第40話 狂乱公グライム
惑星ローゼハイム。
その地表を覆う広大な薔薇の庭園が、いま、かつてないほどの軍靴の響きに震えていた。
クロウ・フォン・フライハイト男爵による、「24時間の猶予」という最後通告。
それは、この星に駐留する100万人の地上軍兵士たちの心を、恐怖という楔でこじ開けるのに十分すぎた。
空を見上げれば、60万隻の大艦隊と、悪魔の口のようなフェンリルの主砲が、自分たちを焼き払おうと狙いを定めているのだ。
対して、自分たちが守るべき主君は、安全な地下シェルターに引きこもり、自分たちを見捨てた。
忠誠心など、生存本能の前では砂上の楼閣に過ぎなかった。
ズズズズズ……。
地響きと共に、無数の戦車、機動歩兵、そして対空車両が、砲塔を空ではなく、大地にそびえる『ローゼンパレス』へと向けた。
100万の刃が、主人へと返された瞬間だった。
宮殿の地下、核シェルター兼作戦司令室。
分厚い隔壁に守られたその空間は、皮肉にも、地上の喧騒を遮断し、不気味なほどの静寂に包まれていた。
だが、その静寂こそが、グライム・フォン・ローゼンバーグ公爵の精神を蝕んでいた。
「……閣下。地上軍が、第1ゲートを突破しました。宮殿守備隊も降伏。暴徒と化した兵士たちが、こちらへ向かっています」
報告をしたのは、長年彼に仕えてきた筆頭執事だった。
他の取り巻きの貴族たちは、とっくに別の部屋へ逃げ隠れるか、あるいは絶望して泣き崩れている。
この司令室に残っているのは、グライムと、数人の側近だけだった。
「……来たか。裏切り者どもめ……恩知らずめ……!」
グライムは玉座のような指令席で、ガタガタと震えていた。
手には、装飾過多な儀礼用のレーザーガンが握りしめられている。
汗で滑るグリップの感触だけが、彼を現実に繋ぎ止めていた。
彼は縋るような目で、傍らに立つ執事を見上げた。
「おい……。お前は……お前だけは、裏切らないよな?私はお前を優遇してきた。私の父の代から仕えてきたお前なら、最後まで忠義を尽くすよな?」
執事は、静かな瞳で主人を見下ろした。
そこには、軽蔑も同情もなく、ただ「終わった者」を見るような、冷徹な諦観だけがあった。
「……はい、閣下。私はローゼンバーグ家に生涯を捧げた身。最後まで、貴方様と共にあります」
「そ、そうか!そうだよな!やはりお前だけは信じられる!」
グライムは安堵のあまり、泣き出しそうな顔で笑った。
だが、執事は表情を変えずに続けた。
「……ところで、閣下。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「な、なんだ?」
「閣下は……ご自身がこれからどうなるとお思いで?」
グライムは言葉に詰まった。
どうなる?
兵士たちに捕まり、クロウに引き渡される。
その先は?
「……わ、分からん。だが、私は公爵だぞ。人質としての価値がある。フライハイトとて、私を殺しはしないはずだ。身代金を払えば……あるいは、領地を割譲すれば……」
「いいえ」
執事は、主人の甘い幻想を断ち切った。
「フライハイト男爵に引き渡されれば、間違いなく『公開処刑』になるでしょう」
「こ、公開処刑……だと?」
「はい。我々も元々、あの男爵と『だるま姫』を捕らえて、全銀河の前で見せしめに処刑するつもりでしたから。……因果応報。彼は同じことを、いや、それ以上の屈辱を与えてくるはずです」
グライムの脳裏に、恐ろしい映像が浮かんだ。
手足を縛られ、広場に引き出される自分。
周囲には、かつて見下していた5等民たちが群がり、石を投げ、罵声を浴びせる。
そして、クロウの合図と共に、首を刎ねられるか、あるいはレーザーで焼かれるか。
全銀河の笑い者として、惨めに死ぬ。
「ひ、ひぃぃぃッ……!」
グライムは悲鳴を上げ、椅子から転がり落ちた。
嫌だ。
そんな死に方は嫌だ。
私は選ばれた人間なのだ。
高貴な血統なのだ。
執事は、恭しく一本のワインと、グラスを差し出した。
トクトク、と優雅な手つきで深紅の液体が注がれる。
だが、その中には毒薬の『ペントバルビタール』が致死量、溶け込ませてあった。
強力な催眠作用と呼吸抑制作用をもたらす、安楽死で使われる薬だ。
「閣下。ローゼンバーグ家の名誉を守る道は、もはや一つしかありません」
執事の目が、氷のように冷たく光った。
「自決しかありません。敵の手に落ちて辱めを受ける前に、ご自身の手で誇り高く散ってください。……さあ、飲み干してください!」
その言葉は、グライムにとって雷鳴よりも衝撃的だった。
死ね?
