01 可愛らしい人
何も変わらない日々が続いて、俺はだんだんとつまらないと感じるようになった。もう何も起こらないんだったら、早く家に帰りたいし、仕事もしたい。誇りを持ってはじめた仕事だというのに。ただ一見、病人のようにここにいるしかない。外傷だって何もないのに。無いのは、一欠けらの記憶だっていうのに。
「少し、外に出てみようかな…」
やることもないから体は疲れない。そうなるとやっぱり寝る時間なんてそう多くはいらなくて、早めに目が覚める。
今日はちょうど、気持ちのいい晴天で、俺はパジャマの上に軽くカーディガンを羽織って外に出た。
日が昇ったばかりの空は雲一つなく、ただ真っ青な、でも気持ちが安らぐ色をしていた。
病院のすぐ横には広い公園があって、患者も、一般人も使えるようになっていた。俺はたまにここを散歩する。ただ何気ない日常が過ぎていくのを、他人を見て実感する。それくらいしか、やることはなかった。
「おはようございます」
「え…、あ、おはようございます」
急に話し掛けられ、振り向くとそこには俺と同じくらい―――30代前半くらいの男性が少し寒いのかジャケットを羽織り、犬を連れて、いた。しかし彼は男性というには少し顔が整い過ぎていて、にこりと笑うと、どこか可愛らしい印象をもった。
「入院している方ですか? 随分と早いですね」
「早く目が覚めたんで…」
そう言う彼にも犬の散歩には早い時間だと思ったが、それは個々の事情があるだろうから黙っておくことにした。
「犬の散歩ですか。大きいですね」
大きい体を地面に下ろして大人しくしている犬は綺麗な毛並みのゴールデンレトリーバーで、彼と海辺なんかを走っていたらきっと絵になるだろう。
「ダイスケっていうんですよ」
「そうなんですか! 俺もダイスケっていうんですよ。わぁ〜、この子と同じ名前だぁ」
変化、少しの変化。
つまらない日常に変化。少しだけ、声が陽気になる。彼も偶然ですね、と微笑んでくれた。その笑みはどこかで見たことがある気がしたけれど、上手く思い出せない。でもきっと、この人と俺は初対面だ。だって、この人が俺のことを知っていたとしたら、名前を聞いて偶然ですね、なんて言うはずがない。
「あれ? 寝てる?」
「あー、ダイスケ寝ちゃったのか。まぁ、朝も早いもんね」
急に彼が甘やかすような声を出して犬のダイスケを撫でる。男性に対して言うのも失礼な話だけど、この人は可愛い。
「滅多にこの時間は散歩に来ないんですか?」
「うん、あ、いや…」
「いいですよ、俺は気にしませんから」
言葉遣いが不適切だと彼は思ったんだろう。でも俺はむしろその方がいい。気軽さがあった方が今は気分が優れてくれて助かる。
「気分を害してしまったらすみません。いつも散歩しないこんな早朝に来た理由って何かあったりするんですか?」
彼の睫毛が揺れる。
犬も含めて彼らは総てが綺麗で、魅入ってしまう。静かに揺れるその睫毛も、男性の割には小柄で、細身なその体も、微笑むその笑顔も、すごく守りたいと思わせる。無い記憶を探っても、はっきりとした『だれか』が分からないけれど、俺は彼と同じような人を知っていたのかもしれない。それくらい、彼を見ていると何かを知っているような気分になった。
「構いませんよ。…恋人に会いにね。きみと同じでここに入院しているんだけど、やっぱりきみと同じで、朝から病室を抜け出しているみたいだから」
そう言う彼は、今度は悲しげに睫毛を震わせた。想い人を想ってなのか、その目を見ると俺までが悲しくなる。でも不謹慎だがやはり、彼はどんな表情をしても見惚れてしまうほど、綺麗だった。
「すみません、やっぱり聞くことじゃなかったですね。俺、もう戻ります。そろそろ見回りの時間なんで」
「いいですよ、誰かに聞いてほしかったんです。それじゃ、また」
『また』その言葉が耳に残る。まるで『また』本当に彼に会えるようで、思わず嬉しくなる。俺はそう信じて、大きめに手を振って病院に戻った。