曇らせる男
◆
アルド王国王太子レオンハルトは自室の窓から中庭を見下ろし、唇の端をわずかに持ち上げる。この体に宿ってから三月が過ぎた。
肥満した指先、脂ぎった頬、だらしなく弛んだ顎。鏡を見るたび嘆息がこぼれたものだが今はむしろ好都合と思えてならない。
転生者として目覚めた瞬間、この世界がなにがしかの物語を下敷きにしていることは察しがついた。問題は自分がどの立ち位置にあるかということと、もう一つ。特典の有無である。
思いを馳せた刹那、胸の奥で何かが脈打った。
頭の中に情報が洪水の様にあふれてくる。それによれば、レオンハルトという肉の器の中にいる青年が得た力は『どんな相手でもその意に反して自分に冷たくさせる』というものだった。ひとたび発動すれば、婚約者も家族も、すべてが氷のような眼差しを向けてくるだろう。
青年はこの力を全く使い道のないくだらない力──とは思わなかった。
青年はいや、レオンハルトはほくそ笑んだ。前世で貪るように読んだ物語の数々が脳裏をよぎる。この力は彼の好みと非常に合っていた。
そう、好みだ。
青年には好みがあった。それは『曇らせモノ』というジャンルで、簡単に言ってしまえば主人公に近しい者たちが苦悩するというものだ。これはニッチながらも一定の人気がある。苦悩する理由や条件は様々だが分かりやすい所でいえば主人公が何らかの代償を支払って登場人物たちを守ったりして、それによって登場人物たちが「私の力が足りないせいで」と自責し、苦悩する──こんな所だろうか。
青年の力はこの曇らせを発生させるためにはひどく都合がよかった。自身を愛する者たちの意に反して、自身に冷たくさせる事で一体何が起きるのか。簡単である。その者たちは自責するだろう。苦悩するだろう。なぜ、自分はあんな事を言ってしまったのだと後悔するだろう。
青年としてはその苦悩を眺めてみたいのだ。しかしそうするためは前提条件がある。まず、好かれていなければならないのだ。
◆
「殿下、本日の執務書類をお持ちしました」
侍従の声には抑揚がない。形式的な礼をとると、書類を机の端に置いて早々に立ち去ろうとする。レオンハルトが声をかけても振り返りもしない。婚約者のリリアーナに至っては顔を合わせても目を逸らすばかり。薄い唇がかすかに歪むのは侮蔑か、嫌悪か。父王は溜息とともに手を振り、母后は扇で顔を隠して視線を外す。弟のアルベルトが文武両道の才を発揮するたび、宮廷の空気は重くなった。
「兄上には兄上の良さがございましょう」
アルベルトの言葉には棘がない。それがかえって胸に刺さる。社交界では「第二王子こそ次代の王にふさわしい」という囁きが公然と交わされ、廃嫡の噂も絶えなかった。痩身で眉目秀麗な弟と、肥え太った己。比較するまでもない。
だがと青年は内心で哂う。これこそ好機ではないか。どん底から這い上がり、周囲の心を掴んでこそ、能力は真価を発揮する。冷淡から愛情へ、そして再び冷淡へ。その落差こそが醍醐味なのだから。
翌朝から王太子は変わった。
夜明け前に起き、剣の素振りを始める。最初は十回で息が上がったものが一月後には百回をこなせるようになった。書物を読み、政務を学び、臣下の声に耳を傾ける。肉を控え、野菜と穀物を中心とした食事に切り替えると、肉体は徐々に引き締まっていく。
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「殿下、どうされたのですか」
侍従の目に戸惑いが浮かぶ。レオンハルトは穏やかに微笑んで答えた。
「目が覚めたのだ。遅すぎたかもしれぬが」
変化は緩やかに、しかし確実に広がっていった。父王の眉間の皺が薄れ、母后が茶会に呼ぶようになる。アルベルトとの剣の稽古では弟が初めて本気の汗を流すまでになった。臣下たちの態度にも温かみが増し、宮廷の空気は和らいでいく。
リリアーナの瞳に宿る光が変わったのは、季節が二度ほど巡ってからの事だった。
