第31話 100年の涙
帝国首都星の第1区画、超大型艦専用ドック。
その巨大な空間に鎮座する銀色の巨艦、戦艦『フェンリル』のエアロックが、重厚な音を立てて閉ざされた。
プシューッ……という気密音が響き、外部との接続が完全に断たれる。
それは、帝国の支配領域からの物理的な切断であり、ここから先が、俺、クロウ・フォン・フライハイト男爵が支配する「絶対不可侵領域」であることを意味していた。
俺は、腕の中に抱えた「黒い荷物」の重みを感じながら、艦内の長い廊下を歩いていた。
軽い。
あまりにも軽すぎる。
黒い光沢を放つ拘束衣に包まれたその体は、まるで中身が入っていないかのように頼りない。
だが、その質量とは裏腹に、彼女が背負わされてきた100年という時間の重みが、俺の腕にずしりとのしかかっていた。
「マスター。医療区画の準備、完了しています。集中治療室へ」
先導するシズが、歩きながら報告する。
彼女の声はいつも通り冷静だが、その足取りはわずかに急いでいるように見えた。
彼女のセンサーもまた、腕の中の女性の生命力が風前の灯火であることを感知しているのだ。
「ああ。急ごう。……震えが止まらないんだ」
俺は腕の中を見下ろした。
黒いラバーの塊は、小刻みに痙攣し続けている。
エアカーでの移動中、シズが衝撃吸収フィールドを展開していたため、物理的な振動は皆無だったはずだ。
それでも彼女が震えているのは、寒さのせいではない。
恐怖だ。
彼女――シャルロット・アト・フレイアにとって、ここはまだ「地獄の延長」でしかない。
監獄棟の独房から引きずり出され、視覚も聴覚も奪われ、どこかへ連れ去られる。
彼女の想像の中では、次はもっと酷い拷問部屋か、あるいは公開処刑場が待っていると思っているに違いない。
「大丈夫だ、シャルロット。もう誰も、お前を傷つけさせない」
俺はスーツ越しに声をかけるが、防音イヤーマフを装着された彼女には届かない。
その事実が、俺の焦燥感を煽った。
医療区画に到着すると、自動ドアが開き、滅菌された白い空間が現れた。
帝国の監獄棟にあったような、陰湿で血生臭い「調教室」とは違う。
ここはフェンリルの最先端医療技術が集約された、再生と治癒のための場所だ。
「こちらへ。サージカル・ベッドへ寝かせてください」
シズが指示したベッドは、空中に浮かぶゲル状のクッションで覆われていた。
俺は慎重に、壊れ物を扱うよりも繊細な手つきで、シャルロットをそこへ横たえた。
ベッドが彼女の重みを感知し、ふわりと沈み込む。
それでも、彼女の体はビクッと跳ねた。
わずかな重力変化でさえ、感度3000倍の彼女にとっては、ジェットコースターで突き落とされるような恐怖なのかもしれない。
「……これから、梱包を解く。シズ、室内の照度を最低レベルまで落とせ。音もだ。空調の音すら消せ」
「了解。ナイトモードへ移行。静音フィールド展開。……室温は、彼女の体温と同じ36.5度に設定しました。これで、肌が空気に触れたら時の温度差によるショックを最小限に抑えられます」
照明が落ち、部屋が薄暗いブルーの光に包まれる。
完全な静寂。
俺の心臓の音さえ聞こえてきそうな静けさの中で、俺はベッドの脇に立った。
目の前には、黒い異形の姿がある。
手足がなく、目鼻を塞がれ、黒い皮膚に覆われたダルマのような物体。
これが、かつて一国の姫君と呼ばれ、民に愛された女性の成れの果てだ。
「……ふざけやがって」
俺は怒りを噛み殺し、震える手でスーツのチャックに触れた。
この拘束衣は、彼女を物理的に守るための梱包材であると同時に、感覚を遮断し、精神を閉じ込めるための檻でもある。
ここから出すことが、彼女の治療の第一歩だ。
だが、それは同時に、彼女にとって凄まじい苦痛を伴う作業でもある。
3000倍の感度。
ファスナーを下ろす際の微細な振動でさえ、彼女にとっては電気ドリルで神経を抉られるような刺激になるはずだ。
「……すまない、シャルロット。少し痛むが、我慢してくれ。すぐに楽にしてやる」
俺は意を決して、胴体の側面にあるファスナーの金具をつまんだ。
俺の指が触れただけで、彼女の体がビクリと跳ねる。
俺は息を止め、ミリ単位の慎重さでスライダーを動かした。
ジジッ……。
極小の金属音が、静寂な部屋に響く。
その瞬間。
「――――ッ!!!!」
シャルロットの体が、弓なりに反り返った。
全頭マスクの下から、くぐもった絶叫が漏れる。
全身の筋肉が硬直し、汗が噴き出す。
