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グラクラ(Glavity:Craft) ―壊れた世界でも、俺は作り続ける―  作者: はちねろ


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第70話 まだ、空は遠い

作り続けた先に、何が残るのか。

 雪の音が、やけに近かった。

 踏みしめるたび、白い面が足を呑み込み、押し返すように沈んでは、鈍い音を返してくる。


 レオが前を走りながら振り返る。

 肩で荒く息を吸い込み、吐くたびに白い呼気が、焦りの形をしてほどけていった。


「……痕跡、こっちで間違いねぇ!」


 地面に残るのは、小さな足跡だけだった。

 深さと間隔が、ミナが“逃げている”のではなく、“全力でどこかへ向かっている”ことを物語っている。


 横を駆けるカリームが、雪を蹴り上げながら低く言う。

「歩幅が乱れてる……ここ、滑ったな。転びかけた跡がある」


 雪面に残った浅い擦り傷を、ブーツの先でなぞる。

 その先には、無理やり立ち上がったような、深い踏み込みがひとつだけ残っていた。


 優司は言葉を返さない。

 ただ、列の端へ身を寄せ、足跡の縁に片膝をついた。


 指先で雪のふちを軽く崩す。

 沈み方と、指にまとわりつく湿り気で、“時間”を測る。


 雪粒が、まだほぐれていない。

 崩した部分だけが、後からつけ足されたみたいに、質感を変えて指に残った。


「……数分も経ってない」


 吐き出された声もまた、白く短く、すぐに夜に溶けた。

 優司は立ち上がり、進行方向をひと目で確認すると、先頭へ出る。


「……急ぐ」


 短く、それだけを置いて歩幅を伸ばした。


 その背中を追いながら、マリアは周囲から視線を外さない。

 手袋越しに握った端末は、画面を消したまま、すぐに起動できる位置に固定されている。


 足跡の列から、一定の間隔で外れる自分の足跡。

 マリアはそこから、横合いからの挟み込みに備える“余白”だけを残していた。


 クレールは、その少し後ろで端末の光を最低限まで落とす。

 外気センサーの数値と、風向きの変化だけを追い、画面から顔を上げるたびに、足跡の散り方と重ね合わせていた。


「風向き、西から北寄りに回ってる。

 匂いは……まだ、追いつかれてない」


 言葉は短い。

 だが、その一行で、誰もが足の速さをほんのわずかだけ上げた。


 森の奥で、枝がひとつ揺れた。

 風の向きとは違う、横滑りするような揺れ方だった。


 レオの足が、わずかに速くなる。

 息を吸う音が一段高くなり、それでも振り返った顔には、“まだ間に合う”と自分に言い聞かせるみたいな光だけが宿っていた。


「……ミナ!」


 呼ぶ声が夜気を裂き、木々のあいだを抜けていく。

 返事はない。代わりに、雪の反響がその名を押し戻してきた。


 森を抜けた瞬間、空気の“密度”が変わった。

 同じ冷気のはずなのに、肌に当たる重さが違う。


 そこだけ、風が動いていない。


 レオが立ち止まりかけたときには、もう気づいていた。

 前方の白い面に残る乱れが、“ただの通り道”ではない形をしていることに。


「……優司!」


 呼びかけと同時に、優司の腕が横へ伸びた。

 掌ひとつ分だけ前へ出て、全員の胸元をまとめて制する。


「止まれ」


 声は低く、静かだった。

 だが、その一言で全員の靴裏が雪を噛む音が揃う。


 雪の上に──足跡が四方へ広がっていた。

 ミナの小さな歩幅とは違う、粗い間隔と深い沈みをもつ跡が、円を描くように散っている。


