第76話 イリス・プライム防衛戦
イリス・プライム。
かつては豊かな緑と水を湛え、この矮小銀河における文明の発祥地として栄えた美しい惑星。
だが今、その輝きは絶望の赤に塗り潰されようとしていた。
惑星の衛星軌道上は、鉄と肉片、そして爆炎が入り乱れる地獄の様相を呈していた。
「――第3防衛戦線、崩壊!これ以上持ちこたえられません!」
「右翼艦隊、全滅!ネメシスが……奴らが本星の大気圏内に侵入します!」
「ダメだ、数が違いすぎる!弾薬もエネルギーも尽きた!もう終わりだぁッ!!」
通信機からは、断末魔の叫びと絶叫が絶え間なく流れ込んでくる。
銀河共和国軍総司令官、アトキンス提督は、旗艦『アーク・ロイヤル』のブリッジで、血の気が失せた顔を覆いたくなる衝動を必死に堪えていた。
「怯むな!ここで我々が退けば、背後にいる1兆の民が食い殺されるのだぞ!!」
アトキンスは裂帛の気合いで叫んだ。
だが、その声も虚しく響く。
戦況は、もはや「敗北」という言葉すら生ぬるいほどの惨状だった。
この矮小銀河に突如現れた災厄、『ネメシス』。
あらゆる有機物を喰らい、無限に再生する不死身の異生命体。
かつて人々が暮らしていた星々は、ことごとく彼らに喰い尽くされた。
生き残った人類およそ1兆人が、最後の希望として逃げ込んだのが、このイリス・プライム星系だった。
銀河共和国が誇った100万隻の艦隊は、繰り返される撤退戦の中で消耗し、今や稼働できるのはわずか1万隻。
造船所も資源惑星もすべて奪われ、補給など一滴もない。
対するネメシスは、喰らった生命体を苗床に増殖し、その数は数十億、いや数百億に達しているだろう。
漆黒の宇宙を埋め尽くす、肉塊のような生体宇宙船の群れ。
それらが今、最後の防波堤である共和国艦隊を飲み込もうとしていた。
「提督!旗艦の主砲、『ギガ・レーザー』充填率120%!これ以上は臨界点を超えます!」
オペレーターが悲鳴のように報告する。
この旗艦に搭載された大出力レーザー砲だけが、唯一、ネメシスの再生能力を上回り、奴らを細胞の一片すら残さず蒸発させることができる兵器だ。
だが、発射には膨大なエネルギーと冷却時間を要する。
「まだだ……!もっと引きつけろ!一撃で最大数を葬るのだ!」
「しかし、敵の前衛が本艦に迫っています!シールドが持ちません!」
モニターには、醜悪な触手と牙を持つネメシスが、目前まで迫っているのが映し出されていた。
アトキンスは拳を握りしめ、血を吐くような命令を下した。
「……護衛艦隊に告ぐ!この旗艦を守るのだ!」
彼は叫んだ。
「この旗艦が搭載している大出力レーザー砲しか、奴らに歯が立たん!発射までのインターバルを何としても稼ぐのだ!……ネメシスに特攻してでも、近づけさせるな!!」
それは、指揮官として言ってはならない言葉だった。
だが、そうする以外に道はなかった。
通信越しに、部下たちの短い、しかし決意に満ちた返答が聞こえた気がした。
ズガガガガガンッ!
