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蜉蝣の、唄  作者: ouka
1/9

夕月夜に舞う蜉蝣―狂喜―


 蜉蝣かげろうがいた。

 脚は華奢で細長く、翅が二対ある。まるで蜻蛉トンボ)のように尾が長い。上空で群飛し、スーっと上昇したあとフワフワと下降するような飛翔を繰り返している。奇妙な虫だが、未だ何色にも染まらぬ神秘的な美しさがあった。

 少女は空を仰いで手を伸ばす。空高く飛ぶ蜉蝣に届くはずもなかった。諦めてそのまま踵を返すと、どこからともなく蜉蝣はひらひらと少女の足元に舞い落ちる。しばらく痙攣けいれんしたかと思うと、やがて動かなくなった。……それは偶然か否か。まるで先程の存在感を否定するかのように、唯ひっそりとしていて呆気ない。


――死んだのだ。

……ああ、死んでしまった。

――なんとと、儚く美しい最後なのだろう。

 私もこのように容易に死ねるなら。私もこのように美しく息絶えられたなら。


 彼女はそっと綺麗な翅を持ち、そのまま勢い良く蜉蝣を川に投げ捨てた――



***



――私が死んだら、お父さんとお母さんは仲直りをするだろうか……


 香椎愛と書いて、「かしいまな」と読ませる名札を、愛はユラユラと靡かせた。黄色い帽子を深く被り、ランドセルを背負っている。顔は幼く、小学低学年にも見られた事があった。もうすぐ中学生になろうとしているのに、最近ではご飯を禄に食べない所為か、腕には筋がほっそりと浮いて。――普通に見れば、端正で可愛らしい顔をしているが――悲しそうに俯く姿は酷く儚げであった。


――わたしが、しんじゃえば……

 昔は団欒としたとても雰囲気の良い家だった。暖かくて心地よい空間だった。家族の笑い声が響き、夫婦仲も良く喧嘩などは滅多に無かった。愛はその香椎家で十二年間育ってきた。2階建てだがささやかな家で、三人しか住まないといっても必ずしも広い訳ではなかった。だが其処にはいつも倖せが伴っていた。永遠に、それこそ死ぬまで平穏が続くと思っていた。だから愛は倖せが特別だなんて感じなかったし、この『日常』がずっと続くのだと思っていた。倖せであることが当然で、永遠に続くのが普通だった。

 ……けれどもそれは夢でしかなかった。彼女が作り出した幻想に過ぎなかった。

 幸福とは『日常』を失って初めて気付くのだ。脆くも愛の平穏は崩れ去ったのである。

 ……最近、父親は変わった。お酒の臭いが纏わりつくようになった。母親に対する愚痴や暴言が多くなった。酷い時は物を壊して、煙草は一日に何箱も消費した。そして何より、家に居る事が少なくなった。

 ……最近、母親は変わった。掃除洗濯、その他諸々の家事をしなくなった。父親に対しての小言を言い続け、父親と同じようにお酒に入り浸っていた。

 ……昨日の二人は常より輪をかけていたと思う。


「このっ、役立たず!!死んでよ!」

「こっちの台詞だ。お前なんかと結婚しなければよかった」


 売り言葉に買い言葉。罵り合い、蔑み合い。愛は何時も咄嗟的に耳を塞ぎ、震えて終わりを待つしか出来なかった。日ごとにエスカレートしていく口論を止める術が無かったのである。

 そして二人が言葉の限りを尽くすと必ず最後には行き着く言葉があった。それは愛にとって胸が張り裂けそうな位、悲しくて恐ろしい言葉だった。


――愛が……、愛が居なければ……


「ちょっと、産めって言ったのはあなたでしょ!? 何よ、生むとき私がどんなに苦労したか――!!!」

「俺のせいかよ! お前が大体勝手に――」

「堕ろせっていうの!?――」

「何だよ! 愛はそもそも――」

 そんな口論が毎日深夜まで続く。

 愛は現実から逃げるように頭を抱えて隅で小さくなっているだけしか出来なかった。だがそれも元の倖せを取り戻すような行為であるはずが無かった。


――どうして、愛は皆のように良い子じゃないの?