ふとした時に、レオンハルトの姿を見かけたのだ。かつての怠惰な男とは別人のような横顔に、胸の奥で何かが揺れた。
最初の変化は、些細なものだった。
廊下ですれ違う際、以前ならば目を逸らしていた視線が、ほんの一瞬だけ留まるようになる。レオンハルトが会釈をすれば、リリアーナもぎこちなく頭を下げた。それだけのことが、なぜか胸に残る。
妃教育の合間、リリアーナは決まって東翼の回廊を訪れた。白い石柱が等間隔に並び、その間から中庭の緑が覗く。柱の影が床の敷石に縞模様を落とし、噴水の水音が絶え間なく響いている。人の往来も少なく、侍女たちの目を逃れて一息つくには格好の場所だった。
石造りの長椅子に腰を下ろし、目を閉じる。講義の疲れを癒していると、不意に気配を感じた。見上げれば、王太子が立っている。
「隣に座ってもよいか」
断る理由もなく、小さく頷いた。彼は静かに腰を下ろし、同じように庭を眺める。会話はない。ただ噴水の音と、風が木々を揺らす音だけが二人の間を流れていった。
不思議と居心地は悪くなかった。
それから回廊で顔を合わせることが増えた。初めは偶然を装っていたものが、いつしか約束のようになる。
「あの花は何という名か」
レオンハルトが指さした先、噴水の縁に沿って淡い銀色の花が風に揺れていた。
「月霞草です。夜になると仄かに光るのですよ。母が好きで、実家の庭にも植えてありました」
「そうか。美しい花だな」
彼は目を細めて花を見つめた。その横顔を眺めながら、リリアーナは胸の奥が温かくなるのを感じる。
茶会の席で、隣に座ることが自然になった。彼が注いでくれた茶を受け取る時、指先がかすかに触れる。その熱が、いつまでも消えなかった。
「殿下は、お変わりになりましたね」
思わず口をついて出た言葉に、レオンハルトは少し驚いた顔をした。
「そう見えるか」
「ええ。以前とは、別人のようです」
「……変わらねばならなかった。遅すぎたが」
その目に浮かぶ翳りに、胸が疼いた。彼が何を抱えているのか、知りたいと思う。
ある日の講義の後、いつもの回廊へ向かうと、柱の向こうにレオンハルトの姿が見えた。中庭の片隅で剣を振るっている。汗を拭い、息を整え、また構える。その繰り返し。誰に見せるためでもなく、ただ黙々と己を鍛えていた。
かつての怠惰な姿はどこにもない。
石柱に手をつき、その背中を見つめながら、リリアーナは悟った。
自分はこの人を、好きになってしまったのだと。
そう、本来ならばそこから始まるはずだったのだ──二人の物語が。
だが。
リリアーナの瞳に自身への思慕を認めたレオンハルトは、能力を発動させた。
◆
茶会の席だった。
母后主催の小さな集まりで、リリアーナはレオンハルトの隣に座っている。いつものように彼が茶を注ごうと手を伸ばした。その指先が触れる瞬間を、密かに待ち望んでいたはずなのに。
「結構です」
自分の声が、耳を打った。冷たく、硬い響き。驚いて口元を押さえようとするが、手は動かない。
「私に構わないでいただけますか。殿下の隣に座っているだけで、気分が悪くなりそうですわ」
違う。そんなこと、思ってもいない。なのに言葉は止まらなかった。
「いくらお変わりになったところで、所詮は豚に真珠。王太子の器ではないことくらい、ご自身が一番よくおわかりでしょう」
茶器を置く音が、やけに大きく響く。周囲の視線が集まっているのがわかった。母后が扇の陰で眉をひそめ、侍女たちが息を呑んでいる。
レオンハルトの顔から表情が消えた。
「そう、か」
静かな声だった。傷ついているのが、わかる。わかるのに、謝罪の言葉が出てこない。代わりに口をついて出たのは、さらに残酷な台詞。
「アルベルト様こそが次代の王にふさわしい。皆がそう思っていますわ。殿下だけがお気づきでないのかしら」
席を立つ。振り返ることもできないまま、リリアーナは茶会の間を後にした。
