第7話 沈黙の観測者、計画の断片
──その判断が、未来を変えると知っていたら。
明滅する赤灯の下、ユニットC-4のメンバーは無言でブリーフィングルームに集まっていた。
壁面に広がる戦術パネルに、淡々と情報が展開される。
「シナリオ:惑星外環境災害シミュレーション第3フェーズ──」
「重力比2.1、気圧低下、酸素制限、局所火災、隔壁破損、生体反応の不確定情報──」
「目的:内部に残された“要救助者”の確保および退避路の確保」
「タイムリミット:実時間で23分──」
状況は、最悪に近い。だが、それが標準だった。
極限状況で、どこまで“人間”として対応できるかを測る訓練。
「今回は三名一組。クレール、レオ、カリームはαルート。優司、エルナ、マリアはβルート」
AIの中立的な音声が割り振りを告げたとき、一瞬、マリアが振り返った。
無表情のまま、誰とも視線を交わさず、ただ静かにデータを見つめている。
優司は、その背中を横目で一度だけ見た。だが、それ以上は踏み込まない。
──観察の“距離”を保つ。それが彼の流儀だ。
各チームは自動ドアから訓練区画へと入り、空気が変わる。
内部は、温度と湿度まで“事故直後”に近づけられていた。
ざらつく空気に、人工煙と重力強化ブーツの負荷が重なる。
それだけで、思考は一歩遅れる。
そんな中、カリームの怒声が飛ぶ。
「そっちは崩れる!クレール、壁!レオ、左下だ!」
彼の指示が的確だったのは、偶然ではない。
爆発音が轟き、床が沈むように崩れ──クレールは転がるように距離を取り、咄嗟にレオの腕を掴んだ。
「無事か!?」
「ギリ。アンタの叫び声で助かった」
レオが笑いながら立ち上がる横で、クレールは僅かに眉をひそめた。
それは、自分の“遅れ”を自覚してのことだった。
一方、βルート。
優司は煙の中を屈み、隔壁の手動開閉装置を解体していた。
「3ミリ、左ズレてる。これ、実際には開かねぇ構造だ……」
「気づいた?」とエルナが言う。
その声はかすかに震えていた。だが、彼女は何も言わずに優司の手元を照らす。
「想定よりも現場の密度が高い。設計ミスとは思えない」
そのときだった。
マリアが、奥の通路を見つめたまま、小さく呟いた。
「──左じゃなく、右に行きます」
優司とエルナが同時に動きを止めた。
「ルートは閉鎖されてる。データ上、右は──」
「今、開きました」
マリアは壁のくぼみに手を入れ、強引にパネルを外した。
すると、内部の“再起動中”だった制御装置が、自動的にルートを解放する。
「……本当に、今?」
「見てください。空気の流れが変わった。焦げ臭い煙と……機械油の匂い。さっきとは逆の方向から来てます」
彼女の“直感”が、ルート変更を即断させた。
優司は数秒だけ黙し──そして、言った。
「……続けろ。こっちは俺が塞ぐ」
マリアは一瞬だけ、彼を見た。
だが、それ以上何も言わず、進んでいった。
──そのとき、AIが全体アナウンスを割り込ませる。
「緊急事態発生。訓練区画C-04内で異常反応。熱源センサー、酸素濃度、外壁圧に著しい変動を検知──」
「現在、マニュアルモードへ移行。すべての安全措置を一時停止──」
静かな訓練が、**現実の危機へと切り替わった瞬間だった──。
耳を疑うような沈黙の中で、空間全体が、ごくわずかに“何か”を変えた。
その変化は一秒にも満たなかったが、体は確かに覚えていた。
訓練用に設計された区画とは思えない“本物の揺れ”が、足元を震わせた。
壁の補強材が軋む。天井から落ちた断熱パネルが床に跳ね、重力下とは思えぬ鈍い音を響かせる。
「これ、訓練の範疇じゃねぇぞ……!」
レオが顔をしかめながら叫ぶ。だがAIは沈黙を守り続けた。代わりに響くのは、空調とは異なる不快な“風鳴り”──。
「全員、各自の判断で退避行動に移れ」
クレールが短く指示を飛ばし、αルートの三人は迷いなく移動を開始した。
重力対応のブーツが床を踏みしめる音が、訓練とは違う、無音の緊張を強調する。
一方、βルート──。
「マリア、応答しろ。位置は?」
優司がインカムを通して呼びかける。だがノイズしか返ってこない。
沈黙。