 彼女の母親は、ついに彼女に手を触れた。日毎に内容が濃くなってゆく。そして必ず、殴る蹴るの暴行の後涙ながらに彼女を責めた。まるで愛が全て悪いかのように。

――ねぇ、どうして?

 彼女の父親ですら彼女の身体にどんなに痣が見え隠れしようとも見て見ぬ振りをした。瘡蓋かさぶたや痣が赤黒く変色しようとも、顔が腫れ上がっても何も言う事はなかった。父親は愛に対して無関心だった。

 大人しい控えめな女の子だった。悪く言えば引っ込み思案だった。そして愛の場合少しそれが激しかった。

 

――隣のお母さんの所の子は、あんなに明るいのに。

 最初は円満な家族だった。何事にも積極的な母親、優しかった父親。家のどこにも塵一つ許さない、母親。疲れていても遊んでくれた、父親。暖かかった家、笑い声が響いた家族。仲の良い夫婦、自慢の娘。何もかもが倖せだった。愛は父親の暖かい手によって抱きしめられ、母親の暖かい料理や愛情によって育てられた。時には二人は厳しかったが、愛はそれを愛情として受け止め立派に育っていった。そして今まで育ってきた。

 しかし、ある言葉を境にその地盤は崩れたのである。

「隣の由利子ちゃんはもっと良い点数なのに。あの子はとても可愛くて、明るくて――愛はどうして、違うの?」

 母親の何気ない言葉が始まりだった。愛は勉強が苦手であった。一生懸命するものの、ぱっとしない点数を毎度取ってきては母親が言うのだった。

「隣の由利子ちゃんは…」

 やがて、五年生の時の最初のテストを母親に恐る恐る手渡した時から、母親からの酷い罵声が響きだした。

「どうして、愛は!」

 父親はそれを聞くと、母親を責め、愛を守ってくれるのだった。愛は愛だ。そう言って、母親を慰める。母親は最初は渋々納得したようだった。だが愛は全く変わる様子が無いので、日に日に愚痴が多くなっていった。次第に塵が部屋中に立ちこめ、綿ほこりがどんなに舞っていようとも母親は掃除をしなくなった。何か呪咀か念仏を唱えているような独り言が多くなった。

 そして、母親が掃除をしなくなってから暫くしてとうとう父親は口を開いた。だが説得する内に次第に雲行きは怪しくなり、口喧嘩にまで発展した。

 それからというもの母親は毎度毎度父親に文句を言い続け、父親は夜食卓に殆ど近づかないようになった。近づく日と言えば、お酒を飲みまくって意識を失っている時だけだった。暴言も多くなった。止めた煙草もいつの間にか本数を増やしていった。だけど何よりも、仕事だと言って帰ってこなくなった。帰ってきても、愛には無関心だった。無関心になった。

 父親が帰ってこなくなって、事の重要性に気付いたのだろうか。母親は涙を流して愛に謝るのだった。


――ごめんね。愛。パパが帰ってこないのは、ママが愛にあんな事を言った所為ね。……パパに謝って来るわ。


 しかし、母親は見てしまった。……父親が他の女性と楽しげに歩く姿を――。母親は怒り狂って、父親が帰って来た日に激しく問い詰めたのだった。

――お父さんは、もう帰って来なかった。

――お父さんは女の人と出て行った。

 

 愛は悟った。「子ども」は生まれるのではない。生まれさせられるのだと。

 「子ども」は「子ども」という字を書かない。親の連れた、すなわち大人の附隨物である「子供」と書くのだ、と。



***



「はぁ…」

 愛は年齢に不似合いな深い溜息を吐いた。何度其れを繰り返した事か分からない。だが溜息を吐くという行為によって全く事態が好転していなくとも、愛はそうせずにはいられなかった。溜めた息が不幸を連れて行けばいい。そんな願いから愛は溜息を吐き続けた。


