第41話 0960番の復讐
戦艦フェンリルの最深部。
そこは、通常の乗組員さえ立ち入りを禁じられた「特別拘禁区画」だ。
かつてシャルロットが収容されていたような帝国式の拷問部屋ではない。
だが、そこにあるのは、より冷徹で、逃げ場のない「無」の恐怖だった。
真っ白な壁、真っ白な床。
家具一つない独房の中央に、一人の男が拘束されていた。
グライム・フォン・ローゼンバーグ公爵。
かつて帝国の貴族社会の頂点に君臨し、300万の艦隊を率いた男の姿は、今や見る影もなかった。
豪奢な軍服は剥ぎ取られ、囚人用のグレーのジャンプスーツ一枚。
手足は電磁手錠で拘束され、口には自害防止のための猿轡が噛ませられている。
「ん……んんーッ!!」
グライムは床に膝をつき、必死にもがいていた。
屈辱だ。
この私が、あのような下賎な兵士たちに殴られ、家畜のように引きずり回されるとは。
だが、それ以上の恐怖が彼を支配していた。
これから何が起きるのか。
「音速の殺戮者」は、自分をどう料理するつもりなのか。
プシューッ……。
重厚な気密扉が開き、足音が響いた。
グライムがビクリと身をすくませて顔を上げる。
そこに立っていたのは、黒いロングコートを羽織り、冷ややかな瞳で見下ろす青年――クロウ・フォン・フライハイト男爵だった。
「やあ、グライム。久しぶりだな」
クロウは、まるで旧友に会ったかのような気軽さで声をかけた。
グライムは目を見開いた。
久しぶり?
何を言っている?
私は貴様と会ったことなどない。
貴様は、最近のし上がってきた成金男爵だろう?
「んぐ、ん……!」
グライムは何かを叫ぼうとしたが、猿轡のせいで唸り声しか出ない。
「人違いだ」「無礼者め」とでも言いたいのだろう。
クロウはニヤリと笑い、ゆっくりとグライムの周りを歩き始めた。
「不思議そうな顔をしているな。『お前のような小僧など知らん』と言いたげだ」
クロウはグライムの背後に回り込み、耳元で囁いた。
「なら、少し記憶を呼び覚ましてやろうか。……帝国首都星。廃棄物射出ターミナル。5等民」
グライムの肩がピクリと跳ねた。
だが、まだピンと来ていないようだ。
彼にとって、5等民など道端の石ころと同じだ。
廃棄物射出ターミナルなど、汚物が流れる場所という認識しかない。
「まだ分からないか?じゃあ、これならどうだ?……『電磁投射砲』。『処刑ポッド』」
グライムの顔色が、みるみるうちに蒼白になっていく。
その単語は、彼の日課だった「ゴミ掃除」の道具だ。
気に入らない奴隷、逆らった5等民をポッドに詰め込み、宇宙の彼方へ射出する。
それは彼にとっての娯楽であり、特権の行使だった。
「……そして、極めつけだ」
クロウはグライムの正面に回り込み、その怯えた瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「『0960番』」
ドクン。
グライムの心臓が、早鐘を打った。
その番号。
数あるゴミの中でも、決して忘れることのない番号。
――あれは、ある5等民の少年が整備した私の愛車が故障した。
いや、本当は彼のせいではないのかもしれない。
ただ、その少年の目が気に入らなかった。
奴隷のくせに、絶望していなかったからだ。
だからグライムは、特別に「手」を加えた。
彼を処刑ポッドに乗せる前、着陸装置を外しておいたのだ。
そして、行き先を「死の星」に設定した。
着陸すらできず、大気圏突入で燃え尽きるか、地面に激突して肉片になるか。
「即死は慈悲だ。貴様には勿体ない」
そう言って、射出ボタンを押したはずだ。
グライムの目が、眼前の男と、記憶の中の少年を重ね合わせる。
成長している。
服装も違う。
だが、その瞳――燃えるような復讐の炎を宿した黒い瞳だけは、あの時と同じだった。
「ん……んんんッ!?」
グライムは腰を抜かし、尻餅をついて後ずさった。
ありえない。
幽霊だ。
死人が蘇ったのだ。
着陸装置のないポッドで、あの酸の嵐が吹き荒れるエンドに落ちて、生きているはずがない!