そのわずかな空白に、エルナがそっと呟いた。
「……閉じられたかもしれない。あのルート、今は制御不能になってる」
優司はすぐさま端末を覗き込んだが、表示は“データ未取得”──つまり、ルートごと、遮断されたということだ。
だが、エルナの視線はどこか別を向いていた。
“技術的な遮断”ではなく、意図的な隔離。そんな言葉が頭を過る。
再び、インカムに呼びかける。
「マリア。答えろ。無理ならノイズでもいい。生きてるってだけでも──」
……応答なし。
そのとき、AIがようやく再起動したかのように、抑制された声で告げた。
「再接続試行中。C-04区画のサブセクション04-βにて熱源を検知。生体反応:単体、移動中」
生きている。
優司は、静かに息を吐いた。
「……エルナ、撤収は任せる。俺は、あいつを迎えに行く」
「あなたが行って、間に合う確証は?」
「ない。でも、誰かがやらなきゃ、後悔が残る」
彼女は、何も言わなかった。ただ数秒間、優司を見つめ──
「ここで倒れたら、後で医務班で怒鳴るわよ」
それが、彼女なりの“GOサイン”だった。
優司はうなずき、崩れかけた通路へと足を踏み出した。
非常灯だけが点滅する空間は、もはや訓練施設ではなかった。
それは“現場”──生命と判断が交差する、生の空間だった。
そして、奥に見えた。
──細身の影が。
傷だらけの隔壁をくぐり抜けながら、それでも迷わず進んでいく、重力を物ともせぬ歩み。
「……マリア!」
呼びかけに、彼女は振り返る。
だが、返ってきたのは──
「どうして来たんですか」
その声に、怒りも、驚きも、喜びもなかった。
ただ、冷静に──“合理性を問う”口調で。
優司は数秒、返す言葉を探した。そして、言った。
「……お前がそこにいる理由と、俺が来た理由は、多分、似たようなもんだ」
その言葉に、マリアの目がわずかに見開かれた。
次の瞬間、頭上で天井が軋む音が鳴り──
「伏せろ!」
優司が覆いかぶさるようにマリアを引き寄せた。
直後、鉄骨が二人の背後に落ち、通路が完全に塞がれる。
もう、後戻りはできなかった。
だが──その表情に、後悔はなかった。
どこか遠くで、機械の冷却音が戻っていた。
騒然とした空間に、ようやく“静けさ”が舞い戻りつつある。
熱を帯びた鉄骨の匂いが、わずかに焦げた空気に混じっていた。
崩れた天井の隙間から微かに差し込む非常灯の光が、散乱した金属片に乱反射している。
優司は短く息を吐きながら、背後を振り返った。
通路は──完全に閉ざされていた。
「……逃げ道は、ないみたいだな」
そう呟いてから、彼はもう一度、マリアの方へ向き直った。
だが、彼女はその様子を一切気にせず、崩落地点の向こうを見つめていた。
壁でも、天井でもない。もっと別の、何かを測るような眼差しで。
静寂。空間に満ちるのは、機械の唸りと呼吸音だけ。
「どうするつもりだった?」
優司が口を開いた。
「……ひとりで、ここに残る気だったのか」
マリアは答えない。
代わりに、視線を戻し、そして、ぽつりと告げた。
「訓練は終わっているのに、AIが再起動しなかった。
本来、C-04セクションは独立電源のはずです。けれど、起動信号が一度、外部に跳ね返された」
「つまり……誰かが、わざと?」
彼女は、軽く頷いた。
「トラブルは偶然じゃない。
あなたたちが安全に避難できるルートだけを残して、β側だけを沈黙させた。
情報の観測も、救助の可能性も遮断された状態で、私は放置された」
「……なんでお前だけ?」
その問いに、マリアは答えず、ただ自分の手のひらを見つめた。
「私は、使い捨ての“検証体”ですから。
このプロジェクトには、そういう立場の人間も含まれている」
告白とも、独白ともつかないその言葉が、壁に反響して消えていく。
沈黙が落ち、誰も次の言葉を探せずにいた。
その声には、怒りも哀しみもない。
まるで、温度のない機械のように──事実だけを淡々と述べる響きだった。
優司は目を細め、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと尋ねる。
「“プロジェクト・グラビティ”ってのは……お前みたいな奴を、試すための計画なのか?」