 愛はふと、先程の落ちていった虫を視線で追う。あの虫は川でゆらゆらと流れている所だった。川は深い緑によどみ、ビニール袋が其処此処と浮かんでいた。流れはゆったりとしているが、汚すぎて泳ごうとは思えない程であった。綺麗とは言えぬ所なのに。如何してこんなところに蜉蝣が居たのだろう。群飛していたのに、今や影も形も無い。

 蜉蝣という虫を知ったのはついこの前のことだった。唐突だが、愛は死を考えていた。自分が死ねばこの世は全て上手く作用していく――愛は狂信的なまでにそう思い込んでいた。死とは全てが無になること。だから愛の死が全てを上手く作用させていく。今までのことが何事も無かったかのように世界は巡ってゆく。そんな単純な考えだった。だが愛にとってそれが全てだった。

 死という言葉を辞書で調べると短命な虫の名が連ねられていた。蝉、蝶、蛍…。だが愛が魅かれたのは蜉蝣という聞き慣れない虫の名だった。夕焼けと共に沈み、月を見ずして死んでしまう可哀想な――けれども美しい虫、蜉蝣。

 蜻蛉とんぼに似た姿だが蜻蛉とは違って透明だと思った。…透明で綺麗だと思った。其れは短命だからかもしれない。…空を仰ぐ。この夕方に間違って出てきた月ぐらい蜉蝣が愛しかった。


 愛はごくり、と生唾を飲んだ。橋の上にある柵に顎を乗せ、又息を吐き出す。定まらない視点の中ぼんやりと汚い川に目を遣った。低くて、到底死ぬことができそうな場所ではなかった。何よりも人目が多すぎる。


……ここでは、死ねない。


 愛は今日死ぬ必要があった。何故なら今日はテストが返ってきたからだ。点数は何時ものように四十点前後。国語は42点、算数は38点、社会は45点、理科は32点だった。

 テストを手に取る度に恐怖に駆られたものだった。苦笑する先生の姿がありありと眼に浮かぶ。あんなに勉強したのに、と後悔するけれどやはり現状は変わらない。

 一枚一枚点数の間違いは無いかと入念に調べ、しっかり配点を確認した。しかしそれにも関わらず先生の答案ミスで一点上がっただけだった。


 愛は周りの人の視線などを気にもかけずに、びりびりと答案を破いて川に流した。……先程の蜉蝣とは到底違う葬式だった。蜉蝣はひらひらと美しく散っていったのに、愛の答案は無様にも水を含んで川を汚している。

――汚い。……汚くて醜い。


 愛はどうしようも無い程情けなくなって、自然と涙が込み上げていた。嗚咽に伴って身体が震えだす。周りの人々は泣きじゃくる女の子に興味本位に眼を止めるが、別段声を掛けようとせず通り過ぎていった。――人とは支え合って作られた文字だとよく言ったものだ。愛は眼を真っ赤にしながらそう思った。誰も支えてくれない。誰も自分を見てくれない。誰もが無関心。大好きだった父親でさえ、ついには愛に無関心だった。愛情の裏返しは無関心だという。其れならばいっそ憎んでくれ方が良かったのかもしれない。

 愛は鼻をすすって顎を持ち上げた。もう死ぬことを決意した今では何もかもどうでも良かった。だけど死ぬのを止めるかの如く涙だけは溢れていた。


――早くいなくなろう。

 雑踏の中を掻き分けようと振り返る。愛は歩きだそうとしてランドセルを背負い直した。愛が死ねそうな所は――例えばビルの屋上。蜉蝣はふわりと美しく舞い散っていた。だが愛はそのように美しく死ぬつもりはなかった。憧れていない訳ではない。寧ろ美しく死にたかった。だが自分には不相応だ。ビルの屋上から急降下して死ぬのは痛いし、綺麗じゃない。だけど醜い自分にはお似合なのだ。愛はそうと思ったのだった。痛いのは嫌いだ。だけど罪を犯した者には其れ相応の罰が必要だった。


