和感はないし、男性だと言われればそうなんだと納得できる。だから、あえて私は『青年』という言葉を使った。ピッタリだと思った。それにこちらも世に疑う程の美青年。ふわりと黒い髪を靡かせている様子は、とても陽大に似ていると思った。思ってしまった、が本音だった。
「こういう場合は新しい奥さんが出来た月夜が浮気になるんじゃないの?」
「違います!僕は愛さん一筋です!」
「でも月夜は私のパパだから、陽菜は私のママと『ケッコン』してる事になるんでしょう?」
え、と私は絶句した。呆然としていたらいつの間にかこの青年と私は『ケッコン』させられてしまっていたらしい。そんなの、駄目っ!
「私結婚したつもりはありません!」
私は大声を上げると、二人は眼をあわせて笑いあった。何が可笑しいというのだろう。こっちは訳が分からなくて緊迫しているというのに。
「すみません。僕月夜って言います。こちらは愛さん。ちなみに僕のこい」
「娘です」
愛と紹介された少女は間髪居れずに答える。多分『恋人』と言いたかったんだろうな、と彼の意図を汲んで彼らを見ると、月夜さんは凄く不機嫌そうに口を閉ざしていた。恨めしそうな眼が、愛ちゃんを捕らえている。後で話し合う必要がありそうですね、とぼそりと呟いたのを私は聞き逃さなかった。少し口が綻ぶ。
「陽菜は私のママなの。陽菜も、私たちを呼んだでしょう?あの時解き放ってくれたじゃない」
何を?と言い掛けて口を噤む。私は急に陽大の事を思い出した。そういえばあの病室からの一件どうなったんだろうと、心臓の鐘が速く鳴り出した。警鐘が鳴っているのを私は無意識に耳を塞いでいた。
私は…陽大に抱かれたのだ。母の眼の前で。夢だったらいいのに、と神様に願ってみても其れは無理だと悟りきっていた。手を掴まれた感覚。おびただしい数の愛の印。唾液の感触でさえ鮮明に思い出せていた。彼が声をあげる生々しさ。泣いて腫れぼったくなった私の瞼。
「ここはどこなの?貴方達は誰?陽大は――どうしたの?」
少女は先程の幼さとは違い妖艶さを際立たせて言った。嗚呼、この顔は酷く私の心を揺さぶる。私は耐え切れなくなって、顔を逸らした。
「……死んだわ。ふふっ、その顔を背ける所も陽大と一緒ね」
「えっ?」
彼女は私の服を払った。そしてパタパタと扉を閉めて、部屋を出て行った。月夜という青年は苦笑して、『多分服が汚れているのが気になったんですよ。愛さんA型ですから。』と人事のように飄々とした表情で言った。この仕草がとても陽大に似ていると思った。彼は少し思案した様子で私に向かった。捲れた布団を直して、優しく呟いた。
「…陽大さんは生きてますよ」
「………」
もうからかうのは止めて欲しかった。生きてるのか、死んでるのか分からない。そもそも此処はどこで、貴方達はどういう人で、どんな関係で、つまり今の状況は何だと私は叫びたかった。
「嗚呼、お茶を入れましょうか。少し動転しているようですし」
「ちょっと待って?」
「はい?何でしょう?」
「ちゃんと、状況を、一言一句、漏らさずに、話してください、ます?」
私は途切れ途切れ確認するように言うと、青年はちょっと思案したように眉を顰めた。陽菜さん、と陽大とは違った爽やかな声で私を呼ぶ。
「陽大さんは死んだも同然ですが、一応生きているということをまずは言っておきます。そして、僕は月夜。愛さんの……不本意ながら『パパ』です。そして貴方はつい先程愛さんの『ママ』となる資格を得ました。」
「資格?」
――何の?
「ええ。その…僕の『ツマ』としては申し上げにくいんですが、あなたは陽大さんに抱かれたでしょう?それであなたの魂は浄化されて、僕達の所にいるってわけです」
――あなたは陽大さんに抱かれたでしょう?
私はその言葉に胸を貫かれたような気分だった。
――魂の、浄化?
私は、穢れていたというの?嗚呼、私は確かに色んなヒトに抱かれて。
――どうして、私はこんなになってしまったのだろう?
――どこで、間違っていたのだろう。
――彼が私を求めたから?私が彼を求めたから?
彼に抱かれ、悔しいが身体は喜びに満ちていた。大好きな大好きな私の片割れ。愛しい、愛しい、愛しい、愛しい彼。私はいつから彼に恋心を抱いていたのだろう?
