第8話 静寂の夜、旅立ちの覚悟
どこかで何かが、始まる気配だけを残して──
訓練区画に集められた面々の前に立つのは、階級章のない淡いグレーの制服をまとった一人の男だった。
彼の肩には、名も階級も記されていない。その代わりに、背後には複数の制服者たちが控えている。白衣を着た分析班、端末を抱えた戦略室のスタッフ、そして情報局と思われる寡黙なスーツの者まで──その“層の厚さ”が、これから伝えられる事柄の重みを静かに示していた。
「……本日20時をもって、訓練プログラムは終了する」
男の声は、演説でも檄でもなかった。ただ事実を積み上げていくような語り口だった。
「明朝、4時。国際連合航宙機関が主導するテストミッション『ステージ・アルファ04』が発射される。対象は地球外軌道中距離、旧ロシア系衛星群〈ステラリンク27帯〉──その一部に対する、メンテナンス・通信システムの再起動・観測データの回収を含む任務だ」
誰も反応しない。ただ、真っ直ぐに聞いている。
「難易度としては……訓練で行ってきた数値の範囲内にある。軌道投入も補正済みだ。通信は確保され、帰還も自動シーケンスで誘導される。言ってしまえば“本番ではあるが、想定内の任務”だ。──もっとはっきり言えば、“行って、修理して、帰ってくるだけの簡単なミッション”だと考えてくれていい」
わずかに、誰かの息を吐く音が響いた。安心ではない。緊張が“現実感”へと変わった音だ。
「3時20分、搭乗開始。手続きは既に全員分完了している。現時点での辞退は許容されない。……以上、任務説明とする」
「──最後に、明日の打ち上げにおけるクルー編成を伝える」
壁面スクリーンに、六名分の名前と肩書きが投影される。
上官の説明後、副長官は、淡々と読み上げていった。
「ミッション・コマンダー(指揮官):クレール・ド・ルナ。
パイロット兼副指揮官:レオ・サントス。
スペシャリスト1:カリーム・アル=ナジリ(保安/物理支援)。
スペシャリスト2:エルナ・ミレイス(医療/AIインターフェース)。
スペシャリスト3:マリア・ストヤノヴァ(観測・環境解析)。
……そして、スペシャリスト4:藤崎優司(整備・工学支援)。」
一拍、遅れて名が呼ばれた。
誰よりも遅く、だが確かにそこにある。
優司は無言のまま立ち、わずかに顎を引いて応える。
誰の視線も集めなかったが、それでも、機体は彼の手に託されている。
そう締め括ったあと、男は一拍置き──静かに視線を面々に向け直した。
「全員、このまま残ってくれ。……本題はここからだ」
言葉を失ったわけではない。ただ、何を問えばいいのか──その順番を選んでいるだけだった。
沈黙は、騒音よりも重い。
無言のまま立ち尽くす六人の前で、男は背後の関係者に目配せし、端末を片手にゆっくりと歩き出す。今度は、誰にも遮らせないという強い意志をその背に滲ませながら、重い本題を口にし始めた。
「──一部の者は既に察しているだろう。だが、公式にはこれが初の開示となる」
男の声は低く抑えられていた。だがその場にいた誰もが、その抑制の裏に隠された熱と痛みを感じ取っていた。
「我々が実施する『プロジェクト・グラビティ』。その進行に対して──明確に“反対”の姿勢を示す存在がある」
一瞬、空気が揺れた。
風もない密閉空間で、誰も動いていないのに、確かに何かが通り過ぎた感覚だった。
「政治的な敵対勢力ではない。宗教でも、単一国家の主張でもない。──この“宇宙への進出そのもの”に、根源的な否定を突きつけてくる思想集団がある。活動実態は未確定。だが彼らは、いくつかの“事故”に見せかけた破壊工作を既に行っている」
レオが小さく息を呑み、隣のカリームが眉をしかめた。
「君たちの訓練中にも、いくつか不自然なデータが検出された。我々は、それらの背後にある“意志”を把握していた。……だからこそ、警戒と対応を重ねてきた」
ここで一度、男は言葉を切った。
──そして、話が“個人”へ向かう気配を見せた瞬間、全員の背筋がわずかに強張った。
「今回の搭乗メンバーの中には、その“脅威”に対する抑止力として、特別な役割を担う者が含まれている」
言い終わると同時に、マリア──いや、今その場にいる少女は、微かに首を傾けた。それは質問ではなく、確認だった。
だが、誰も言葉にはしない。
「それ以上の情報は開示しない。だが、勘違いしないでほしい。……これは“疑い”ではなく、“信頼”による配置だ。宇宙に送り出す者たちを、我々は心から信じている」
静寂が戻る。
そして、その静けさの中で、ごく小さな私語が交差する。
ブリーフィングが終了し、控室へと戻る廊下。レオがひょいと隣に並んだカリームに小声で囁いた。
「なあ……今の話、ちょっと映画みたいじゃなかったか?」