 泣きじゃくる愛を見つめている存在があった。

 違和感。そして強烈な存在感が愛の眼の前を纏う。面妖で不思議な空間が辺りに立ちこめて、愛とその存在を覆っていた。ゆっくりと愛は眼を擦る。伸びた黒髪と共に頭を振って眼の前を凝視した。一体何が起こっているのだろう。


――お父さん?


 だけどその姿は『お父さん』では無かった。お父さんらしきものが居ると言った方が良いのかもしれない。お父さんの顔をしているが、かなり若かった。背は高くすらりとしていて最近の父親のように服は乱れていない。顎はほっそりとしていて鼻はすっと通っていた。涼しげな目元、暖かな眼差し。爽やかに微笑む姿は昔の優しい父親に似ていた。

 いつの間にか、嗚咽は止まっていた。何もかも身体の機能が止まったように思えた。


 愛は不思議そうな顔をすると父親の顔をした男は又にっこりと微笑んだ。嗚呼、あの笑顔だ。頭を撫でてくれる時の優しい笑顔。抱きしめてくれる時の暖かい雰囲気。愛は何だか安堵感を覚えて、口元を少し緩める。人はごった返していたがまるで愛と彼の周りだけは避けているかのようだった。

 彼はゆっくりとこちらに歩いてきた。


「――貴方は、誰?」

 ふと愛はそう呟いた。人の名前を聞くということ。それは控えめで人見知りが激しい愛が始めてした行為だった。別段友達は居なかったわけではない。口下手な所為で友達こそ少なかったが、いないという訳ではなかった。しかし愛は今までの十二年という長い人生で初めて人の名前を尋ねた。

「僕はツクヨと申します」


――――ツクヨ。


 どこかで聞いた事がある名前だと愛は朧げながら思った。心当たりが無く漢字も分からなかったけれど。愛の戸惑いの表情を見越したのかツクヨと名乗る青年はゆっくりと口を開いた。

「月と夜、と書きますね。あなたのお名前は愛、ですね」

 分かっています、と彼は言葉を続けて眼を細める。愛は名前を言い当てられて驚いたが、それ以上の感情は湧き出て来なかった。ただ眼前に佇む存在は優しかった時の父に似ていると思った。


「――愛さん」

 青年はゆっくりと微笑み、そのまま口を噤んだ。ラフなジーンズに何かプリントされた白いTシャツを着、青と白のボーダーの入ったYシャツを羽織っていた。普通に見れば何処にでもいる青年という印象だった。しかしふわりと微笑む笑顔や優しい雰囲気を纏ったその姿は父親そのものだと言っても良かった。無関心になる前の、愛を愛してくれた父親だった。

 だがやはり愛は他の感情は湧かなかった。どうしてこんな所にいるの。どうして私の名前を知ってるの。そんなことすら表層に表れない。安堵はもうとうに過ぎ去って、無機質な感情が愛の心を支配する。この人もいつか変わるのだ。他人のように…そして今の父のように、いずれ無関心になる。だから愛は心を閉ざした。


 月夜と名乗った青年は一歩、二歩と愛の元まで近づいて数歩ほどの距離を保ったまま立っていた。愛に手を差し出すと、柔らかい風が吹いた。青年はそのまま風に揺らいで細く透き通った声で囁いた。


「愛さん。行きましょう」

 唐突に愛の名前を呼ぶと、月夜は愛の細い手を取った。愛は少しひんやりとした感覚に身を強張らせる。だけど愛は何も言うことは無かった。ただ引っ張られるままに歩く。だれももう信じない。どんなに優しくとも裏切らない人はいない。だったら始めから心を許さなければ良い。


