第58話 最果ての海
翌朝。
ジルブライト家の誇る「生ける大樹の屋敷」で一夜を明かした俺たちは、小鳥のさえずりと、葉の間から差し込む柔らかな木漏れ日によって目を覚ました。
完全空調と人工照明で管理された宇宙コロニーや戦艦の目覚めとは、根本的に質が違う。体の芯からリフレッシュされたような感覚だ。
朝食には、またしても新鮮なフルーツと、焼きたてのパン、そしてとれたてのミルクが並んだ。
ルルは口の周りに白い髭を作りながらミルクを飲み干し、シャルロットも「こんなに美味しい朝食は初めてです」と頬を紅潮させていた。
「さて、みんなよく眠れたかな?」
食後のコーヒーを楽しんでいると、アレクが準備万端といった様子で現れた。
ラフなシャツに短パンという、貴族とは思えない軽装だ。
「今日は約束通り、海へ案内するよ。ここからエアカーで30分ほどの場所にある、ジルブライト家専用のプライベートビーチだ」
「海!海いくの!」
ルルが椅子から飛び降りてはしゃぐ。
俺たちも旅支度を整え、昨日のエアカーへと乗り込んだ。
***
エアカーは再び深い森の上空を滑走する。
昨日とは違い、今日は快晴だ。
眼下には緑の絨毯が広がり、遠くには青い水平線が微かに見え始めていた。
道中、俺は窓の外を流れる絶景を眺めながら、ふと気になっていたことをアレクに尋ねた。
「なあアレク。この惑星、観光資源として最高のロケーションだと思うんだが、そういった方向で開発はしないのか?帝国の惑星はどこも汚染されきっている。こんな綺麗な自然が残っているなら、金を払ってでも来たいという奴は多いはずだぞ」
俺の問いに、アレクはハンドルを握りながら苦笑いを浮かべた。
「うん、一時期はそういうことも考えたんだけどね。父さんと一緒にリゾート開発の計画書を作ったりもしたんだ」
「なら、なぜやらない?資金の問題か?それなら俺が出資してもいいが」
「いや、問題は『立地』と『客層』なんだよ」
アレクは溜息交じりに説明した。
「見ての通り、うちの領地は銀河の端っこ、辺境もいいところだ。帝国首都星からのアクセスが悪すぎる。金と暇を持て余している大貴族や富裕層は、わざわざこんな田舎まで来ないで、帝国首都星の近くにある『超特権階級専用の保養惑星』に行っちゃうんだよ。あそこならカジノもあるし、高級娼館もあるしね」
「なるほどな。連中は自然そのものより、贅沢なサービスを求めているわけか」
「そう。それに、もし仮に呼べたとしても、環境破壊を気にも留めない傲慢な貴族たちに来られても困る。ゴミを捨てたり、珍しい動物をハンティングしたり……森を守りたい僕たちとしては、あまり歓迎できない客層なんだ」
「確かに、あいつらが来たらこの星は一瞬でゴミ溜めになるな」
俺は納得した。
金持ちを呼べば金にはなるが、この星の価値そのものが損なわれるリスクがある。
「なら、ターゲットを変えればいい。平民でも行ける保養惑星にするのはどうだ?」
「平民でも行ける?……無理だよクロウ」
アレクは首を横に振った。
「平民の給料じゃ、宇宙旅行なんて夢のまた夢だ。定期船のチケット代だけで年収が吹き飛ぶ。高すぎて誰も来ないよ。だから、結局は細々とやっていくしかないのさ」
それは帝国の常識的な経済観念だ。
だが、俺はニヤリと笑った。
「常識で考えるなよ、アレク。俺は帝国一の大富豪、フライハイト勇爵だぞ?」
「え?」
「チケットが高い?なら、俺が客船を用意して、無償で乗せてやればいい」
「む、無償だって!?」
アレクが驚いて振り返りそうになり、エアカーが少し揺れた。
「実はな、フライハイト領の領民たちのガス抜きもしたくてな。俺の領地は今、急激な経済成長でみんな働き詰めだ。給料はいいが、娯楽が少ないのが悩みでな」
俺は指を折って計画を語り始めた。
「俺が保有する大型客船をチャーター便として出す。福利厚生の一環として、優秀な成績を収めた労働者やその家族を、このジルブランへの旅行に招待するんだ。旅費は全額俺が出す」
「そ、そんなことをして、クロウに何の得があるんだい?」
「あるさ。リフレッシュした領民は、帰国後にさらに効率よく働いてくれる。生産性が上がれば、旅費なんて安い投資だ。それに、彼らは貴族と違って金はないが、マナーはいい。自然を楽しみ、地元の美味いものを食い、土産を買う。ジルブライト領には金が落ちるし、俺の領民はハッピーだ。どうだ?」
アレクはしばらく呆然としていたが、やがてその瞳に光が宿った。
「……すごいな。やっぱり君は天才だよ」
「そうか?」
「ああ。アレクもこの惑星に、我が物顔で自然を荒らす貴族どもが来るよりも、純粋に自然を楽しんでくれる平民の方がいいだろ?」
「もちろんさ!名案だね。もしそうしてくれるならありがたいよ。うちの領民たちも、観光客相手の商売ができれば生活が潤う。……あとで父さんにも話そう。きっと大賛成してくれるはずだ」
「よし、商談成立だな。帰ったらすぐにシズに計画を詰めさせる」
「マスター、また仕事が増えるのですね。……ですが、素晴らしい提案だと思います」
後部座席のシズも、微かに口元を緩めていた。
彼女も分かっているのだ。
数字上の利益以上に、「人の心」を満たすことが、長期的な繁栄には不可欠だと。
