第59話 湯の里
青き宝石のような海でのひとときは、俺たちにとって夢のような時間だった。
潜水艇による海底散歩を終えた俺たちは、興奮冷めやらぬまま、再び白い砂浜へと戻ってきた。
「楽しかったね!パパ、お魚いっぱいいたね!」
ルルが満面の笑みで飛び跳ねる。
その髪は潮風に吹かれて少し乱れ、肌は健康的なピンク色に染まっている。
俺もシャルロットも、そして冷静沈着なシズや老練なギリアムでさえも、この圧倒的な大自然の美しさに心を洗われた気分だった。
だが、感動の余韻に浸りつつも、一つだけ気になることがあった。
「……ふむ」
俺は自分の腕をさすった。
べたつく。
海辺特有の湿気と、微細な塩分を含んだ風が、肌にまとわりつくような感覚だ。
完全空調で管理された宇宙コロニーや、常にクリーンな状態に保たれている戦艦の中では決して味わうことのない不快感である。
「どうしたんだい、クロウ?難しい顔をして」
アレクが不思議そうに尋ねてくる。
「いや、海は最高だったんだが……この、なんて言うか、身体がベタつく感じがな。これも自然の一部だと言われればそれまでなんだが」
俺が苦笑すると、シャルロットも少し困ったように頬に手を当てた。
「そうですね...。髪も少しゴワゴワしますし、お肌に塩がついているような……。シャワーをお借りできれば嬉しいです」
それを聞いたアレクは、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、なるほど。『潮のベタつき』か。それなら、ただシャワーで流すだけじゃもったいないよ」
「もったいない?」
「うん。実は屋敷に戻る途中に、このベタつきを流すのに『最高な場所』があるんだ」
「ん...?」
「ここからエアカーですぐの渓谷に、とびきりの『温泉街』があるんだよ。寄っていかないか?」
「オンセン……?」
俺たちは顔を見合わせた。
知識としては知っている。地熱で温められた地下水に入浴する文化だ。
だが、水資源が貴重な宇宙コロニーにおいて、風呂といえば「超音波洗浄機」か、せいぜい「少量の湯を使ったシャワー」が関の山だ。
湯船にたっぷりと湯を張り、そこに身体を沈めるなどという行為は、超特権階級にのみ許された贅沢であり、俺たちには馴染みがない。
「面白い。話には聞いていたが、本物の温泉か。ぜひ体験させてもらおう」
「やった!ルル、温泉いく!」
こうして俺たちは、アレクの案内で「温泉街」へと向かうことになった。
***
エアカーで海岸線を離れ、内陸の山間部へと入っていく。
緑深き山々を縫うように進むと、やがて前方の谷間から、白い煙が立ち上っているのが見えてきた。
「あれが『湯の里』だよ」
アレクが指差した先には、信じられない光景が広がっていた。
渓谷の斜面にへばりつくように、木造の建物がびっしりと立ち並んでいる。
帝国の都市のような無機質なビル群ではない。
木と石と瓦で作られた、風情ある建築群だ。
あちこちから白い湯気が噴き出し、硫黄独特の香りが微かに漂ってくる。
提灯の明かりが灯り始め、浴衣姿の人々が行き交うその場所は、まるで御伽話の世界か、あるいは時代劇のセットの中に迷い込んだようだった。
「こ、これは……なんとも趣深い場所ですな!」
ギリアムが目を丸くして身を乗り出す。
「帝国の保養地といえば、巨大なガラスドームの中にある人工ビーチやカジノですが、ここは全く違います。なんという情緒……!」
「いい雰囲気だろ?ここは昔、惑星開拓時代に発見された源泉地帯でね。領民たちの憩いの場なんだ」
アレクは慣れた手つきでエアカーを村の入り口にある駐車場に停めた。
車を降りると、硫黄の匂いが強くなる。
だが、不思議と不快ではない。
むしろ、大地のエネルギーを感じさせる力強い香りだ。
「さあ、こっちだ。僕の馴染みの宿があるんだ」
石畳の坂道を歩く。
すれ違う人々は、領主であるアレクの顔を見ると、「若様!」「今日は珍しいお客さんかい?」と気さくに声をかけてくる。
アレクも笑顔で手を振り返す。
ここには、帝国の貴族社会にあるような堅苦しい主従関係や、殺伐とした空気は微塵もない。