 大きさも形も揃っていない。

 それぞれが違う脚の癖を持った者たちの足跡が、“待ち伏せ”の形に落ち着いていた。


 その中心に、ミナがいた。


 肩で息をしながら、胸の前で両手をぎゅっと握り込んでいる。

 白い息が途切れ途切れに上がり、指の関節には、雪を掴んだ跡が薄くこびりついていた。


 その周囲を、影が取り囲んでいた。


 灰色の皮膚。

 石を削り出した槍。

 目だけが、夜の光を集めたように獣じみて光っている。


 マリアが、息を一拍だけ止めてから低く呟いた。


「……他部族」


 クレールが、音を立てないように一歩だけ横にずれる。

 レオの背中に自分の影を重ねる位置を取りながら、視線だけで足場と数を数えた。


「レオ……声を荒げないで。

 空気が割れる」


 カリームの拳が握られる。

 前に出ようとした足が、優司の腕で押さえ込まれたまま、雪の上で重心を移した。


 そのとき、輪の中の影のひとつが、喉を裂くような声をあげた。


「■■■■■■──!!」


 ただ、その響きが“刃”を帯びてこちらへ投げつけられたことだけは、誰の皮膚にも同じ冷たさで伝わった。


 ミナを──差し出せ、と。


 空気の中で、“要求”だけがはっきりとかたちになった。


 ミナの肩が、小さく震えた。


 景色が変わったわけではない。

 けれど、足跡が四方へ伸び、風が止まっているその中心に、彼女ひとりだけが置かれているのだと、視界が勝手に理解してしまう。




 肩が上下し、吐く息が白く途切れていた。

 灰色の影の間で、槍先がわずかに揺れ続けている。


 ミナが、こちらを見た。


 光苔の届かない薄闇のなかで、その瞳だけがはっきりしていた。

 いままでこの洞窟で何度も見てきた“怯えた目”でも、“甘えるときの目”でもない。


 どこかで、何かが決定的に戻らない目だった。


 耳の奥が、薄く痛んだ気がした。

 ひと歩き分の距離が、こちらとあちらを真っ二つに分けている。


 一歩、こっちへ踏み出せば戻れる。

 一歩、あちらへ踏み出せば終わる。


 指が、かすかに震えた。

 組んだ両手の関節が白くなり、爪が掌に食い込み始める。

 そこで、ほんの一瞬だけ──息が止まった。


 視線が、こちらへ戻る手前で、わずかに“彼ら”のほうへ傾く。

 輪の向こう側、同じ灰色の皮膚と同じ言葉を持つ人々のほうへ。


 雪を踏む音ひとつ挟まずに、ミナは息を吸った。


 灰色の輪の内側、その細い身体だけが、優司たちのほうへ向いている。背中には、族長たちの視線がまっすぐ刺さっていた。


 向けた顔は、優司たちのほうへ。そのまま、“こちらの言葉”で口を開く。


「……あの夜……空から火が落ちた……

 わたしの家を焼いた光は……“外から来た鉄”と、同じ色をしてた……」


 喉の奥がひび割れそうなほど震えている。

 それでも、吐き出す空気だけは、刃の形をしていた。


「……わたしの家族を……奪ったのは……

 あの空の火と……あの鉄の殻と……

 そこから降りてきた……“あなたたち”だ……」


 喉の奥が、重く沈んでいた。


 目を伏せたまま、その瞬間、自分の心が“どちらの世界にも属せない場所”に立っているのが分かった。


「……だったら……」


 喉の奥で、危うい言葉が形になりかけた。

 胸に刺さった怒りが、熱ではなく “刃” になって揺れていた。


 爪が掌に食い込み、

 氷の底へ沈んでいくような感覚が走った。


 レオの顔を見てしまえば、揺らぐ。

 カリームの腕を見てしまえば、戻ってしまう。