「思い出したようだな」
クロウは楽しげに笑った。
だが、その目は全く笑っていない。
絶対零度のような殺気が、部屋の空気を凍らせている。
「お前は察しが悪いな。そうだ。俺は元5等民の0960番だ。お前が『放射能まみれになってリサイクルされるといい』と吐き捨てて、地獄の底へ突き落としたゴミだ」
クロウは一歩踏み出した。
「俺が生きているのが、ありえないとでも思ってるんだろ?着陸装置を外したのにな、と。だが残念、俺は生きていた。地獄の底で這いずり回り、鉄屑を食らい、お前への恨みだけを燃料にして生き延びた」
グライムはガタガタと震え、壁際まで追い詰められた。
恐怖。
純粋な恐怖。
かつて自分が虫ケラのように踏み潰した存在が、今、自分を殺すための力を持って目の前に立っている。
これほどの因果応報、これほどの悪夢があるだろうか。
「そして……今度はお前の番だ」
クロウはグライムの胸倉を掴み、引き寄せた。
「お前は俺たちをどうした?物扱いし、弄び、壊れたら捨てた。命乞いをする声を聞きながら、ワインを飲んで笑っていたな?」
グライムは必死に首を横に振った。
「許してくれ」
「あれは悪戯だったんだ」
「金ならやる」
猿轡の下で、情けない命乞いの言葉が泡となって溢れる。
涙と鼻水が、かつての公爵の顔を汚していく。
「泣くなよ。みっともない」
クロウは冷酷に言い放った。
「確かあの時、お前にこう言われたな。『即死は慈悲だ。貴様には勿体ない』だったか」
グライムの瞳孔が開く。
自分の言葉が、そのまま刃となって喉元に突きつけられている。
「名案だと思ったよ。だから、俺もそれに倣うことにする。お前をどう調理してやろうか……。エンドの酸の海に沈めるか?それとも、シャルロットみたいに、手足を切り落として見世物にするか?」
クロウの指に、万能物質の光が灯る。
それは鋭利なナイフの形状へと変化していく。
「ひぃぃぃぃぃぃッ!!!」
グライムは失禁した。
床に黄色い染みが広がる。
帝国の名門、ローゼンバーグ公爵の威厳は、完全に崩壊した。
その時。
部屋のインターホンが鳴った。
『マスター。失礼します。緊急の連絡です』
シズの冷静な声だ。
クロウはナイフを消し、舌打ちをした。
「……なんだ、シズ。今、いいところなんだが」
『分かっていますが、無視できない相手からです。帝国首都星、元老院議長からの直接回線です』
「元老院だと?」
その言葉を聞いた瞬間、絶望の淵にいたグライムの目に、微かな光が戻った。
元老院!
帝国の最高意思決定機関!
そうだ、彼らが私を見捨てるはずがない。
私は公爵だぞ。
彼らは助けに来たのだ。
この野蛮な男爵に圧力をかけ、私を解放させるために!
グライムはクロウを見上げ、猿轡越しに「見たか!」と言わんばかりの視線を送った。
クロウは不快そうに鼻を鳴らし、グライムを床に放り出した。
「……チッ。少しここで待ってろ、元・ご主人様。お前の飼い主たちが何を言ってくるか、聞いてきてやる」
クロウは部屋を出て行った。
残されたグライムは、安堵のあまり床に突っ伏して泣いた。
助かった。
やはり私は選ばれた人間なのだ。
帝国首都星に帰ったら、必ずこの屈辱を晴らしてやる……!