ただ、温かい「生活」があるだけだ。
案内されたのは、渓谷の一番奥に位置する、立派な構えの老舗旅館だった。
『秘湯・白竜の宿』と書かれた看板がかかっている。
暖簾をくぐると、木の温もりに満ちた玄関があり、女将らしき女性が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、アレク様。おや、今日はお連れ様がいらっしゃるのですね」
「ああ、大事な友人なんだ。一番いい露天風呂、空いてるかい?」
「ええ、もちろんですよ。貸し切りにしておきますね」
***
ここからは男女別だ。
男湯には俺、アレク、そしてギリアム。
女湯にはシャルロット、ルル、そしてシズが入ることになった。
脱衣所で服を脱ぎ、タオル一枚になる。
コロニー育ちの俺としては、他人の前で全裸になるという習慣には少々照れがあるが、郷に入っては郷に従えだ。
ガラス戸を開け、浴場へと足を踏み入れる。
「おお……!」
思わず声が出た。
そこは、岩で作られた巨大な露天風呂だった。
目の前には切り立った渓谷の絶景が広がり、眼下には川が流れている。
湯船には白濁した湯がなみなみと湛えられ、こんもりと湯気を上げている。
「まずは掛け湯をして、汗と潮を流してから入るんだ」
アレクに見よう見まねで桶を使い、湯をかぶる。
熱い。
だが、心地よい熱さだ。
肌にまとわりついていた塩気が、さっぱりと洗い流されていく。
そして、いざ入湯。
「……くぅぅぅぅぅぅ……」
湯船に肩まで浸かった瞬間、俺の口から言葉にならない呻き声が漏れた。
熱い湯が全身を包み込み、筋肉の強張りを一本一本ほぐしていくようだ。
重力がふっと軽くなったような浮遊感。
身体の芯までじわじわと熱が伝わり、日々の激務で蓄積された疲労が、湯気となって空へと溶けていく。
「こ、これは……極楽、ですな……」
隣でギリアムが、とろけそうな顔をして天を仰いでいる。
「旦那様、長生きはするものです。この歳になって、これほどの快楽を知るとは……ああ、骨の髄まで染み渡りますぞ」
「ははは、気に入ってくれたみたいだね」
アレクが手ぬぐいを頭に乗せて笑っている。
「これが温泉の力さ。この星のマグマが温めた大地の恵みだ。ミネラル豊富で肌にもいいし、何よりリラックス効果がすごいだろう?」
「ああ、認めよう。これはすごい」
俺は岩にもたれかかり、空を見上げた。
木々の間から見える空は、夕焼けに染まり始めている。
帝国の高官たちとの舌戦、ドロイド軍の指揮、内政の書類仕事……そういったものが、遥か彼方の出来事のように思える。
「なあアレク。お前はとんでもない武器を持っているぞ」
「武器?」
「ああ。この温泉だ。帝国の中央にいる貴族や官僚どもは、みんなストレスで胃に穴が開く寸前だ。あいつらにこの快感を教えたら、言い値で金を払うぞ」
「また商売の話かい?クロウは本当に根っからの商売人だね」
アレクは可笑しそうに笑ったが、俺は真顔だ。
「いや、金だけじゃない。この『癒やし』は、殺伐とした銀河において、何よりも得難い資源だ。俺が計画している平民向けのリゾート計画、これを目玉にしよう。海水浴のあとに温泉。こんな贅沢、皇帝陛下だって味わってないはずだ」
「確かにね。みんながこんな風に裸になって、同じ湯に浸かれば、争いごとなんて馬鹿らしくなるかもしれないな」
「全くだ。……ふぅ、生き返る」
俺たちは男同士、湯煙の中で語らい、絆を深めた。
***
一方、女湯。
こちらも同じく、渓谷を望む絶景の露天風呂だった。
ただし、こちらは檜造りの浴槽で、ほのかに木の香りが漂っている。
「きゃー!おっきいお風呂!」
ルルが一番乗りで湯船に入ろうとするが、シャルロットが優しく止める。
「ルル、慌ててはダメ。滑って転んだら大変。それに、まずはちゃんと体を流してからね」
「はーい!」
シャルロットは手桶でルルの小さな背中にお湯をかけてやる。
「あつっ!でも、きもちいい!」
二人が身体を流し終え、ゆっくりと湯船に浸かる。
「はぁ……。本当に、夢のようです」
シャルロットはお湯を掌ですくい、その感触を楽しんだ。
とろりとした湯は肌に優しく、まるで美容液の中に浸かっているようだ。