ファスナーの噛み合わせが外れる振動。
それが、彼女の過敏な神経を雷撃のように駆け巡っているのだ。
痛みか、それとも薬物によって強制的に変換された快楽か。
その両方が、彼女の脳を焼き尽くすほどの奔流となって襲いかかっている。
ジジ、ジジジ……。
俺は手を止めなかった。
ここで止めても、彼女の苦しみが長引くだけだ。
彼女はベッドの上で、手足のない体をよじり、魚のように跳ね回っている。
あまりの刺激に、痙攣している。
「あと少しだ……!」
俺は心を鬼にして、最後の一噛みを外し、スーツを一気に左右に開いた。
ブワッ……。
密閉されていたスーツの中から、湿った熱気と、甘ったるい薬品の臭いが立ち昇る。
黒い殻が剥がれ落ち、その下から、隠されていた真実が露わになった。
「……ッ」
俺は息を呑んだ。
現れた彼女の体は、俺の想像を遥かに超えて凄惨だった。
白い。
病的なまでに白い肌。
だが、その白さは、無数の傷跡と青黒いアザによってまだらに汚されていた。
肋骨が浮き出るほどに痩せ細った体躯。
腹部には、何かの器具を押し付けられたような火傷の痕。
そして、太腿と肩の切断面は、何度も手術を繰り返されたのか、引き攣れたようなケロイド状になっていた。
美しい肢体ではない。
これは、100年間にわたって実験動物として使い潰された、生ける屍の体だ。
全身から噴き出すような汗が、彼女の恐怖と苦痛を物語っていた。
彼女は裸にされたことで、さらに激しく震え出した。
空気が肌に触れる。
その微かな気流さえもが、彼女にはヤスリで擦られるような痛みなのだろう。
「……酷い」
俺の声が震えた。
だが、感傷に浸っている暇はない。
まだ、彼女の頭部は拘束されたままだ。
まずは、イヤーマフを外して彼女の聴覚を解放する。
しかし、全頭マスクは彼女の視覚を奪い続けている。
次に、俺は彼女の頭に手を伸ばした。
彼女の首がすくむ。
殺されると思っているのだ。
首を絞められ、止めを刺されると。
「……怖くない。怖くないぞ」
俺は呪文のように呟きながら、マスクの後ろにあるファスナーを下ろした。
ジジ、ジジジ……。
俺はゆっくりと、彼女の頭からラバー製の全頭マスクを引き剥がした。
汗と脂で固まった金色の髪が、パラリとこぼれ落ちる。
全ての拘束が消えた瞬間。
彼女は肺の中の空気を全て吐き出すように、大きく息を吸い込んだ。
「ひゅっ……はっ……う、ぁ……」
彼女の顔が露わになった。
痩せこけて、頬骨が浮き出ている。
目の周りは落ち窪み、唇は乾燥してひび割れている。
だが、その骨格の美しさは隠しようもなかった。
整った鼻筋、長い睫毛。
まるで、壊れた人形のような、痛々しくも神聖な美貌。
彼女はゆっくりと、恐る恐る瞼を開いた。
光に弱い瞳が、薄暗い部屋のブルーライトを捉える。
焦点が合わない。
100年間、あの「特別室」の闇に慣れた目は、光を痛みとして認識しているのかもしれない。
彼女の瞳――深い海のようなサファイア色の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
そして、ひび割れた唇が微かに動いた。
「……ど……う……か……」
掠れた、空気の漏れるような声。
それは、人間の声というよりは、壊れた楽器の音色のようだった。
「……殺……して……下さ……い……」
彼女の視線が、ぼんやりと俺の顔を捉える。
だが、そこに映っているのは「俺」ではない。
彼女を虐げてきた、無数の帝国の男たちの幻影だ。
「……もう……無理……です……。痛い……のも……怖い……のも……。おね……がい……。終わらせ……て……下さい……」
彼女は泣いていた。
子供のように。
いや、絶望の淵で祈る老婆のように。
その涙は、助けを求める涙ではない。
「死」という唯一の救いを乞う涙だ。
100年間、来る日も来る日も、彼女はこうして懇願し続けてきたのだろう。
そしてその度に、嘲笑と共に拒絶され、更なる苦痛を与えられてきたのだ。
俺の胸の奥で、何かが張り裂けた。
同情などという言葉では追いつかない。
これは、俺自身の痛みだ。
かつて5等民として泥水を啜り、尊厳を踏みにじられた俺自身の魂が、彼女と共鳴して悲鳴を上げている。
俺はゆっくりと、彼女の顔に顔を近づけた。
触れることはできない。
俺の手の温もりでさえ、今の彼女には火傷になる。
だから、言葉だけで伝えるしかない。
「……殺さない」