――私は今日死ぬんだから、どうなってもいい。

 愛は心の底からあふれ出る感情に気付かない振りをした。

 誰かに愛して欲しい。だけど愛を求めれば求めるほど裏切られる。自分を覆い隠して、自分を守って自分を固めて、誰とも喋らず関わらず何があっても空虚でいればそれで良い。愛は青年に手を引かれながらそう思った。ただその感情が惹かれている証拠だとも知らずに。

 月夜はそんな愛の様子を見てとって笑った。

「愛さん、どうかしましたか」

 青年は嬉しそうだった。その笑みは本当に自分に興味を持ってくれているのだと知れた。愛を安心させるほどの笑顔だった。愛想笑いのような口を歪ませただけの笑みではなかった。本当に心の底から愛のことを知りたい、好きだ、そんな感情が見え隠れしていた。

 愛は仕方なく少し考え込む。五分ほど思案して心の奥底から浮かび上がった疑問を掘り当てた。

「……どこに、行くんですか?」

 やっとのことで愛は言葉を紡ぐ。質問し慣れていないのか、体の奥から沸々としたもの湧いてくるようだった。体が熱かった。だけど少し嬉しかった。

「うーん、そうですね。川原に行きましょうか」

「……え?」

 確か自分は先程橋の上にいた。すぐそこに行けば川原など三十秒もしない内に着くではないか。そう思いながらも唇は開こうとせずにただ口を噤んだ。やはり未だに拒絶が怖かった。


「ほら、……思ったことを言ってもいいんですよ」

 月夜はふわりと笑う。そ笑いは、クラスの男子達が愛を嘲り笑うような禍々しいものではなく、心から安心できるものであった。そして彼の笑窪の位置がお父さんと似ていた。


「……愛さんのお父さんが恋しいですか」

 さっきとは変わり酷く気に喰わなさそうに呟く彼は本当に子供のようだった。愛は首を傾げて暫く経ってからこくりと頷く。父に似ている人の前なら尚更、愛していないなどとは言えなかった。


「……そうですか」

 そこには明らかな落胆が見え隠れしていて、何故だか愛は少し申し訳なく思っった。伏せられた睫毛は憂を含んでいて先程までの彼とはまるで別人のようだった。落胆する青年を見ていられずに愛は慌てて口を開いた。

「今……、か……」

 『今川原の近くに居たのじゃないでしょうか』とどうしても口が開いてはくれず、心臓が早鐘を打っていた。どうして自分はこうなのだと情けなくて再び泣きそうになったが、青年は分かってくれたらしくうんうんと頷いて少し寂しそうに言った。恥ずかしくてうつむく。


「そこの川はもう駄目ですね。穢され過ぎてる。安心して下さい。十五分程度で神聖な川に辿り着きますから」

 神聖な川。怪しい。けれど。この青年はお菓子を上げるから付いておいでと言ういかがわしい下心のある人とは違う。だがもう自分は死ぬのだ。誰に連れて行かれようと、どうでも良かったし、単に月夜を信じたかったのかもしれなかった。


 十五分もかからない内に着いた場所に愛は一瞬我を忘れた。立ち尽くす。眼の前に広がる壮大な風景はまるでお伽話に出てくる幻想世界のようだった。水面に映える茜色の夕陽。橙に染まりながら輝く川。燃えるように揺らめく緑。其れを揺らす涼しくて澄んだ風。誰も居ない、美しい場所。神聖な川。


――こんな綺麗な所で、死にたい。

 愛は言葉を出さずに、心の中で呟く。どんなに自分に相応しくなかろうと憧れは消えなかった。青年は何を思っているのだろうか。静かに佇んで、ただ傾こうとしている夕陽を見ていた。