「お肌がすべすべになります。これなら、エステなんて必要ありません」
「ママ、おはだツルツル!」
「ルルのお肌もマシュマロみたいよ」
二人がキャッキャと戯れる様子を、シズが少し離れた場所から静かに見守っていた。
彼女もまた、タオルを巻いて湯に浸かっている。
彼女はドロイドだ。
防水・耐熱機能は完璧であり、入浴に支障はない。
「シズさん、あちらへ行かなくてよろしいのですか?」
シャルロットが手招きする。シズは首を横に振った。
「いえ、私はここで。……温度42度、硫黄成分濃度適正。生体反応スキャン、シャルロット様、ルル様共に心拍数安定、副交感神経優位。極めてリラックス状態にあると推測されます」
シズは事務的に述べたが、その表情は普段よりも柔らかかった。
「シズも、気持ちいい?」
ルルがパシャパシャとお湯をかけてくる。
シズは目を閉じ、自身のセンサーが伝える情報を処理した。
熱源探知、圧力センサー、化学分析。それらのデータが統合され、彼女の電子頭脳に一つの結論を導き出す。
「……はい。私の機体温度も上昇中。これを『心地よい』と定義します。悪くない感覚です」
「ふふ、シズさんももっと楽しみましょう」
「……承知しました。では、背中をお流ししましょうか?」
女湯からは、楽しげな笑い声と湯音が、いつまでも響いていた。
***
風呂上がり。
俺たちは宿の休憩所に集まった。
床は畳敷きになっており、開け放たれた窓からは夜風が吹き込んでくる。
火照った身体に、涼しい風が心地よい。
「さあ、湯上がりにはこれだよ」
アレクが運んできたのは、冷えた瓶に入った飲み物だった。
『特産・ジルブランフルーツ牛乳』と書かれている。
「フルーツ牛乳?なんだそれは」
「この星で採れた果物の果汁と、新鮮なミルクをブレンドしたものさ。騙されたと思って飲んでみてよ。腰に手を当てて飲むのが作法だそうだ」
「ほう、作法とあらば従おう」
俺とルルは顔を見合わせ、言われた通りに腰に手を当てた。
そして、瓶の蓋を開け、一気に煽る。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ、プハーッ!
「…………美味いッ!!」
「おいしーーーい!!」
声が重なった。
濃厚なミルクのコクと、フルーツの爽やかな甘酸っぱさが絶妙なバランスで混ざり合い、乾いた喉を潤していく。
湯上がりの身体に、冷たい甘さが染み渡る。これは反則的な美味さだ。
「なんだこれは……帝国の高級ホテルで飲むカクテルなんかより、百倍美味いぞ!」
「冷たくて、あまくて、最高!」
ルルは口の周りに白い髭をつけて大喜びだ。
シャルロットも上品に一口飲み、目を輝かせている。
「本当に。身体の中から綺麗になれるようなお味です!」
ギリアムも「これは寿命が延びます」とお代わりを所望している。
俺は空になった瓶を置き、満足げに息をついた。
「いやあ、まいった。海といい、温泉といい、フルーツ牛乳といい……この星は宝の山だな」
「気に入ってもらえてよかったよ」
アレクが嬉しそうに微笑む。
「派手な娯楽施設はないけど、ここには『生きる喜び』がある。それが僕の自慢なんだ」
「ああ、間違いない。俺の負けだ、アレク。どれだけ金を稼いでも、この豊かさは金じゃ買えない」
俺は窓の外、星が瞬き始めた夜空を見上げた。
この平和で美しい場所を守るためなら、俺は何だってできる気がした。
1000万隻の艦隊だろうが、ドロイド軍団だろうが、すべてはこの笑顔と、この美味い牛乳を守るためにあるのだと。
「さて、身体もサッパリしたし、屋敷に戻ろうか。男爵が夕食を待っている」
「ああ。帰ったら、本格的に観光計画を練るぞ。シズ、覚悟しておけよ」
「……了解しました、マスター。ですが、その前にもう一本、牛乳を注文してもよろしいでしょうか?」
「ハハハ、シズも気に入ったか!いいぞ、好きなだけ飲め!今日は無礼講だ!」
湯上がりの爽快感と、家族のような団欒。
俺たちフライハイト家一行は、心も体も満たされ、大樹の屋敷へと帰路につくのだった。
ジルブライト領での休日は、まだまだ終わらない。




