02 気になり始めた彼
それから早く起きることが毎日のようになって、毎日のように病院を抜けては公園に散歩をしに行った。春もずいぶんと進んだこの季節には、カーディガンを羽織ったくらいがちょうどいい。
「おはよう」
「おはようございます」
彼も毎日のように散歩しに来ていた。“ダイスケ”を連れてのときもあったし、彼一人のときもあり、最近は彼が一人で来ることが多くなった。
“ダイスケ”は老犬で、最近では朝に元気に起き上がることがなくなってしまったらしい。
「もう永くないのかな」
二人でベンチに座り、彼は遠いところを見つめながら薄く微笑む。どんな微笑みも違うように見えて、でもやっぱり全てが綺麗で、愛犬を想う表情も、顔の知らない彼の恋人を想う姿も。
「そういえば、恋人さんには会えましたか?」
ここ数日で、彼のことを色々と知った。俺より年上だということ、だから彼は気軽に話しかけてくれるようになって、敬語が抜けると更に可愛いという印象を持った。
「うん、会えたよ。元気そうで、安心した」
愛しい人に会えたというのに、彼の表情はあまり晴れなくて、何故かいつも以上に悲しくなった。俺は感情移入し過ぎる。必要以上に踏み込むことなんて、相手にとっては不愉快でしかないのに。でもきっと、職業病なんだ。
何かを演じる、役者。何かになりきって、想いを伝える。その楽しさを彼に語ると、彼は「分かるよ」とただ一言、頷いてくれた。
「きみの抜け落ちた記憶って特別だよね。自分の名前も、職業も覚えているのに、他人のこと―――しかも一定の人だけ抜けているなんてさ」
「不思議ですよねぇ。俺、何のきっかけで記憶を無くしたのかも分からなくて。とりあえず、覚えている知人に聞いたんですけど、分からないって」
何かを隠しているのかもしれないし、医者はショックによるものが大きいんじゃないか、と言っていた。でもそれなら、俺がショックに思うことがあったはずなのに、それすら分からないし、誰も教えてはくれない。俺がそれを知れば、もしかしたら全てを思い出せるかもしれないのに。
「でももし、隠しているとしたら隠す理由があるんですよね。でも俺、そんなにきちんとできるタイプじゃないから、ふわふわしている気がするんで、大きくショックを受けることなんてないと思うんですけどね」
「きみは、知ってもショックを受けない自信があるの?」
「どうですかね? 忘れていることが、大切なんでしょうけど。全く思い出せなくて…でもそれって、そんなに重要じゃないのかなって思ったり」
早く記憶を取り戻したい、と焦るけれど、でも記憶が戻ってしまえば俺はここから退院して俺には会えなくなる。それが今の俺には堪らなく寂しい気分にさせた。
こんなふうに朝早く、彼と他愛のない会話をすることが今は楽しみで仕方がない。
「忘れてることが幸せだってこともあると思うよ。少なくとも、きみはその方がいいのかもしれないね」
「どうしてですか?」
「ん~…、あ、もうそろそろ、病室に戻った方がいい時間じゃないの?」
「あ、本当だ」
彼はネコ型の懐中時計を取り出して、俺に時間を見せてくる。飼っているのは犬なのに、好きなのはネコらしくて、その懐中時計はとても大切に使われていた。そんな姿もやっぱり可愛い。一つ一つの仕草に目が釘付けになって、放せなくなる。もっともっと、彼のことを知りたいし、もっともっと、彼と一緒にいたい。
俺は一歩、病院へ向かおうとして踏み込み、2歩目を踏み込みつつ上半身は彼の方に向けた。
「あの、俺たち、こうやって話すようにはなりましたけど、まだお互いの名前を知らないですよね」
「…知らない方がいいよ」
「え…?」
「ううん、また会ったら教えるよ。今日は病室に戻った方がいい」
そう言うと彼は「じゃあね」とベンチを立ちあがり、歩き出してしまった。
初めて会ったときとは違う、何故かもう会えない気がしてしまった。