背中に突き刺さる沈黙が、何よりも重い。
リリアーナは自分の口から出た言葉を信じられなかった。手は勝手に動き、唇は冷淡な拒絶を紡ぐ。心の中では悲鳴を上げているのに、体が言うことを聞かない。
なぜ。なぜこんな言葉が出るのか。喉を掻きむしりたい衝動を抑えながら、背を向けて歩き去る自分の足を呪った。振り返れない。振り返って謝りたいのに、首が動かない。
夜、一人になってから涙が溢れた。枕に顔を埋め、嗚咽を殺す。彼の傷ついた顔が瞼の裏に焼きついて離れない。あんなに好きなのに。あんなに努力してきた姿を見てきたのに。私は何をしているのだろう。指先が震え、胸が軋む。この苦しみに名前をつけることすらできなかった。
父王もまた、己の変貌に戸惑っていた。息子が立ち直ったことを喜んでいたはずなのに、いざ顔を合わせると言葉が出ない。褒めてやりたい。よくやったと言ってやりたい。なのに喉は塞がり、代わりに溜息ばかりが漏れる。執務室で一人になると、こめかみを押さえて呻いた。我が子を愛していないわけがない。それなのになぜ、こんなにも冷たく当たってしまうのか。夜半、寝台の上で天井を睨みながら、拳を握りしめる。この手で息子を抱きしめてやりたい。その願いすら叶わぬとは。
母后の苦悩はより深いところにあった。産み落とした我が子である。あの子が変わろうとしているのを、誰よりも喜んでいたのは自分ではなかったか。なのに茶会に呼んでも、ぎこちない沈黙が流れるばかり。手作りの菓子を差し出そうとして、なぜか手が引っ込んでしまう。愛しているのに。この胸には確かに愛があるのに。私室に戻ると膝から崩れ落ち、涙を拭う手が止まらない。
弟であるアルベルトは兄の変化を誰よりも喜んでいた。幼い頃、兄の背中を追いかけていた記憶がある。いつからか追い越してしまい、そのことがずっと心に棘のように刺さっていた。だから兄が立ち直ろうとしている姿を見て、胸が熱くなったのだ。なのに、言葉が出ない。剣の稽古で汗を流した後、「兄上、見事でした」と言おうとして、口をついて出るのは素っ気ない一言ばかり。兄の目に浮かぶ落胆を見るたび、自分を殴りつけたくなる。
宮廷全体に暗い影が落ちていた。
誰もが苦しんでいる。心と行動の乖離に誰もが引き裂かれている。だが周囲の葛藤とは裏腹に、レオンハルトの内側に巣くう青年は恍惚としていた。
これだ。この苦悶こそ求めていたものだ、と。
味を占めたレオンハルトはこれ──すなわち、力をつかって周囲の者たちの心を操り、自身に対して冷淡な態度を取らせるという事を繰り返すようになった。
そうして周囲の者たち──特に、レオンハルトに近しい者たちの目の下に、濃い隈ができ始めた頃。
レオンハルトは夢を見る様になった。
底のない暗黒が四方を囲み、足元さえ見えない。だが闇の彼方にボウッと光る何かが見える。それは自分であった。膝を抱え、震えている。口を開いて何かを喋っている様だが、声は届かない。ただ苦悶の表情だけが網膜に焼きつくように残った。
目覚めたレオンハルトは──夢の事をすっかり忘れてしまっていた。
◆
リリアーナの心は日を追うごとに擦り減っていった。愛する人を傷つけ続ける日々。それがどれほど残酷か、誰にもわかってもらえない。母親に相談しても首を傾げられるばかりである。友人たちも困惑の表情を浮かべ、的確な助言は得られなかった。
誰も理解してくれない──そんな孤独が少しずつ彼女を蝕んでいく。そして。
月のない夜だった。
リリアーナは化粧台の前に座り、装飾用のナイフを手に取っていた。
──もう疲れた。愛する人を傷つけ続けるくらいなら、いっそ。
刃が燭台の光を反射し、鈍く煌めく。
白い手首に刃を当て、目を閉じる。だが刃が肌を裂いた瞬間、想像を絶する痛みが走った。焼け火箸を押し当てられたような熱さと、骨の髄まで響く鋭い痛みが同時に襲ってくる。