 優司の沈黙を聞けば、選べなくなる。


 だから──ミナは目を背けた。


 雪の上で、影たちの呼吸が揃う。

 レオたちはひとことも理解できない。

 ただ、“告発”の刃だけが、空気を通して胸に刺さる。


 ミナの肩が震えたまま、声が続く。


 逃げ場がなかった。

 レオの足が、雪の上でわずかに乱れる。前に出かけた膝を、クレールの指先と優司の腕が同時に止めた。


 カリームの肩が、ほんの一度だけ上下する。

 マリアの指が端末の縁で止まり、視線だけがミナを射抜いた。


 クレールの喉が、ごくりと鳴った。

 耳に入るのは、自分たちの言葉。そこに乗った温度が、“責めている”以外の何物でもないことは、誰の胸にも同じ角度で刺さった。


 ミナは、目を伏せたまま続ける。

 声の高さを変えないまま、胸のどこかだけを削り取るように。


「……家族を……守れなかった……」


 吐き出す息の重さが、ひとつひとつ雪面に落ちていくようだった。


 爪が掌の皮膚を破り、鈍い痛みが走る。

 氷の底へ沈むような感覚が膝から上へ昇っていった。


 視線が、こちらへ向きかけて、止まる。


 だから、ミナは一度だけ目を背けた。

 まだ折り直せるかもしれない糸を、自分の手で引きちぎるように。


「……あの人たちのせいで……

 わたしは全部、失った……

 家も……名前も……“ここにいていい”って言ってくれる人も……」


 自分で選んだ刃が、自分の胸も同じように切っていく。

 レオたちの胸に刺さる痛みと、ほとんど区別がつかなかった。


 ミナの肩がわずかに揺れたまま、なおも声を押し出す。

 まぶたの下で、視線だけが揺れた。


 血でつながった家族でもない。

 ただ、暖かい毛布を置いて

 何も言わずに、そこにいた。

 それだけの──人たち。


 その光景が、一瞬だけ、空から降った熱と重なりかける。


「……でも……違う……

 “あなたたちだけ”じゃない……」


 胸の奥で、“いま言えば二度と戻れない”という気配だけが揺れる。

 喉がその言葉を押し返そうと震え、声が一度潰れた。


 それでも、ミナは続けた。


「……わたしも……逃げた……

 助けられなかった……

 怖くて……何もできなかった……」


 冬籠りのあいだに覚えた文法で、自分自身を裁いていく。

 言葉が増えたぶんだけ、責められる場所も増えていた。


 ミナは顔を上げた。

 今度は、はっきりとレオたちを見据える。


 たどたどしかった頃の声ではなく、

 この冬で身につけた“今の自分の言葉”で。


「……でも……だからって……」


 言葉が、ひと拍だけ途切れる。

 風がその隙間を通り抜け、ミナの髪を揺らした。


「もう、これ以上……

 “今の家族”まで……奪わせない……」


 背が、風の中でわずかに揺れた。

 その声は、雪よりも冷たく落ちた。

 その冷たさが、かえって決意の温度を隠しきれていなかった。


 レオが息を呑む。

 マリアの指が止まる。

 クレールの視線が揺れた。


 “さっきまで”届いていなかった言葉が、

 いまははっきりと、自分たちに向けて撃たれている。


 その沈黙が、逆に場の温度をわずかに揺らした。


 ミナは、族長の方へ向きを変える。

 族長たちへ顔を見せたまま、“あちらの言葉”で息を吸った。


「■■…… ■■■■■■…… ■■=■■=■■……」


 低く、掠れた、その一息。

 けれど、その声の震えだけで、灰色の輪にいた者たちには十分だった。


 “この子は、こちら側に立っているのか”

 “それとも、あちらを庇っているのか”