窓の外で、味方の駆逐艦が加速し、迫りくるネメシスの群れに自ら突っ込んでいく。
爆発。
自らの命を弾丸に変え、敵の足止めをする同胞たちの姿。
そうやって、何千、何万という兵士たちが、わずか数秒の時間を稼ぐために散っていった。
「……距離至近!いつでも撃てます!」
「撃てぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
アトキンスの号令と共に、旗艦の前部が展開し、極大の閃光が放たれた。
青白い光の奔流が宇宙を切り裂く。
直線上にいた数十万のネメシスが、断末魔を上げる間もなく蒸発し、消滅していく。
圧倒的な破壊力。
宇宙に一瞬の空白が生まれた。
「やったか……!?」
乗組員たちが歓声を上げようとした、その時だった。
光が収まると、そこには絶望が待っていた。
数十万を消し飛ばしたはずの空間を、背後から湧き出した新たなネメシスの群れが、即座に埋め尽くしたのだ。
数千億、数兆という圧倒的な数の暴力の前では、一隻の戦艦の主砲など、大海に石を投げるようなものだった。
「そんな……」
「嘘だろ……あんなに倒したのに……」
ブリッジに絶望が伝染する。
警報音が変わった。
敵の増援が、旗艦を襲おうとしている。
「……もう、ダメか」
アトキンス提督は、ガクリと膝をついた。
もはや打つ手はない。特攻させる味方も残っていない。
主砲の発射には10分かかる。だが、我々の命はあと1分も持たないだろう。
「人類は……滅びゆく運命なのか……」
アトキンスは眼下に広がる青い惑星を見た。
あそこには、1兆人の市民がいる。
家族が、友人が、恋人たちが、震えながら救助を待っている。
だが、その空がネメシスに覆われるのも時間の問題だ。
「すまない……私は、もう先に逝く……」
アトキンスは震える手で懐からビームガンを取り出した。
捕まれば、ネメシスに生きたまま食われる地獄が待っている。
せめて、人間としての尊厳を保ったまま死にたい。
彼は銃口をこめかみに当てた。
冷たい感触。
引き金に指をかけ、目を閉じる。
(許してくれ……みんな……)
「提督ッ!!!」
その時、レーダー手が喉を引き裂かんばかりの絶叫を上げた。
「周辺宙域に超高質量の重力反応、多数ッ!!その数……計測不能!100万隻艦隊規模です!!」
アトキンスは目を開けた。
「……なに?」
「ワープアウトしてきます!本艦の至近距離です!!」
「100万隻だと!?馬鹿を言うな、我々の軍にそんな数はいないぞ!?ネメシスの増援か!?」
「いえ、識別信号……該当なし!ですが、敵性生体反応ではありません!金属反応です!」
アトキンスは呆然と窓の外を見た。
金属反応?100万隻?
そんな馬鹿な。
この銀河のどこに、そんな戦力が残っているというのだ。
アトキンスがワープアウト予定宙域を凝視した、その瞬間。
空間が、砕けた。
光の粒子が乱舞し、巨大な質量を持った「何か」が、次々と実体化する。
それは、銀河共和国の無骨な船とは違う。
洗練され、白銀に輝く、見たこともない形状の戦艦たち。
100、1000、1万……いや、視界を埋め尽くすほどの、整然とした大艦隊。
そして、その中心に現れたのは――
「な、なんだあれは……」
全長20キロメートル。
共和国軍の旗艦ですら豆粒に見えるほどの、超弩級の巨艦。
それはまるで神話の神が乗る箱舟のように、戦場に降臨した。
「て、提督!正体不明の艦隊から、全帯域通信!共和国軍の通信帯域に割り込んできます!」
「繋げ!敵か味方か!?」
メインスクリーンにノイズが走り、一人の男の姿が映し出された。
黒い軍服を纏い、不敵な笑みを浮かべた、精悍な若者。
『――よお。随分と派手に追い込まれているな、現地の司令官殿』
男は、戦場の喧騒などどこ吹く風といった様子で言った。
アトキンスは震える声で問うた。
「き、貴官は……何者だ?敵か、味方か?」
『俺か?俺は通りすがりの生産者……クロウ・フォン・フライハイトだ』
男はニヤリと笑った。
『味方だと思ってくれていい。……少しばかり、掃除をさせてもらうぞ』
男が視線を外し、誰かに命じる様子が映る。
『オーディン、目標、前方展開中のネメシス全群。――対消滅縮退砲、発射用意』
スーパー・ノヴァ。
その名が告げられた瞬間、超巨大戦艦の艦首が幾重にも展開し、空間そのものが悲鳴を上げるようなエネルギーの収束が始まった。
周囲の無人艦隊すら霞むほどの、圧倒的な光の奔流。
『消えろ。……発射』
閃光。
音はなかった。
だが、その威力は宇宙の理を超えていた。
放たれた極大のビームは、着弾と同時に空間ごと「縮退」し、そして爆発的な「対消滅」を引き起こした。
それは、擬似的な超新星爆発。
数百億のネメシスが密集していた空間が、まばゆい光に飲み込まれる。
再生能力?細胞?そんな次元の話ではない。
原子、分子、素粒子に至るまで、存在そのものがエネルギーへと変換され、この宇宙から抹消されていく。
「……ぁ……」
アトキンスは言葉を失った。
光が収まった後、そこに広がっていたのは、ただの虚無。
数億、数十億といたはずのネメシスの大群が、たった一撃で、文字通り「無」に帰していた。
残骸すら残っていない。
『……ふん、こんなものか。案外脆いな』
通信機から、男の拍子抜けしたような声が聞こえた。
「ば、馬鹿な……」
アトキンスはへなへなと座り込んだ。
たった一撃。
たった一隻の主砲が放った一撃で、我々を絶望の淵に追い込んだ銀河規模の厄災が、消しゴムで消されたように宇宙から消え去ったのだ。
「これが……生産者……?」
アトキンスは理解を超えた光景に、ただ震えるしかなかった。
絶望に染まっていたイリス・プライムの空に、今、規格外の救世主が降臨したのだ。