マリアは目を伏せると、短く、こう返した。
「その質問には……まだ、答えられません」
「“まだ”って……」
「私は、質問の優先順位をつけて処理します。
この場において、必要なのは──私の出自ではなく、どう脱出するか、です」
言葉の温度が、わずかに変わっていた。
過去ではなく“今”を選んだその声に、空気がひとつ、張り詰める。
そう言って、マリアは背後の隔壁に目をやった。
崩落の隙間を測るように数秒凝視し、そして淡々と口にする。
「あと三分後、振動がもう一度来ます。
そのとき、上部の骨組みがずれて、隙間が広がるかもしれない。
もし通れるようになれば、抱えずに、下から支えて押し上げてください」
「……抱えずに?」
「あなたの体力で私を担ぐのは、負担が大きい。
その前に崩れれば、両方潰されます。だから、私だけ先に抜けられるようにしてください」
それは──自分の命を前提にした“最適解”だった。
言い切った彼女の顔に、迷いはなかった。
それが当然であるかのように、冷静で、整然としていた。
だが、その言葉が落とした影は、優司の胸に異物のように沈んでいく。
優司は言葉を失った。
この女は、命を削ってまで“合理”を取るのか。
それとも、それ以外の生き方を知らないだけなのか。
「……それでも、お前は来たんだな」
静かに、そう呟いた。
「誰にも命令されず、誰にも頼らず──でも、お前は来た。
なら、そんな奴を放っておけるほど、俺は冷たくできてねぇんだよ」
マリアは微かに目を見開き、何かを言いかけたが──
「……判断を誤りました。
あなたは、私の想定した“仲間”とは、別種の存在です」
それは、初めて彼女が見せた“予測不能”という感情だった。
一瞬だけ、空気が揺らいだ。
火花のような感情が、互いの間に閃いた──それはすぐに、また冷えた計算に飲み込まれる。
第二波の揺れが来たのは、予測より十秒遅れだった。
それでもマリアは、その遅延すら想定していたように、無駄な動きを一切見せず、崩落の音に合わせて壁面の骨組みに手をかけた。
重力に引かれる身体を、腕と脚だけで静かに支える。
人形のように無駄のない動きで、彼女は──抜けた。
その瞬間、優司は身を沈め、腕を組み替えるようにして彼女を押し上げる。
「手を使わずに」という指示を、彼なりの方法で実行した。
マリアが外へ転がり出ると同時に、最後の梁が落ち、完全な封鎖が完成する。
優司の姿が、その向こうに消えた。
閉ざされた隔壁は、もう何も通さない。
残されたのは、熱と金属臭と──確かにそこにいた誰かの、気配だけ。
「……っ」
マリアは転がるように起き上がり、すぐにインカムへ手を伸ばした。
「藤崎優司、応答してください。──優司!」
返答は、なかった。
断熱パネルの裏側で、わずかな閃光が走る。
──AI制御のシステムが、再起動を開始した兆しだった。
誰もいないその隙間で、無機質な冷光がゆっくりと明滅を始める。
すべてが終わったように見えた、そのわずか数秒後。
それは、皮肉なまでに遅い再起動だった。
今や訓練シナリオも区画管理も再起動され、ようやく全施設に通信が繋がり始める。
『こちらクレール。全エリア通信、回復を確認。生存者の確認を急いで。レオ、そっちは?』
『αルート側、全員無事。ただし……優司がβルートに残ったままなんだ』
『……っ。探索班、回す。C-04β、再接続──』
報告の声が、通信回線に連なる者たちの背筋を強張らせた。
次の指示を待つ間、誰もが一瞬、祈るように息を潜める。
そのときだった。
断熱パネルの一部が持ち上がり、鉄粉が舞い上がる。
そこから、ゆっくりと顔を出したのは──優司だった。
煤けた制服。擦り傷だらけの両腕。そして、無言のまま片手を上げる仕草。
「……俺も、間に合った」
それだけ言って、床にへたり込む。
再起動した照明が、その顔を照らした。
崩落が止まり、施設の心臓が再び脈を打つ。
しかし誰もすぐには動けなかった。
生還の安堵と、極限の緊張が入り混じった空気が、そこにあった。
駆け寄ろうとするクレールを、レオが制止する。
「ギリ。アンタの叫び声で助かった」