悲鳴を上げる間もなく、体が椅子から崩れ落ちる。化粧台にぶつかり、硝子の小瓶がいくつも床に散らばった。冷たい床に頬をつけたまま、リリアーナは自分の手首を見た。赤い筋が、思ったよりも多くの血を流している。
──怖い。
死にたかったはずなのに、血を見た途端、恐怖が込み上げてきた。覚悟は出来ていたはずなのに、それでもいざ死を目前とすると怖気を覚える──そんな自分に、リリアーナは嫌気が差した。
──私のような女にふさわしい死に方なのかもしれない。
そんな事を思い、痛みに耐えて目を瞑っていると。
扉が勢いよく開いた。
「リリアーナ様!?」
リリアーナがたてた音を聞いた侍女が様子をうかがいにやってきたのだ。そして悲鳴。駆け寄る足音。誰かが自分の手首を布で押さえ、誰かが医師を呼びに走っていく。
薄れゆく意識の中で、リリアーナはただ一つのことだけを思った。
──殿下に、謝りたい
◆
事件の後、レオンハルトは献身的に婚約者を支えた。毎日公爵邸を見舞いに訪れ、花を飾り、本を読み聞かせる。能力は使わず、ただ傍にいる。無論、優しさからの行為ではない。リリアーナの頬に血の気が戻り、手首の傷が癒えて笑顔が戻るまでと決めていた。なぜなら、その方が美味しいからだ。
そんな日々を過ごす間にも、あの夢は変わらず見続けていた。闇の中の自分はますます激しく震えるようになっていた。まあ、目覚めれば忘れるのだが。
そうして日々は過ぎ去っていき、リリアーナもすっかり元気になり。
二人はとうとう結婚式の日を迎える事になる。この日以降、二人は婚約者同士ではなく、夫婦となるのだ。
その晴天だった。白い花が咲き乱れる大聖堂でレオンハルトはリリアーナと向かい合っていた。リリアーナの瞳には愛が溢れている。
「汝、レオンハルトは、リリアーナを妻とし──」
神官の言葉が響く。
レオンハルトは言うまでもなく「誓います」と答えた。そしてリリアーナが誓いの言葉を述べる番が来る。レオンハルトの──いや、青年の狙いは単純である。ここで力を使い、リリアーナに自身を拒絶させるのだ。リリアーナはきっと絶望するだろう。今度こそ自殺してしまうかもしれない。いや、リリアーナだけではない。この場にいるすべての者たちの心を操り、自身を拒絶させよう。そうしてこの国を去っても良いかもしれない。そうすれば、そうすればきっと自分の中での最高の、理想の『曇らせ』が味わえるだろう。
そうしてレオンハルトはありったけの力をふり絞った。
瞬間、体が凍りつく。
腕が勝手に動き、儀式用の銀の短剣を握る。制御が利かない。止めろ、と叫んでも声にならない。刃が己の胸に向かう。痛みとともに視界が暗転し、青年の意識は深淵へと沈んでいった。
悲鳴が大聖堂を満たした。リリアーナは崩れ落ち、父王は駆け寄り、母后は気を失いかける。アルベルトが兄の体を抱え起こし、必死に名を呼んだ。血が白い床を染め、花嫁の純白のドレスを汚していく。
◆
王太子は目を覚まさなかった。
医師団が総出で治療に当たり傷口は塞がったものの、意識は戻らない。寝台に横たわる姿はまるで死人のように青白い。父王は息子の枕元に座り込み、動かぬ手を握りしめた。謝らねばならぬことがある。冷たくしてしまったこと。素直に愛を伝えられなかったこと。なのに、その機会すら与えられないのか。
「レオンハルト、起きてくれ」
声は震え、涙が頬を伝う。王として気丈に振る舞わねばならぬはずが息子の前では一人の父親に戻ってしまう。頼む、目を開けてくれ。お前を愛している。ずっと愛していたのだ。
母后は息子の傍を離れなかった。食事も睡眠もろくに取らず、ただ祈り続けている。この子を産んだ日のことを思い出す。小さな手が自分の指を握り返したとき、世界で一番幸せだと思った。なのに、その手を温かく握り返すことすらできなかった日々。悔恨が胸を焼く。
アルベルトは兄の寝室の扉の前で立ち尽くすばかりだ。あるいは自分達が兄をああさせてしまったのかもしれない、そう思うと入る勇気が出ないのだ。だが三日目の夜、ついに扉を開けた。レオンハルトの顔は蝋のように白く、呼吸だけがかすかに胸を上下させている。その手を取り、額を押し当てた。