この私が?
誇りのために死ねと?
「……ふざけるな」
グライムの喉から、獣のような唸り声が漏れた。
「帝国貴族の頂点……公爵であるこの私に、お前は死ねと申すのか!?」
「閣下、それが貴族の矜持です。さあ、早く!敵はもう、そこまで来ています!」
執事が一歩踏み出す。
背後にいた他の側近たちも、無言でグライムを見つめている。
その視線。
無機質で、圧迫感のある視線。
グライムには、それが全員で「死ね」「早く死ね」「お前が死ねば全て終わるんだ」と合唱しているように聞こえた。
「あ……あぁ……」
恐怖が、理性を焼き切った。
こいつらは味方じゃない。
こいつらも敵だ。
私を殺そうとしている死神だ。
「……寄るな」
グライムは震える手でレーザーガンを持ち上げた。
「寄るなァッ!!」
ジュッ!!
赤い閃光が走り、執事の胸を貫いた。
老人は驚愕に目を見開いたまま、崩れ落ちた。
焼けた肉の匂いが、密閉された室内に充満する。
「あ……ああ……」
側近たちが悲鳴を上げた。
「か、閣下!?何を!?」
「うるさい!うるさいッ!お前たちもグルか!私に死ねと言っているんだろう!?」
グライムは立ち上がり、狂ったようにトリガーを引き続けた。
ジュッ、ジュッ、ジュッ!
「私は死なないぞ!絶対にだ!私は選ばれた人間なんだ!こんなところで終わってたまるかァァァッ!!」
側近たちが次々と倒れる。
逃げようとする背中に、無慈悲な光弾が突き刺さる。
かつて栄華を極めた公爵家の司令室は、一瞬にして血の海と化した。
グライムは荒い息を吐きながら、死体の山を踏み越えた。
逃げなければ。
ここも危険だ。
どこか、もっと安全な場所へ。
彼は扉をこじ開け、廊下へと飛び出した。
宮殿の廊下を、一人の男が走っていた。
豪華な軍服は血と汗で汚れ、髪は振り乱され、その目は焦点が定まっていない。
グライム公爵だ。
彼は幻影と戦っていた。
すれ違う使用人、逃げ遅れた侍女、あるいはただの壁の彫刻でさえ、彼を嘲笑う敵に見えた。
「見るな!私を見るな!」
ジュッ!
通りかかったメイドが、悲鳴を上げたて倒れる。
「どけ!そこをどけ!公爵様のお通りだぞ!」
ジュッ!ジュッ!
避難しようとしていた貴族の「寄子」たちをも、彼は見境なく撃ち殺した。
彼らは「助けてください」と縋ろうとしただけかもしれない。
だが、今のグライムにとって、近づく者はすべて暗殺者だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
どこへ行けばいい?
どこに逃げれば助かる?
宇宙港?いや、空は封鎖されている。
シェルター?もう安全じゃない。
その時。
ビーッ!ビーッ!ビーッ!