 突如、彼は口を開く。


「もうすぐ、蜉蝣達は死にます」

 夕陽が明々と蜃気楼のように揺れていた。傍らには月が浮かぶ。時間を間違えた愚かで美しい月だった。

 愛は先程いた川原で散った虫のことを思い出していた。前や後ろをびゅんびゅん飛び回っている蜻蛉とんぼはえ等の他に、又際立った存在の虫が浮いていた。

 ふわりと舞う虫。――蜉蝣だ。


「蜉蝣は、どのくらい……生きているの?」

 愛も又、傾く夕陽を見つめて月夜に尋ねた。やはりたどたどしい感は否めないが今愛は自分の意思をはっきりと言葉に表した。

「朝に生まれ、夕陽が沈むころに死ぬんです。とても短い」

 月夜は痛々しそうに柳眉を寄せて答えた。夕陽が上半分までぼっかりと沈むとばたばたと落ちていく。

 それは月夜が言った虫だった。短い生涯だった。

 愛も今不幸せではあったが、安穏に十二年は悠々と生きてこれたのだ。ゆっくり過ごしていても一日は短い。それを思うと、とても不憫で仕方がなかった。人の尺度と虫のの尺度は違うけれどもやはり愛はそうとしか思えなかった。

「貴方は蜉蝣を可哀想と思いますか?」

 愛は素直に頷いた。


「――長生無得者,舉世如蜉蝣。 逝者不重回,存者難久留……」

 月夜はそう節を付けて唄った後、溜息を吐いた。ぽとりと彼の前に落ちた蜉蝣の翅を摘まんで、不思議そうな顔をしている愛を振り返った。愛は何語を喋っているのかさえ分からなかったが、その流麗な歌声に聞きほれていた。ただ溜め息が漏れた。

「皆、長くは生きられない。蜉蝣のように儚い、と言ったんですよ」

「――蜉蝣の様に、死ぬの?」

「そうです。貴方も蜉蝣の様――」

「わたし?」

 月夜は愛を直視する。

 それは優しい表情ではなかった。罪を正すような厳しい表情だった。

「蜉蝣は儚い。でも、皆……生を全うしてる。では、愛? 貴方は?」

「え?」

愛は月夜の変化に驚いていた。


「あなたは蜉蝣のようだ。蜉蝣のようにちっぽけだ。あなたは命を容易に投げ出し、さっさと楽になりたいという。あなたが蜉蝣を不憫に思うなら僕はあなたを哀れに思います。あなたは死ぬほど努力をしたんですか。勉強したのですか。友達と話すにも相手ばかりに喋らせていませんでしたか。だからいじめられたのではないのですか?両親の口論は貴方が原因だから貴方は死ぬ、と?それだけで生きる価値が無いと言うのですか。


――愛さん、あなたはこの世からこうもあっさり逃げるのですか」

 強い眼差しだった。厳しい口調だった。愛はびくりと身を強張らせて、胸を掴む。息が肺の中でのた打ち回って苦しかった。心臓が軋むように早鐘を打っている。愛はたじろごうとするが身が竦んで動かなかった。顔は真っ青に引きつり、恐怖に歪む。今まで安心感を抱いていただけに愛は身体が壊れそうな位恐怖した。この人は誰だろう。否、人ですらないのかもしれない。


「愛さん。僕は責めているのではありません。貴方は最善の事を尽くしましたか、と聞いているのです」

 愛は沈黙を守り続けた。

 月夜が、何を言っているのか分からなかった。

 

「……愛さん、答えてください。怖がらずに…。僕にありのままさらけ出して下さい。貴方は他の人とは違う。僕は貴方を全てを――」


『愛します』


 愛はのた打ち回る心臓を無理矢理掴んだ。呼吸する。心臓が暴れ出さないようにゆっくりと息を吐く。恐る恐る見上げると月夜が笑んでいた。目を細めて手を伸ばす。彼は愛の手を掴んで強く繋ぎ合わせた。