「兄上、すまなかった。本当はずっと誇りに思っていたのに」
声が詰まる。涙がレオンハルトの手を濡らした。
リリアーナは毎日、花を届けた。話しかけても返事はない。握った手は冷たく反応もない。
「お願いします、目を覚ましてください」
涙声で懇願しても、瞼は開かない。
五日目、医師が首を振った。
「我々にできることはもうありません。あとは神の御心次第です」
その言葉に、母后が崩れ落ちた。父王は拳を壁に叩きつけ、アルベルトは声もなく涙を流す。リリアーナは王太子の手を握りしめ、祈った。
──神様、どうかこの人を連れていかないでください。私はまだ、この人に愛を伝えていないのです。
七日目の朝だった。
窓から差し込む光の中で、レオンハルトの瞼がかすかに震えた。リリアーナは息を呑み、その顔を覗き込む。長い睫毛がゆっくりと持ち上がり、琥珀色の瞳が光を映した。
「レオンハルト様」
声にならない声で名を呼ぶと、レオンハルトは薄っすらと笑みを浮かべた。
◆
知らせを受けて父王、母后、アルベルトが駆けつけた。
皆の顔には安堵と困惑が入り混じっている。なぜ自らの胸を刺したのか。その問いが誰の目にも浮かんでいた。
レオンハルトは身を起こし、ゆっくりと口を開いた。
「皆に、話さねばならぬことがある」
声はかすれていたがしっかりとした意志が感じられる。リリアーナが背中に枕を当て、体を支えた。
「私は呪いを受けていた」
その言葉に、部屋の空気が凍りついた。父王が眉をひそめ、母后が口元を押さえる。
「呪い、ですか」
アルベルトが問い返す。レオンハルトは静かに頷く。
「私を標的にした呪いだ。近しい者ほど、私に冷たくなる。どれほど私を愛していても、その心に反して冷淡に振る舞ってしまう。皆が苦しんでいたのはそのせいだ」
リリアーナの目から涙が溢れた。あの日々が蘇る。愛しているのに冷たくしてしまう苦しみ。自分を責め続けた夜。手首に刃を当てたあの瞬間。すべては呪いのせいだったのか。
「私が殿下に冷たくしてしまったのは……」
「君のせいではない。誰のせいでもない。呪いがそうさせていたのだ」
父王が一歩前に出た。
「なぜ、もっと早く言わなかった」
その声には怒りと悔恨が混じっている。息子が苦しんでいるのを知りながら、自分は冷たくしてしまっていた。その理由がわかった今、やりきれない思いが込み上げてくる。
「言えなかったのです、父上」
王太子は静かに答えた。
「呪いの性質上、口にすれば効力が増す。私が呪われていると知れば、皆はより一層苦しむことになる。だから黙っているしかなかった」
母后が息子の手を取った。
「でも、なぜ自分の胸を……」
「呪いを解く方法は一つしかなかったのです」
王太子は窓の外に目をやった。大聖堂の尖塔が朝日を受けて輝いている。
「神がおわす場所で、己の命を捧げること。結婚式の最中、大聖堂の祭壇の前でなければ、呪いは解けなかった」
沈黙が流れた。皆がその言葉の意味を噛みしめている。
「ではあの時……」
アルベルトが声を絞り出した。
「兄上は呪いを解くために自らを……」
「ああ」
レオンハルトは弟の目を見つめた。
「お前たちを、これ以上苦しめたくなかった」
リリアーナがレオンハルトの胸に顔を埋めた。嗚咽が漏れる。自分が手首を切ったあの夜、彼はどれほど苦しんだだろう。愛する者たちから冷たくされ続け、それでも呪いのことを口にできず、一人で耐え続けていたのだ。
「ごめんなさい、私……」
「謝るな」
レオンハルトはリリアーナの髪を撫でた。
「お前は何も悪くない。誰も、悪くないのだ」
父王が肩に手を置く。
「生きていてくれて、よかった」
その声は震えていた。王として、父として、これまで見せたことのない脆さがそこにある。