すると、急に何かが心の中ではじけた。それは理性とも言える人間としての道徳的感情。どうして私はこんな物を携えていたのかしら?と疑問に満ちた。
――私は、嬉しかったんだ。彼に抱かれて。
私はゆっくりと微笑む。嗚呼、今まで何て私は馬鹿だったのかしら。どうしてあんな愚かな女だったのだろう。愛しい人に抱かれて悲しむ人なんていない。私は嬉しかったんだ。彼が母を手にかけた後でも。
「ええ、抱かれたわ。とても、嬉しかった」
「では、何故泣いていらっしゃるのです?」
私はハッと、眼を見開いた。先程から零れて冷たく感じられるのはこれのせいかと今更ながらに思った。だんだんと嗚咽が帯びてきていて、本当に泣いているのか私には想像も付かない。胸の底からこみ上げてくるこの感情は何なのだろう。どうして頭の底から、悲鳴が聞こえるのだろう。
今なら戻れる。今なら引き返せる。そう警鐘が鳴っていた。
しかしそれに反して、身体は、動いていた。
私は、ふらりと足を踏み出す。まるで与えられた命令のように。足も手も顔も、感情すら、私は蜘蛛の糸に掴まれているかのようだった。私は笑う。脳に命令されたのかどうか分からない。本能なのか、何なのかも分からない。それでも私は笑った。自虐的に。そして狂気を帯びた笑みを湛え、陽大に似た青年の元へ向かう。そして、私は彼の手を取った。
「――お待たせして、御免なさい。『パパ』」
私の口は無意識に開かれる。私の脳は電流のように、滑らかに信号を送った。蜘蛛の巣に張られて、思考が閉ざされる。
……ひらひら。ひらひら。
……ゆらゆら。ゆらゆら。
蝶がひらりと舞った。まるで春を惜しんで散っていく桜の花弁の様だと思った。まるで翅をもがれたかの様なそんな儚い動き。いや、むしろ蜘蛛に捕まったかのような妖しい動きだった。虚ろな眼を移動させ、私はその存在の動きを追う。瞬きを繰り返す。蝶々の漆黒の鱗粉の行方を私は追った。たとえ、蜘蛛に絡め取られようとも満足だった。私は彼に抱かれて、嬉しかった。だから私は。私は――彼を。彼は――私を。
**
「ねぇ、陽大?」
私は先程、陽大が握りつぶした蝶を凝視しながら言った。彼は「何だ?」と不思議そうな顔をして、此方を窺った。今まで拒絶していたのに急に話しかけられて戸惑ったのであろう。その表情はとても月夜に似ていると思った。私の旦那様の月夜。
「私、もう、『ケッコン』したのよ」
「……そう」
案外あっさりとした言葉が返ってきて、どうしたのかしらと思った。見上げると、絶望の表情に満ちた彼の顔が眼の前にあった。私は満足して、笑う。脳のもう一人の私が叫んでいた。だが、私の思考は其れを意にも介さない。嗚呼、馬鹿な人。もう蜘蛛に絡め取られて息も絶え絶えになっているだろうに。私は笑った。その表情は酷く恍惚とした物で、歪んだ物かも知れなかったけれど。でも、私は愉快だった。最高だった。大切な物が壊れる瞬間。大切な物を自ら壊すということ…。
私は空に目配せすると、息を吐いた。すると、急にゆらりとあの青年が訪れる。私の旦那様の月夜。私の一番愛しい、彼。私は眼の前にいる男の手を振り払って、駆け寄っていった。さも愛しそうに。さも、嬉しそうに。
「月夜。来てくれたの?」
「ええ、愛しい『ツマ』が僕を呼んでくれましたからね」
そういって、見せ付けるように彼は私の唇にキスした。私は愉快で仕方がないのと、嬉しくて仕方がないので彼に擦り寄る。堅い胸板。細部にわたっても陽大は月夜に似ている。いや、月夜が陽大に似ているのだ。対象を変えるとこうも違うのかと不思議に思った。違うのはこの声だけ。これを封じれば、完璧な偶像。私は彼にその声を発させないように、舌を絡めた。ふむ゛っ、と苦しそうな声がしても、私は満足するまで彼の唇を貪った。
「……陽菜。陽菜はもう、囚われたんだな。」
誰かが、そう呟いてる。嗚呼、私が愛しいのは彼だけ。陽大に似た月夜を抱きしめて、息を吐く。ああ、寂しそうに佇んでいるのは誰だったかしら。
この眼の前に佇む男性は何故私などに執着するんだろうと不思議に思う。
彼は言った。
「陽菜。俺はいつか君を取り戻すよ」
私は、この人の言っている意味が分からなくて、首を傾げる。唯、もう一人の私は納得したかのように信号を流し続けていた。唯、彼を。この寂しそうに佇む、愛しかった彼を偲ぶかのように。愛しかった彼を、懐かしむように。
ゆっくりと、まるで呪文を唱えるかのように。
「――…在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(天に在りては願はくは比翼の鳥と作り、地に在りては願はくは連理の枝と為らん)…」
そっと隣に佇む、蜉蝣が呟いた。それは私に言ったのか、私たちに言ったのか。誰も分からない。
ひっそりと
厳かに
そして、清らかに
蝶がひらりと舞った。
告別を惜しむように。何もかもを手放すように。
※引用※長恨歌・白楽天