レオが笑いながら立ち上がる横で、クレールは僅かに眉をひそめた。
それは、自分の“遅れ”を自覚してのことだった。
それでも、言葉を返す代わりに、静かに頷く。
再起動した施設には、まだ騒がしさは戻っていない。
静寂のなか、誰からともなくマリアの方へと視線が向けられる。
そして、マリア。
少し離れた場所に立ち、何も言わず優司を見つめていた。
やがて──ほんの少しだけ、口元が緩む。
「……理解しました。あなたの行動には、“優先順位”では測れないものがあると」
優司は小さく笑う。
「今ごろ気づいたかよ」
「ええ。だから──“仲間”として、評価を更新します」
その言葉に、誰かが吹き出した。
「……評価って言い方が、なんかやっぱマリアだよな」
誰の言葉だったかは覚えていない。
だが、その笑いは──ほんの少しだけ、空気を戻していった。
冷たい機械と、熱い心。
その狭間に立っていた少女は、確かに一歩、踏み出していた。
それから、どれほどの時間が経ったのか──。
慌ただしかった施設の空気も、今は嘘のように静まり返っていた。
──医務室。
冷却材の匂いと消毒液の匂いが混ざる中、マリアは静かに座っていた。
機械的な呼吸音。心拍モニターの微かなビープ音が、唯一の環境音だった。
扉が開く音に、彼女はわずかに目を上げた。
優司が立っていた。作業服の袖は煤で焦げ、額にはうっすらと汗が残っていた。
「……あなたの行動は、予定外でした」
マリアは、それだけを言った。
その声は、いつも通り静かで、どこか無機質ですらあった。けれど──わずかに、音の奥に揺らぎがあった。
優司は言葉を返さず、代わりに近くのスツールに腰を下ろす。距離は、ちょうど彼女の足元と目線が重なる位置。
「正確には……私は、あなたが来る確率を3%未満と予測していました」
「じゃあ、外れたんだな」
優司が短く返す。その口調は淡々としていたが、何かを否定するものでも、誇るものでもなかった。
「育成機関──アストラリア適性育成課程。私は、そこで育てられました」
マリアは、自らの胸に手を当てるような仕草を一瞬だけ見せた。それは、思考でも、記憶でもない、“輪郭の確認”のようだった。
「任務、最適化、必要性。それが私にとっての“存在意義”でした」
壁のディスプレイには、未だ自動修復が終わらない隔壁エリアのデータが表示されている。
優司はそれを見ず、ただ彼女の言葉だけに耳を傾けていた。
「私は、“救出されるべき対象”ではなかったんです。あなたにとっても、そうだったはず」
「だったら、聞くなよ。どうして来たのか、なんて」
少しだけ口調が強くなった。怒っていたのではない。ただ、理解されていないことに対するもどかしさだけが滲んでいた。
「理由なんて、要らねぇ。仲間が命張ってんのに、俺が張らねえ理由はない」
「あなたは整備士です。責任はなかったはず」
「肩書きの話か? ああ、だったら──」
優司は、ゆっくりと前を向き、彼女の視線に真正面から応える。
「整備士だからって、命懸けちゃいけないって誰が決めた。
仲間がそこで倒れてんのに、計算して逃げるような職種なんて、俺には向いてねぇよ」
言葉の温度が、ようやく部屋の冷気を溶かし始める。
マリアは、数秒沈黙した。
その目が、何かを測ろうとするように揺れる──けれど、次の瞬間、彼女はわずかに、目を伏せた。
「……未だに、定義できません。あなたの行動も、思考も」
「定義なんて要らねぇよ。──ただの“当たり前”だ」
その一言は、決して熱く叫んだわけではなかった。
ただ、言い訳も装飾もない、真っ直ぐな意思だけが込められていた。
そして──その言葉を聞いたとき、マリアの口元が、わずかに、ほとんど気づけないほど小さく、動いた。
笑ったのかもしれない。けれど、それは本人にも分からない。
ただ、その日以降、誰よりも合理的だった観測者の“沈黙”は、少しだけ柔らかくなった。
機械には、涙の理由がない。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.007】
感情反応なし。観測記録は正常範囲。
ただし、判定不能な変数が交錯。
“ブックマーク”による継続観測を推奨。