「七日間、お前が目覚めないかもしれないと思うと、気が狂いそうだった。冷たくしてしまったことを謝ることも、愛していると伝えることもできないまま、お前を失うのかと……」
母后も涙を流しながら息子の手を握りしめた。
「許してちょうだい。あなたを傷つけてしまって。本当はずっと抱きしめたかったのに」
「わかっています、母上」
レオンハルトは微笑んだ。
「皆の心はずっと伝わっていました。言葉や態度は冷たくても、その奥にある愛情は感じていた。だからこそ、呪いを解きたかった」
アルベルトがレオンハルトの前に膝をついた。
「兄上、俺は……」
「アルベルト」
レオンハルトは弟の肩を掴んだ。
「お前の剣の腕は見事だった。稽古のたびに、誇らしく思っていた。お前が俺の弟で、よかった」
アルベルトの目から涙が溢れた。ずっと言いたかった言葉がようやく口をついて出る。
「俺も、兄上が兄で誇らしかった。ずっと、ずっと……」
「生きていたのは神の御心だろう」
王太子はそう締めくくった。
窓の外で、鐘が鳴り始めた。王太子が目覚めたことを告げる鐘が王都中に響き渡る。
◆◆◆
物心ついた頃から、弟は輝いていた。
剣を取れば師範をしのぎ、書を読めば碩学を唸らせる。社交の場では人を惹きつけ、武芸の試合では無敗を誇った。それに引き換え、自分は何もかも平凡に過ぎない。比較されるたびに心が摩耗していく。両親は「お前にはお前の良さがある」と慰めてくれたがその言葉がかえって胸を抉った。
いつからか、努力をやめた。どうせ敵わないのならば、いっそ愚者を演じてしまえ。怠惰に身を委ね、傲慢に振る舞い、愚鈍を装う。最初は演技だったはずがやがて本物になっていった。周囲の目が変わるのがわかる。呆れ、失望、そして見捨てられる。このままではいけないとは思いながらも、今更どうしろというのか。
自棄になっていたとき、異変が起きた。自分の中にもう一人の自分がいる。奇妙な感覚だった。その「誰か」は自分の体を使い、努力を重ね、周囲の信頼を取り戻していく。最初は感謝すらした。だがやがて私はその者の本性を知った。
これは外道だ。
人の苦しみを悦ぶために愛を育て、実った頃に刈り取る。父が母が弟がそしてリリアーナが歪んだ力によって苦悩する様を眺めて恍惚としている。リリアーナが手首を切ったと知ったとき、体の奥底から叫び声が上がった。
夜ごと闘った。暗闇の中で己の体を取り戻そうともがき続けた。届かない。何度叫んでも、この外道には届かない。それでも諦めなかった。
結婚式の日、外道が能力を使おうとした瞬間、私はありったけの力を振り絞った。ほんの一瞬、体の主導権を奪い返すことに成功した。そうして短剣を抜き、己の胸に突き立てたのだ。これで終わりだ、と私は安堵した。こんな外道と、こんな愚かな自分と、まとめて消えてしまえばいいのだと。
そうして目覚めたとき、私の体の中には自分しかいなかった。傍らにはリリアーナがいて、涙を流している。父と母が駆けつけ、弟が手を握ってくれている。
皆が泣いていた。自分のために、泣いてくれていた。
呪いというのは方便ではあるが、間違ってはいないだろう。だが……あの外道の事を伏せた事は自分でも奇妙に思う。
ただ、なんとなくこう思ってしまったのだ。
あの外道にはこうして涙を流してくれる者がいたのだろうか。あの歪んだ愉悦の裏に何があったのか。誰かに愛された記憶はあったのだろうか。人の苦しみを糧にしなければ生きられなかったのはなぜなのだろう、と。
一瞬胸が軋み、私はあの外道に同情してしまった。
伏せて置いた理由としてはこんな所だろうか。
ともあれ、あの外道はもういない。戻ってくる事もないだろう。胸を刺した瞬間、説明はしづらいが私はあの外道が死んでいくのを感じた。
あの外道は生涯決して許さない。だが、しかし。もし奴が生まれ変わる様な事があれば、真っ当に愛し、愛されるような人生であって欲しいとは思う。
(了)