そんな未来への希望に満ちた話をしていると、視界が一気に開けた。
「着いたよ! ここがジルブランの海だ!」
アレクの声と共に、エアカーが森を抜け、白い砂浜の上空へと躍り出た。
俺たちは息を呑んだ。
「うわあああああっ!」
目の前に広がっていたのは、視界を埋め尽くす圧倒的な「青」だった。
宇宙から見た宝石のような輝きが、今、目の前でさざ波を立てている。
太陽の光を反射してキラキラと輝く水面。寄せては返す白い波。
そして、どこまでも続く水平線。
エアカーが砂浜に着陸するや否や、ドアが開く。
「うみー!!」
一番に飛び出したのは、やはりルルだった。
彼女は小さな足で砂浜を駆け抜け、波打ち際ギリギリのところで立ち止まる。
「パパ!ママ!はやく!大きいよ!」
俺たちも車を降り、砂浜へと足を踏み入れた。
足元から伝わる砂の感触。
柔らかく、温かい。
「ここが、海か……」
俺は深呼吸をした。
肺に入ってきたのは、少し湿り気を帯びた、独特の匂いを含んだ空気だ。
「宇宙から見たのと全然違うな。これが『潮の匂い』か……」
「はい。少ししょっぱいような、でも懐かしい香りです」
シャルロットが目を細め、風に髪をなびかせている。
ギリアムも感極まった様子だ。
「おお、なんと雄大な……。ホログラム映像とは比べ物になりませんな。波の音が、まるで生きている鼓動のようです」
「どうだい、我が領自慢の海は」
アレクが誇らしげに腕を広げた。
「最高だ。こんな場所が、まだ帝国に残っていたなんてな」
俺は心から感嘆した。
どれだけ科学技術が発展しても、どれだけ巨大な戦艦を作っても、この自然の圧倒的な存在感には勝てない気がする。
「見るだけじゃもったいないよ。実はね、この海、潜れるんだ」
「潜る?」
「ああ。あそこの桟橋を見てくれ」
アレクが指差した先には、木製の桟橋があり、そこに一隻の小型船が係留されていた。
全体が透明な強化ガラスのような素材で覆われた、流線型の乗り物だ。
「観光用に開発した小型潜水艇だ。すぐ近くに珊瑚礁があってね、誰でも安全に海中散歩が楽しめる。乗って行きなよ、みんな」
「乗る!ルル、のる!」
「私も、ぜひ見てみたいです!」
全員が興奮している。
俺たちはアレクの案内で潜水艇に乗り込んだ。
中は大人4人とルルが座っても十分な広さがあり、360度すべてが透明な窓になっている。
「出発するよ。深度10、潜行開始」
アレクが操縦桿を握ると、潜水艇は静かに水面下へと沈んでいった。
ゴボゴボという水音と共に、視界が青一色に染まる。
そして、泡が晴れたその先に広がっていた光景に、俺たちは言葉を失った。
「…………っ!」
そこは、まさに別世界だった。
太陽の光がカーテンのように揺らめきながら差し込み、海底の白砂を照らし出している。
その上には、赤、青、黄色、紫といった、ありとあらゆる色彩の「花」のようなものが咲き乱れていた。
「あれが珊瑚礁だよ」
アレクの説明を聞くのももどかしく、俺たちは窓に張り付いた。
珊瑚の森の間を、宝石のような小魚の群れが泳ぎ回っている。
銀色の鱗を光らせる魚、長いひれを優雅になびかせる魚、愛嬌のある顔をしたフグのような魚。
「きれい……お魚さん、いっぱい!」
ルルがガラス越しに指を追う。
魚たちも人慣れしているのか、逃げるどころか興味深そうに潜水艇に寄ってくる。
「信じられん……」
俺は呟いた。
帝国の宇宙コロニーにも水族館はあるが、あれは狭い水槽に閉じ込められた、どこか悲しげな魚たちだ。
だが、ここは違う。
命が溢れている。
無限の広がりの中で、すべての生き物が自由に、力強く生きている。
「旦那様、あちらをご覧ください。大きな亀がいますぞ!」
ギリアムが指差した先を、畳ほどもある巨大なウミガメが、まるで空を飛ぶように優雅に横切っていった。
「すごいですね……。この光景は、帝国のどの美術館にある絵画よりも美しいです」
シャルロットがうっとりと呟く。
シズでさえ、データ収集の手を止めて、静かにその光景を見つめていた。
「帝国の宇宙コロニーでは、一生見られない光景だな」
俺は改めて思った。
無機質な壁に囲まれ、配給食を食べ、ただ生産のためだけに生きる労働者たち。
彼らはこの「本物の命」を知らずに死んでいく。
それはあまりにも不幸だ。
(この光景を、フライハイト領の領民たちに体験させてやりたい)
強く、そう思った。
ただ金を配るだけが領主の務めではない。
生きる喜び、世界がいかに美しいかを知る機会を与えること。
それこそが、俺が目指すべき「最強の生産者」としての、次のステップなのかもしれない。
「アレク。お前の言う通りだ」
俺は隣で操縦する親友に言った。
「これは金持ちだけのものにしちゃいけない。俺の領民たちがこれを見たら、きっと泣いて喜ぶぞ」
「ああ、きっとそうなるよ。僕も楽しみだ。君の領地の人たちが、ここで笑ってくれる日が来るのをね」
アレクが笑い、潜水艇はさらに奥へと進んでいく。
色とりどりの海藻が揺れ、光の粒子が舞う海の中。
俺たちは時間を忘れて、この奇跡のような青い世界に没頭していた。
それは、来るべき激動の時代を前に、俺たちが手に入れた、かけがえのない安らぎのひとときだった。