戦艦フェンリル、ブリッジ。
クロウは不機嫌な顔で、メインスクリーンに映る老人のホログラムと対峙していた。
帝国元老院議長、ヴァルター・フォン・アインザッツ公爵。
帝国の政治を牛耳る、古狸だ。
『……というわけで、フライハイト男爵。貴公の勝利は見事であった。300万の艦隊を、わずかな手勢と奇策で打ち破った手腕。陛下も大層感心しておられる』
「お褒めの言葉、痛み入りますね。で?本題はなんです?」
クロウは敬語を使いつつも、態度は不遜だった。
『単刀直入に言おう。捕虜となっているグライム・フォン・ローゼンバーグの身柄についてだ』
「彼なら、私の船で手厚く『もてなして』いますが」
『うむ。その身柄を、即刻、帝国へ引き渡してもらいたい。ただし、死体ではなく、生きた状態でだ』
クロウの眉が跳ね上がった。
やはりか。
助けるつもりか。
「断ると言ったら?」
『貴公は賢い男だ。今、帝国全軍を敵に回す愚は犯すまい。それに……勘違いするな。我々は彼を助けたいのではない。彼を、元老院の法廷で裁きたいのだ』
「裁く?」
『左様。グライムは、300万隻もの艦隊を私的に動員し、それを無策で全滅させた。帝国の軍事力を著しく低下させ、貴族の威信を失墜させた大罪人だ。彼には、相応の処罰が必要だ。……それも、帝国の法による、公式な処罰がな』
通信が切れた。
クロウはコンソールを拳で叩いた。
「ふざけやがって!処罰だ?よく言うぜ!要するに、自分たちのメンツを守りたいだけだろうが!」
傍らに控えていたシズが、冷静に分析を加える。
「その通りです、マスター。グライム公爵が、マスターという『一地方領主』に私刑で殺されれば、帝国の秩序が乱れます。『貴族は誰に殺されてもいい』という前例になってしまうからです」
「だから、帝国の手で処刑したいと?」
「はい。『無能な公爵を、元老院が正義の名の下に断罪した』という形にすれば、帝国の権威は保たれます。同時に、300万隻の損失という失態の責任を、全てグライム個人になすりつけることもできます。トカゲの尻尾切りです」
クロウは舌打ちをした。
理屈は分かる。
だが、感情が追いつかない。
あいつは俺の獲物だ。
俺の手で、あの時の落とし前をつけさせるはずだった。
「……俺に、郵便配達人をやれってのか。しかも、中身は俺が一番殺したい男だぞ」
「ですが、マスター。ここで元老院の要求を拒否すれば、今度こそ帝国正規軍が動きます。今の我々は、まだ帝国と戦う準備ができていません。ここは……恩を売っておくのが得策かと」
シズの言葉は正しい。
今のフライハイト軍は急激に膨れ上がったが、中身はまだ寄せ集めだ。
組織化し、訓練し、真の軍隊にするには時間が必要だ。
クロウは深く息を吐き、天井を見上げた。
「……分かったよ。連行してやる」
だが、その直後。
クロウの口元に、凶悪な笑みが戻った。
「ただし、タダで運んでやる義理はないな」
「マスター?」
「シズ。全艦隊に出撃準備をさせろ。鹵獲して再編した、60万隻すべてだ」
シズの目が微かに点滅した。
「……60万隻すべて、ですか?たった一人の囚人を護送するために?」
「ああ、そうだ。グライム公爵といえば、腐っても大貴族様だからな。護衛は多ければ多いほどいいだろう?」
それは、ただの護送ではない。
示威行為だ。
300万を壊滅させ、60万を飲み込んだ「魔王」が、その全戦力を引き連れて帝都に乗り込む。
「俺に手を出すな。手を出せば、帝国首都星ごと火の海にするぞ」という、無言の脅迫だ。
「それに……せめてもの腹いせだ。元老院の古狸どもを、小便ちびるくらいビビらせてやる。そしてグライムには、絶望のパレードを最特等席で味あわせてやるさ」
クロウは立ち上がった。
「行くぞ。銀河史上最大、そして最悪の『護送船団』の出発だ」
数時間後。
惑星ローゼハイムの軌道上から、60万隻の大艦隊が抜錨した。
その中央には、死神のように巨大な戦艦フェンリル。
その最深部の牢獄で、グライムはまだ知らなかった。
自分が助かるために運ばれるのではなく、より巨大な断頭台へと運ばれる生贄であることを。
そして、その道中が、クロウによる陰湿極まりない精神的拷問の旅になることを。