「届いた」

 愛はそう言った瞬間、力が抜けた。崩れ落ちるようにして地面にへたり込む。月夜は手を繋ぎながら、愛の言葉を待っていた。……彼女はもう月夜が何を意図しているのか分かっていた。

――愛は仮面を取った。ゆっくりと口を歪める。それは小学生のものとは思われない、この世を知り尽くしたような妖しくて美しい笑みだった。


――最初、くだらなかった。

 小学生前半ごろは優に百点を取っていた。算数も国語も、社会も何もかも。全てが完璧で綻びすら無かった。有るはずが無かった。愛は完璧だった。…同級生の憧れ、嫉妬などどうでも良い。ただお母さんに褒められるのが嬉しくて。ただ褒めて貰いたくて。ただそれだけで愛は満足した。だけど一回九十八点を取ったことがあった。確か計算ミスだったと思う。母親は「この前までは百点だったのにねぇ…もっと頑張りなさい」と不満そうに言った。その日から何故か百点が取れなくなった。日に日に点数は下がっていき、ついには四十点代を取るようになっていた。くだらなかった。喜んで欲しいと思った感情がごみ箱に捨てられたように感じた。


――唯、つまらなかった。

 友達も最初は楽しかった。でも次第に煩わしくなっていった。試験の時は「勉強した?」と聞かれれば「ううん。寝ちゃってやってない」と言わなければならなかった。嘘で塗り固められた仮面を押しつけようとする会話。しだいに相手の話に便乗する気もさらさら無くなっていった。下らないテレビの話題、漫画の好き嫌い、先生の噂や、同級生の陰口。いつも同じような会話に心底辟易した。何もつまらなくて相槌だけ打っていると八方美人だと言われ阻害された。沈黙すると相手のつまらない話は終わってしまうから楽だった。つまらなかった。


――唯、愚かだと思った。

 母親と父親。母親は自分の名誉にしか眼中に無いし、父親は父親で好き勝手に放浪していた。大好きだったけど、大嫌いだった。彼らは娘に優しかっただけで、娘の美しい部分しか見ようとしなかった。愛の人格に触れてくれなかった。優しい笑み。それは仮面が成す物だと愛ははっきりと分かっていた。表面では穏やかを装い、笑いあってきた。しかしどうだろう。今や仮面は剥がれ、こういう事態に陥っているではないか。愚かで醜かった。


「いつから、分かってたの?」

 愛は繋いだ手を放して立ちながら、少女らしい高音で囁いた。背負っていたランドセルを地面に置いて、名札を千切る。黄色い制帽を振り払い、先程の愛とは似ても似つかぬ妖しい微笑を湛えていた。


「ずっと…窓越しに見ましたからね。早くに分かっていましたよ。先程までさっきの仮面を剥がしてくれなくて、少々苦労しました。でも控え目な愛さんも愛してますよ」

「愛してるだなんて、最も信用してない言葉だわ」

 愛は息を漏らし、又口を歪ませる。月夜は苦笑した。嬉しいのか恐ろしいのか。ただ複雑な感情が彼を渦巻いていた。


「一度、仮面が剥がれると豹変しますね。そんなに凄まないで下さいよ」

「“逃げるのですか”と言われた時、仮面が外れた。呆れる。巧くやってきたつもりだったのに」

 巧妙でしたよ、と月夜は感心したように呟いた。

「僕以外は解らなかったでしょうね。実の両親ですら見抜けなかったようでした。愛さん、顔は可愛いですから」

「なにそれ。顔は? ふふ、この顔は結構使えた。結構悲壮に見えるでしょう?」

 愛は少ししょんぼりした顔をしておどけてみせた。上手でしょ、と子供らしく笑う。

「本当は違うんだけどね」

 愛は艶美な表情をして睫毛を何度も揺らした。ゆっくりと青年を見上げる。先程からも見上げてはいたのだが、纏った雰囲気は全く異なっていた。


「ええ、とても。魅力的でしたよ。ずっと見てましたから」

「そう」

 愛はいつも机に向かう時窓辺に蜻蛉とんぼが止まっているのを思い出す。嗚呼、あれは蜉蝣だったかもしれない。泣きそうになった時いつも優しく微笑んでいてくれたような…そんな気がする。