俺は、はっきりと言った。
優しく、しかし力強く。
彼女の鼓膜を震わせすぎないように、けれど魂には届くように。
「俺は、お前を殺さない。傷つけもしない。……俺はお前の味方だ」
彼女の目が、わずかに見開かれた。
予想していた「嘲笑」や「罵倒」が来なかったことに、戸惑っているようだ。
「……あ……?」
「ここは監獄じゃない。俺の船だ。帝国の悪い奴らは、もうここにはいない。お前を痛めつける機械も、薬もない」
俺は彼女の目を見つめ返した。
「待たせたな、シャルロット。……救いに来たぞ」
時が止まった。
彼女は瞬きもせず、俺の顔を凝視していた。
救い。
その言葉の意味を理解するのに、彼女の疲弊した脳は数秒を要した。
やがて。
彼女のサファイア色の瞳が、大きく揺れた。
「……う……そ……」
涙が、さらに溢れ出した。
先ほどまでの、渇いた絶望の涙ではない。
堰を切ったように、止めどなく溢れる感情の奔流。
「……あ……ああ……ぁぁぁ……!」
彼女は顔を歪め、声を上げて泣き始めた。
100年分。
100年間、誰にも届かなかった叫びが、今ようやく「届く相手」を見つけたのだ。
終わった。
本当に、終わったのだ。
その安堵が、恐怖の震えを上書きしていく。
「うあぁぁぁ……!あぁぁぁ……!」
彼女は泣きじゃくった。
手足のない体をよじり、子供のように泣き叫んだ。
それは悲痛な光景だったが、同時に、彼女がまだ「感情」を失っていないことの証明でもあった。
彼女の心は、死んでいなかった。
「……もういい。十分に頑張った。今はただ、眠れ」
俺はシズに合図を送った。
シズがコンソールを操作すると、ベッドの周囲から透明な壁がせり上がり、カプセルを形成した。
そして、中へ薄い青色の液体が注がれ始める。
『高濃度回復液』
精神安定作用、そして細胞修復機能を持つ、万能薬だ。
液体は人肌の温度に保たれており、彼女の過敏な皮膚にも刺激を与えない。
液体が彼女の体を満たしていく。
浮力によって体重から解放され、痛みが和らいでいくのを感じたのか、彼女の表情が次第に穏やかになっていく。
泣き声は泡となり、やがて静かな寝息へと変わった。
薬効成分が効き始め、彼女は100年ぶりに、恐怖のない深い眠りへと落ちていった。
「……バイタル、安定しました」
シズが小声で報告する。
モニターの波形は、まだ弱々しいが、規則正しいリズムを刻んでいた。
「ここからが本番です、マスター。外傷、アザ、そして栄養失調。これらはフェンリルの医療ポッドと万能物質を使えば、完全に治ります。ですが……」
シズの言葉が曇った。
「一つだけ、懸念事項があります」
「なんだ?」
「彼女は100年以上もの間、神経系を強制的に書き換える高濃度の薬剤を投与され続けていました。そのため……『感度3000倍』という異常な神経過敏症が、完全に治るかどうかは不明です」
「……治らないかもしれない、ということか」
「はい。薬のデトックスは行いますが、脳の神経回路そのものが変質し、その過敏さが『デフォルト』として固定されている可能性があります。もしそうなれば、彼女は一生、微風でさえも激痛や快楽として感じ続けることになります」
俺は沈黙した。
カプセルの中の、穏やかな寝顔を見つめる。
彼女は救われた。
だが、100年の呪いは、そう簡単には消えてくれないらしい。
「……構わん」
俺は短く答えた。
「治らないなら、その体でも生きられるようにしてやるだけだ。俺が守る。どんな些細な刺激からも、彼女を守り抜く」
「……承知いたしました」
シズは深く一礼した。
「行くぞ、シズ」
俺は踵を返した。
向かう先は、艦内最深部にある『万能物質製造工場』だ。
「どちらへ?」
「工場だ。彼女の『自由』を作らなきゃならない」
俺は自分の掌を強く握りしめた。
「義手と義足を作る。ただの代用品じゃない。かつての肉体よりも強く、美しい……最高の四肢をな」
俺の目には、既に設計図が浮かんでいた。
先端工学科で学んだ知識、そして万能物質の力。
それら全てを注ぎ込み、彼女に新しい手足を授ける。
たとえ彼女の世界がまだ棘に満ちていたとしても、俺が作る手足があれば、彼女は再び立ち上がれるはずだ。
「彼女が目覚めた時、最初に目にするのが、絶望ではなく希望であるように」
俺の足音は、確かな決意と共に、銀色の廊下に響き渡った。
地獄の釜の底から拾い上げた宝石は、これから俺の手で、銀河で一番美しく輝くことになる。