「黙れ。お前がしゃべると全部B級になる」
苦笑しながら、カリームはレオの肩を軽く小突いた。
後ろを歩くクレールは無言だった。が、通信タブレットを握る指先には、白くなるほどの力がこもっていた。
──簡単な任務。ただし、その背後には重たい現実。
誰もが、それを飲み込もうとしていた。
説明が終わると同時に、立ち上がろうとする面々に向けて、男が一言だけ続けた。
「……数名、残ってくれ」
ピタリと足が止まり、全員の視線が揃った。
優司も、無言のまま視線を向けた一人だった。だが男──上官は、すぐに付け加えた。
「いや、全員だ。これは、個別の問題ではない。……全員に関わる話だ」
再び椅子へと腰を戻す気配が走るなか、男は小さく息を吐いた。
その姿に、優司は初めてわずかな“人間味”を見た気がした。軍服や官位に縛られた誰かではなく──、言葉を選びながら、それでも伝えねばならぬ責任を負う一人の大人の姿だった。
「……いま君たちは、“守られている”側にいる。だが明日からは、違う」
男はそのまま背後のモニターを指し、宇宙船と管制装置、地球からの軌道図を映し出す。
「今回の任務は、ロシア圏外周に位置する旧世代衛星『ORB-9』への訪問だ。打ち上げ後の軌道投入は既に補正済み。地球周回を2周したのち、外周コースへ進入。通信システムの物理更新、衛星の軌道安定化装置の再起動、およびブラックボックスのデータ回収が任務となる」
そこまでを一息に述べたあと、彼は視線を落として一拍置く。
「難易度としては……訓練で行ってきた数値の範囲内にある。軌道投入も補正済みだ。通信は確保され、帰還も自動シーケンスで誘導される。言ってしまえば“本番ではあるが、想定範囲の任務”だ」
そこでふと、言葉を止め、正面の優司に視線を向ける。
「──素直に言えば、“行って帰ってくるだけ”の比較的単純なミッションだ。だが、それが初任務である君たちにとって、意味のない任務だとは思わないでくれ。あの軌道は、今後、地球圏外へ向かう最短ルートの起点になる」
優司はその言葉を、黙って噛みしめる。
整備士として──いや、宇宙に向かう者の一人として、その言葉の重さと背景を察していた。
クレールがわずかに眉を動かし、カリームがぐっと拳を握る。
それぞれの反応があったが、誰も言葉にはしなかった。
「──以上だ。質問がなければ、解散して構わない。……ただし、今夜はよく眠れ。おそらく、明日からの日常は──少しだけ、変わるからな」
その声には、どこか親しみのような温度が含まれていた。
扉が自動で開き、訓練生たちがゆっくりと立ち上がっていく。部屋を出る間際、優司だけが一歩だけ遅れて足を止めた。
男はその気配に気づき、ちらりと横目を送る。
優司は黙って、深く一礼した。
任務を託されたことへの責任と、信頼への礼を、言葉ではなく態度で示す。
ロケットも人も、任せられた以上は応える。
──それが整備士としての矜持だった。
ラウンジと呼ばれている一角は、訓練棟の一階にある。
本来は交流の場として設けられたが、用途はまちまちだ。
今夜のように、全員が揃って座ることは滅多にない。
──
天井の照明は一段落とされ、薄明かりが広がっていた。
テーブルの上には、小さなポットとカップ、それからサンドイッチが数皿。
「……なんか、静かすぎて落ち着かないな」
レオがカップを手にしながら言った。だが、その声もどこか慎重だった。
「まあ、明日宇宙だしな」カリームが淡々と返す。
「いや、宇宙だからってより……」とレオが返しかけて止める。
しばらく、沈黙が落ちた。
誰もが、それぞれのカップを見つめている。
「AIの件、気にしてる?」
ぽつりとクレールが呟いた。
「当然。訓練中に異常とか……偶然で済ますには、出来すぎてる」
カリームの声は低い。
「──プロジェクトに反対する組織が動いてる」
優司が静かに言った。誰も驚かない。
すでに全員、それを理解していた。
「やっぱりそうよね」
エルナが珍しく声に出す。指先がカップの縁をなぞっていた。
「地球側で何があったか、私たちは正確には知らない。
でも……何かを守ろうとして、組織は人を配した」
クレールが言った。「あの人」は、それを隠しもしなかった。
「マリアも、そのひとりだったのか?」
レオの言葉に、皆がマリアに目を向ける。
彼女は、カップの湯気をじっと見つめたまま──
「……私は、“何かあったとき”に備えて配置された要員。
だから、想定外に備えるのが任務」
それだけ言って、また黙った。
その静けさが、重くも暖かい余韻を残す。
「想定外ってのが、あんな形で来るとはな……」
カリームがぼやき、皆の口元にわずかな苦笑が浮かんだ。
「で、俺たちはどうする? 備えるって言っても……何ができる?」