「月夜っていい名前。蜉蝣は夕陽と共に落ちていく。月が映える夜に逢う事ができないのね…」

「でも、今夜の月に向かって、愛さんと一緒に笑っていますよ」

「ふふ、そうね。でも『今夜』って言う割りに少し、明るくない?」

 月夜は苦笑して頭を掻いた。困ったように下を向きそうですね、と言った。

「実は蜉蝣は成虫こそ命は短いですが、幼虫の時から数えると結構生きるんですよ」

「あら、私は蜉蝣のようにちっぽけなのでしょう? そんな夢を壊すようなこと言わないでよ」

「なら愛さんは図太いんでしょう。ご安心を。生に執着するのは見苦しくないですから」

 愛は文句を言うと月夜は声を上げて笑った。私は脆弱で儚い存在でありたいのよ、と月夜に諭すも彼は聞く耳を持とうとはしなかった。

 少女はふと偶然肩に降り立った蜉蝣を眺める。透明な翅に、脆い体躯。如何してこの虫はこのように美しいのだろう。恍惚とした表情のままぎゅっと握り締める。――ひとつ、命を奪った。


「嗚呼、私。蜉蝣の様に……死んで、生きたい」

 目の前にいる青年は、爽やかに笑った。

「死ぬのですか。それとも……生きるのですか?」

 青年は愛の手を取る。ほっそりとした今にも折れそうな手を。

「死んで、生きたいのよ」

 そう言って愛も笑った。心から笑ったのは何年ぶりだろう。

 それでも、意外と久しい気はしなかった。

 だって、愛はずっとずっと心の中で他人を嘲笑わらって居たのだから――。

 最後に月夜…否、月夜という蜉蝣は唄った。

――――長生無得者、舉世如蜉蝣。 逝者不重回、存者難久留、と。

 愛の身体は呪縛が解けたように軽くなった。


――嗚呼、やっと。やっと自由になった――

 愛は死んだ。あの臆病な愛は消え去った。自然と涙が流れる。仮面を洗い流す透明な涙だった。笑う。其れは透き通った美しい笑みだった。愛は泣き腫らした後、蜉蝣と手を繋いでゆっくりと家路についた。


…そして。


――数日後、ある夫婦は何者かによって惨殺されたというニュースが紙面やTVで賑やかせた。

 惨殺という言葉に相応しい殺され方だったと現場検証した者は溜息を吐く。

 手足は切断され、致命傷となる心臓部以外にも刺し痕は数箇所残されていた。否、刺し傷等という生易しいものではない。犯人は余程夫婦を憎んでいたのだろうか。否、此れ程までならむしろ殺すことを楽しんでいたのかもしれない。この残酷さは犯人が人だということすら疑ってしまう程のものだった。壁に伝う血潮、床の大きな血溜まり。飛び散った肉片。諸々の臓器。立ち籠める腐乱臭。唯、形としてあるのは胴体の、其れも上部のみ。他は原型すらとどめておらず、生前が人間だと思えない生々しさだった。事件の犯人は分かっておらず、凶器と思しきナイフすら未だ見つかってはいない。

 その夫婦には小学六年生の娘がいるらしかった。血溜まりの中少女が座り込んでいたと思われていて、血がある部分だけ床には付着していなかった。

 その血溜まりの中、傍らに佇んでいたとされる夫婦の娘――香椎愛。

 その、少女の行方は未だ、解明されていない。


夕月夜。

蜉蝣達が舞っている。

ひっそりと間違って夕方に輝く

美しい、美しい月の元で、彼らは唄っている



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