07 今あなたに会いに行きます
ただ一言だけの夢。過去でも記憶でもない。
俺は久しぶりに変化が起き始めたときと同じ時間に起きた。
「行ってみようかな」
朝早く起きて、やることはただ一つ。―――あの公園、あのベンチへ行くことしかない。
それなりに春も深まって徐々に夏がやってくる。それでも俺は前日雨に濡れて体が冷えたこともあり、あのときと同じ格好でそこへ行く。
すると彼も前と変わらず、ジャケットを羽織り、犬を連れてベンチに座っていた。
変わっているのは、俺と彼の立ち位置くらい。
俺は一度彼に聞いた言葉で、話し掛けた。
「恋人さんには、会えましたか?」
「うん、…今も目の前に」
返答は確かに前と違って、でも彼はふんわりとこれ以上ないってくらいに微笑んでこっちを見てくれた。
「やっと会えました。…でも、すぐお別れなんでしょう?」
彼は声を出さずにただコクリ、と頷いた。その表情はまた一変してすごく悲しそうだ。
「どこまで思い出した?」
「あなたのおかげで全部」
「…本当は、思い出させてあげる気なんてなかったんだよ。森くんは、思い出して、全てを知っても平気なの?」
「平気じゃないですよ。でも、上地さんとの思い出を全てなかったことにはしたくないです」
彼が名前を呼んでくれたから、俺もそれに応えるように彼の名を呼ぶ。
「きゃん、久しぶり」
上地さんの傍らに座っている『きゃん』の頭を優しく撫でて、抱き上げる。見た目通りの重さは全くない。
「さすがにきゃんまで見ちゃうと、森くんでも気づくかなと思って」
犬の“ダイスケ”はただの目くらまし。初めは徹底的に俺の記憶は消し去るつもりだったらしい。だけど今はこうしてきちんと“きゃん”の姿に会うこともできた。というか、実体を無くすと何でもありですか。
「消すつもりだったなら、どうして俺に過去を返してくれたんですか?」
「…同じだよ。一番大好きなきみに一番辛い出来事なんて残したくなかった。でも“思い出せないなら、思い出さなくていいのかな”って言ったきみを見て、そう思えなくなった。“森くんの中から僕が消えるなんて、嫌だ”“森くんと一緒の時を過ごせなくていい、でも過去くらいは共有したい”だから、夢にして返した。でも事故現場までは要らないよね。きみはその場所に居合わせなかったんだから」
確かにあの現場を俺は知らない。あの時の俺は仕事中で、連絡を受けてすぐに病院へ駆け付けた。あなたは既に話すことも、笑顔を見せてくれることも、俺の手を握り返すことも、体を抱きしめ返すこともできなくなっていた。全て、俺の一方通行な行動しかできなくなった。
「そして俺は気を失って、記憶を無くした」
「気を失うならまだしも、記憶喪失までは想像つかなかったよ。でも森くんが忘れたならそのままにしようって思った」
隣に座る彼は俺に寄り掛かってくる。でも何も感じない。重さも、触れているという感触も、温もりも。俺には彼が見えていて、彼は確かに俺に寄り掛かって左手を握ってくれているはずなのに。―――すり抜けていく。
「一度でもきみが僕に触れようとしたらどうしようって、そればかり考えていたよ。透明で透けて見えることはなくても、実体まではないからさ。気味悪がられるだろうし、もしかしたら思い出しちゃうって…。怒らないの?」
「怒る必要なんてないじゃないですか。上地さんは結局俺の記憶を返してくれたんですから、怒る必要なんてないです」
「ホント…、森くんには、敵わないなぁ…」
泣いているんですか、なんてそんな愚問は止そう。彼は完全に俯いてしまって彼より身長の高い俺からは完全に彼の表情なんて見えなくなった。彼は決して俺に泣き顔は見せてくれない。
そっと触れていた彼の手が、俺のその上に完全に滑り込む形になっていた。