宮殿内のセキュリティシステムが、けたたましいアラートを鳴らし始めた。
赤い回転灯が廊下を染める。
『警告。警告。第3防衛ライン突破。武装勢力、宮殿内に侵入。総員、直ちに避難せよ』
無機質なアナウンスが、終わりの時を告げる。
「来た……来たぞ……!殺される……殺されるッ!」
グライムは絶叫し、さらに奥へと走った。
目指したのは、宮殿の最上階にある『薔薇の間』。
そこは彼が最も愛し、最も安心できるはずの私室だった。
だが、彼がその扉にたどり着いた時、廊下の反対側からドカドカという足音が響いてきた。
「いたぞ!グライムだ!」
「逃がすな!捕まえろ!」
現れたのは、泥だらけの戦闘服を着た地上軍の兵士たちだ。
彼らの目は、獲物を追い詰めた猟犬のように血走っている。
「ひ、ひぃッ!?」
グライムは部屋に飛び込み、扉をロックした。
だが、そんなものは時間稼ぎにもならない。
ドォン!という音と共に、扉が爆破された。
煙の中から、兵士たちが雪崩れ込んでくる。
「く、来るな!近寄るなァ!」
グライムは部屋の隅、薔薇の刺繍が施されたソファーの裏に隠れ、レーザーガンを乱射した。
ジュッ、ジュッ!
数発が兵士のアーマーを掠めるが、彼らは止まらない。
「往生際が悪いぞ、公爵!」
「俺たちの命をおもちゃにしやがって!」
カチッ。
乾いた音が響いた。
エネルギー切れだ。
グライムは何度もトリガーを引くが、銃は沈黙したままだ。
「あ……あ……」
彼は銃を投げ捨て、後ずさりした。
背中が冷たい壁に当たる。
袋小路。
窓の外には、燃え上がる宮殿の庭園が見える。
「た、助けてくれ……!金ならやる!地位もやる!だから……!」
命乞いをする彼の前に、かつて彼が「虫ケラ」と呼んで見下していた兵士たちが立ちはだかる。
彼らは銃床でグライムを殴りつけた。
「グェッ!?」
グライムは無様に床に転がった。
鼻から血が吹き出し、視界が歪む。
数人の兵士が彼の上に乗りかかり、腕をねじ上げた。
「確保ォッ!グライム公爵、捕縛したぞ!」
兵士の歓声が上がる。
グライムは泥だらけのブーツに顔を踏みつけられながら、うめき声を上げることしかできなかった。
帝国の名門、ローゼンバーグ家の栄光は、こうして泥と血にまみれて終わった。
「……こちら、地上軍。フライハイト男爵、聞こえますか?」
宮殿を制圧した反乱軍のリーダーが、衛星軌道上のフェンリルへ通信を入れた。
メインスクリーンには、拘束され、猿轡を噛まされたグライムが映し出されている。
『ああ、よく聞こえている。見事な手際だ』
モニターの向こうで、クロウは満足げに頷いた。
「約束のグライム公爵を捕縛しました。……これで、我々を助けてくれるんですよね?」
指揮官の声には、微かな不安が滲んでいた。
相手は「音速の殺戮者」だ。
用済みになった自分たちもろとも、この星を焼き払うかもしれないという恐怖が拭えないのだ。
だが、クロウは穏やかに微笑んだ。
『もちろんだ。俺は慈悲深い。約束は守るとも』
その言葉に、指揮官は安堵の息を漏らした。
『直ちに輸送艇を降ろす。グライムを引き渡せ。……そうすれば、お前たちへの攻撃命令は永久に解除される。さらに、フェンリルの物資コンテナも投下してやる。食料、医療品、復興資材だ。好きに使え』
「あ、ありがとうございます……!」
『礼には及ばん。賢明な選択をしたな。……これからは、自分の頭で考えて生きろよ』
通信が切れると同時に、フェンリルの格納庫から一機の小型艇が発進した。
それは猛禽類が獲物を攫うように、燃え上がるローゼンパレスへと降下していく。
拘束されたグライムは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その降下艇を見上げていた。
助かる、という希望はない。
あれは迎えではない。
地獄への護送車だ。
彼を待っているのは、死よりも深い絶望であることを、彼自身の本能が告げていた。