レオが腕を組みながら天井を見上げる。
「武器がないなら、頭を使う。
この施設の構造図、明日出発前にもう一度見ておこう」
優司が言うと、皆が頷く。
「医療系の装備も見直しておくわ」
エルナがすぐに反応する。
「俺は……訓練記録を洗い直してみる。パターンに偏りがないか」
クレールが言った。
「じゃあ俺は、明日打ち上げ直前に、パネルの動作確認でも……って整備士じゃねーか」
レオが笑いながら優司を見て、皆にようやく笑みが戻る。
「……ふうん」
マリアが、笑うでもなく、不思議そうにその様子を見ていた。
その表情には、わずかに──“何か”が宿り始めていた。
「ま、備えは万全ってことでさ──」
レオが立ち上がって、両手を伸ばすように言った。
「問題は……俺たち、明日、宇宙だったってことだな」
誰かが「おい」と小さく笑う。
そうして、静かに笑いが広がった。
この時間が、長く続くものではないと、全員が知っていた。
だが、それでも──今だけは、同じ空気を吸っていた。
──
朝、と呼ぶには異質な静けさだった。
訓練棟の空調はいつも通り低く唸り、通路の照明は定刻通りに点灯した。だが空気は、どこか別物だった。
その変化に、理由はない。ただ、誰もがわかっていた──“今日”が始まったのだと。
ロケット発射までのタイムラインは、秒単位で管理されている。
整然と並んだ搬送カートが施設の奥から姿を現すと、全員が一斉に立ち上がった。
無言のままカートに乗り込むと、シートの微振動が背筋を刺激する。
誰も喋らない。言葉を飲み込んでいるのではない。ただ、不要だった。
外の景色はない。通路も、シャッターも、すべてが管制の支配下にある構造物だ。
だが、それでも。振動や音、そして体内の感覚が、「今はもう戻れない場所に進んでいる」ことを告げていた。
──自分の足で向かうのではない。運ばれていく。
それだけで、精神の芯に何かが染み込んでいくようだった。
格納庫に到着すると、空間の広がりに圧倒される。
天井は見えず、足元のタイルは磨き上げられ、整然としたラインに沿って技術者たちが黙々と作業を続けている。
巨大なロケットは、まるでそこに“生えていた”かのような自然さで、静かに鎮座していた。
整備士たちは白衣に似たユニフォームを纏い、すべての所作に迷いがない。
その中に立つ者たち──彼らは、宇宙服を纏っていた。
軽量化と機動性が重視された次世代型の船内活動スーツ。
薄く見える外装の裏には、多層の断熱と耐圧構造が仕込まれている。
関節部には軋みも抵抗もなく、動きは滑らかだ。それでも、纏う者に圧を与える。
「守られている」感覚と、「委ねてしまった」感覚の境界に立たされる──それが宇宙服だった。
ヘルメットの内側に、わずかに息がこもる。
内蔵モニターが淡く光り、脈拍と酸素レベルを表示している。
クレールはいつも通りに冷静だった。手順を反芻し、思考を整理する。
だが脳の奥では、どこかの回路が、微かに震えていた。
カリームは、無言で拳を握ったまま。額には汗が滲んでいたが、それは恐れではなかった。
自分の中にある、何か古い衝動──「本能」に近いものが、音もなく蠢いていた。
エルナは顔色を変えず、静かにチェックリストを確認していた。
彼女の指は止まらなかったが、その動きには“焦り”という概念がなかった。
レオだけが、いつも通りに軽口を叩いた。
「……このスーツ、肩幅の広さがモロに出るよな。いや、似合ってるけどさ」
誰に向けたわけでもないその言葉が、場にほんのわずかな“人間味”を戻す。
マリアは、誰よりも自然にスーツを着こなしていた。
姿勢も動きも乱れず、言葉も出さなかった。
ただ、視線が。格納庫の天井を越え、その向こう──空のさらに先を、見ていた。
──そして優司は、最後に現れた。
スーツのファスナーを静かに締める。指先で素材の接合部をなぞり、装着感を確かめる。
その仕草は、誰よりも静かで、誰よりも迷いがなかった。
「……準備、完了です」
その声に、誰も返事はしなかった。
だが全員が、ほんのわずかに背筋を正した。
重いゲートが、ゆっくりと開いていく。
その先に、ロケットへのブリッジが伸びていた。
──あの先に、宇宙がある。
だが、誰もその言葉を口にする者はいなかった。
言うまでもない、という共通認識。それは、エリートたちが培った“静かな覚悟”だった。
次に開くとき、世界が少しだけ違って見えるかもしれない。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.008】
出力低下中。各機体、静止状態を維持。
ただし、臨界前の“わずかな揺らぎ”を感知。
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