人事異動
俺は大銀行に在籍している。金融の世界は能力主義の極みだ。
各自が自分の価値を示す数値を胸と背中に着けている。所謂役職は四種類だが、その内一種類は特別職で実質は三種類だ。
俺たち自身の価値が徐々に下がっているので,役職も少なくなってきた。俺たちより下の役職は、一九五七年に一つ減り、一九八二年にも一つ減り、今はなくなっている。その二種類は全て外注・請負と言うか、組織が違う人たちに任せているため顔を見ることもほとんどない。
そして俺たちの今は男性と女性の比率が二対一となっている。長きにわたって男社会だったが,ようやく我銀行にも男女雇用機会均等法が浸透してきたようだ。
俺はと言えば,自慢じゃないが最上位の数字、価値が一番上ということだ。
職場には俺クラスが数十万人はいて、ほとんど身体を動かすこともなく、大きな取引を連日行っていた。このままずっと勤めるだろうと思っていた矢先,人生初の人事異動。しかも小さな会社へ出向となった。
納得できない。何も失敗はしていない。それどころか人並み以上に貢献してきた。なのにこんな仕打ちがあるのか。何故この俺なのだ。俺は腹が立って仕方なかった。しかし一度発表されるとどうしようもない人事異動。
少しゆっくりしろということか,と哀しみながらも自らを無理に納得させた。
異動先の会社に入ってびっくり。俺と同レベルの職員が五人しかいなかった。何と寂しい活気のない職場。狭さの所為か息苦しく、腰も痛くなってきた。臭いも気になる。俺はその日から次の異動を指折り数えて待った。
寂しさは増すばかり,五人が増えることはなく、減る一方で異動して二十六日目の昨日、とうとう二人っきりになった。俺たちより価値の低い職員は出たり入ったりしていたが、今は誰も居ない。
そして今夜、隣に居た俺クラスの職員が出され、ついに俺一人だけになった。
会社は本当に危ないんだ。次は俺が出される。
頭を抱えた俺の背後から「本日、この会社へ入りました。北里です。よろしくお願いします」というハリのある声が聞こえた。
俺は力なく振り向いた。北里と名乗る若者のしわ一つない肌が眩しかった。若々しい匂い、俺は息を大きく吸って「こちらこそよろしく」と会釈をした。
俺たちを出しては、俺たちより価値が低い北里のような者が入ってくる。これは社長の一貫した方針のようだ。俺を辞めさせれば北里のような若者を十人も雇うことができる。質より量なのか。冷静に考えると会社のためにはそれが正解だろう。俺はずっと大銀行の内勤だったのでしわやシミはないが、ごみごみとした市井に出たことによる急激な肌の衰えは隠せない。
俺にもこんな時代があった。俺は北里をただ眩しく眺めるだけだった。
「先輩、僕は社会に出たばかりです。いろいろ教えてくださいね」北里が頭を下げた。
「君は清潔な感じがいいよ。この前までいたやつなんか、見るからに汚れて、近くにいるのさえ耐えられなかったよ。汚いやつはすぐに出される。見た目は大事だ。君は重宝されると思うよ。でも、俺は、明日にでもここから出される身だから何も教えられないよ」
「僕こそ、ここにいつまで居るか分かりません。先輩クラスにならないと異動が激しいみたいですね。それに先輩がいなくなると、僕だけになっては会社が持ちませんよ。社長もそこらへんは分かっているとは思うんですけど……」
「社長は俺を出して、俺のポストに俺クラスは無理だが、誰か座らせるさ。多分女性だと思うよ。君一人だとさすがに社長も心配だろう」
「一人になった時のことを考えるだけで動悸がします」
「倒産しても命まで取られる訳ないし,君は次の会社でも重宝されるさ」俺は北里を慰めるだけだった。
次の日の夜、予想どおり俺が会社を出される時が来た。
「社長さん、毎度いらっしゃい。一時間五千円ポッキリ。前金制よ」トーンの低い女性の声。言い慣れたフレーズだろうに,たどたどしい日本語が聞こえた。
社長は俺を会社の外に引っ張り出し、「最後の栄一だ。栄一はお釣りで帰って来ないからな、寂しいよ。永遠の別れだよ」と言うと、俺に酒臭い唇を押し当てた。俺の顔はくしゃくしゃになった。人生初めてのキス,相手はおっさん。心もくしゃくしゃになった。
そんな俺を、女性は社長から引き離し、「未練たらしいよ、社長さん。今日も延長してよ。三十分二千円、一時間で四千円。安いよ」と言いながら、俺を上下に振った。
「昨日と今日で今月の給料前の決算祭りは終わり。もうお金がないよ。見てよ、あと千円しかないだろ。さすがに後二日間、心配だよ」社長は財布を広げて見せた。千円札の北里柴三郎君が心細そうにこちらを見ていた。
俺が会社と思っていたのはあの二つ折りの相当使い込んだ黒い革財布だったんだ。腰痛と臭いの原因は一目瞭然だ。一歩踏み出し外から見ないと何も分からない。俺は何度も頷いた。
「なんとかなるよ。昨日は一時間も延長したじゃないか。今日もしろよ。三十分でいいから」女性は俺を振り続けている。
もう止めてくれ。腰の鈍痛が激痛に変わっていた。
「昨日はまだお金があったの。今日は絶対に延長はできないよ。死んでも無理」社長は首を左右に大きく振った。
「次、来た時は延長してよ」
「いいよ、給料もらったら来るもんね。明後日には小遣い五万円が入るから」社長が笑った。
「じゃ、明後日。約束したぞ」女性が俺を振るのを止めた。
振られ続けていた俺はようやく店のレジの中へ納まった。動きが止まった安堵感はあったが、初めての場所という緊張感が勝り、頭のフラフラ感と腰痛は半端なかった。同じスペースには俺クラスの人々が集められていた。俺が乗った下の渋沢栄一さんが「いらっしゃい」と言ってくれた。少し安心した。
思えば大銀行は安定していたが楽しいかと言えば楽しくはなかった。安定、即ち不安がないことは楽しいこととは違う。不安があるから楽しいのではないか、とさえ思った。出会いと別れ,スリルとサスペンス。そしてそれが高揚感,ワクワク感に変わっていく。人生はこうあるべきだ。
しかも五年ぐらいで寿命となり、リサイクルされることが分かっている今,準備預金として大銀行の金庫の中に居続けることは考えられない。
それまでは出来る限りいろんな所へ行ってみたい。
キャッシュレスの社会,俺たちは異動が少なくなり,その存在価値を問われていた。よくぞ良い時に社会に出してもらった。出向と告げられた時の怒哀の感情は喜楽の感情に変わっていた。これから俺はどこへ行くのだろう。もう楽しみでしかない。次は身体を伸ばせる長財布がいいな。いい匂いだとなお嬉しい。
そして一時間が過ぎた頃、
「社長さん本当に帰る。あなたどうして」女性の甲高い声が聞こえた。
「どうしても」社長の低いトーン。
「分かた。明後日には来いよ。栄一を五人連れて。延長の延長大歓迎」という女性の弾んだ声が応えた。
レジが開き、俺の左隣にいた者が引っ張り出され、北里君の「来てくれて、良かったです」という安堵の声が聞こえた。
俺のポストに津田梅子女史が座ったのだろう。
偉人にも、悩みはあります。我々凡人に悩みがあって当然です。その悩みも外から見ると可笑しいものかも知れません。