 答えの見えない一文が、雪の上に落ちる。


 ミナは、もう一度息を吸う。

 族長のほうへ、足をひとつだけ進める。


 胸の前で両手を重ね、深く頭を垂れた。


 そのとき──


 聞き慣れない音が、白い息に混ざった。


 族長の喉から、短く押し殺したような声がこぼれた。


 それは言葉というより、堪えきれず漏れた息に近かった。

 けれど、その一息だけで十分だった。


 守ろうとしている。

 自分の足で。


 この子を奪おうとする“この人たち”ではなく──

 この子が選んだ“今の家族”を。


 空気が変わった。

 灰色の影たちの呼吸が止まる。


 族長の瞼がわずかに動いた。


 輪の内側で、何かの天秤がきしむような沈黙が落ちる。


 その瞬間だった。


 族長の隣にいた男が、雪を踏み砕くように一歩前に出た。

 息子だと分かるのに、言葉はいらなかった。


 その目には、奪われ続けた季節の恐怖が、怒りに裏返って滲んでいた。


 喉の奥から、裂けるような音が迸る。


「■■■■■■──ッ!!」


 ただ、その叫びが“裁き”を意味することだけは、槍の跳ねる音で誰もが理解した。


 族長の肩がわずかに揺れた。

 杖の先が雪を叩き、息子の腕を“押し下げる”ように伸びた。

 だが、その動きが届くよりも早く──


 槍の石刃が、輪の影の中から“横薙ぎ”に跳ね上がった。

 ミナの視界の端で、冷たい線が空気を裂く。

 その軌道へ、優司の影が“雪を裂く速さ”で割り込んだ。

 雪が一枚めくれるような足音が、耳より先に胸を打った。

 次いで、布の裂ける乾いた音だけが夜に残った。


 優司が、ミナの名を呼んだ。

 掠れたその一音が、白い夜気にほどけるより早く──


 レオの足が雪を裂く。叫びが喉で爆ぜ、音になる寸前で凍った空気に押し潰される。

 カリームは反射で前に出る。肩を張り、盾になる姿勢のまま、優司の腕に止められて踏みとどまった。

 クレールの指が端末を払うように動き、視線だけで「退路を開けて」と告げる。

 マリアは数と配置を瞬時に読み、わずかに顎を引いて“右後方”の危険を示した。


 その全部より速く──優司の身体が、前へ出た。


 レオの喉がひらく。

 名前の最初の音が震えたのに、

 声になる前に、凍りついた空気がそれを奪った。


 ミナは目を見開いた。

 それでも、一歩も退かなかった。


 族長の影がわずかに揺れた瞬間だった。


 カリームの足が、半歩だけ前へ出る。

 踏みしめた雪が、乾いた音をひとつ吐いた。


 ミナの肩が震え、息が止まる。

 選びかけた“どちらか”が、揺れ戻った。


 族長の瞼がわずかに震えた。

 ためらいとも、拒絶とも言い切れないその動きが、白い空気にうっすらと残った。


 その揺れには、かつて奪われた記憶の影が、わずかに差していた。


 優司の気配だけが、沈黙の底で変わった。

 雪の軋む音よりも小さく、

 熱石の装置の息よりも──

 “前に出る準備”だけが、確かにそこにあった。


 そして、息を飲む間もなく。


 槍が──


 ──届く、と思った。


 鈍い音はしなかった。


 刃は脇腹の後ろへ滑り込んだ。

 貫いたというより、“押し割って”潜り込む。

 骨に当たる前の、湿った抵抗だけが確かにあった。


 刃は欠けていて、布に押し返された。軌道だけが、わずかに逸れた。


 空気が、一瞬だけ止まった。


 血がついた布が、揺れる。

 最初は、ただ生地が湿っていくだけに見えた。


 けれど、すぐに違うと分かった。


 熱い。

 けれど、それは熱石や装置の温度ではない。


 背中の奥から、じわじわと染み出してくる温度だった。


 喉の奥で、短い息が潰れる。


 優司の身体が、ほんの少しだけ前のめりになった。

 それでも、すぐには倒れない。


 踏み出した足が、わずかに迷った。


「ミナの村を……」


 掠れた声が、雪の上でほどけた。


「“奪った”のは……俺たちだ……」


 地面に、赤い滴が落ちる。

 雪ではなく、硬い地表を濡らしていく音だった。


「……事故でも……関係ない……

 結果は全部……こっち側に……乗ってる……」


 わずかに体が揺れ、呼吸が乱れる。

 それでも、背中だけはミナの前から退かなかった。


「……だから……守る……」


 言葉の合間合間に、血の泡のような息が混ざる。


「ミナを……俺たちの手で……」


 族長が一歩だけ近づいた。

 雪面に杖の先が沈み、短く軋んだ。


 優司は顔を上げる。

 灰色の瞳と視線がぶつかっても、怯えも怒りも浮かばない。


 胸が浅く波打つ。

 喉の奥で小さな音が立ち、それでも言葉は途切れなかった。


「……奪ったぶん……返す……

 全部……返す……」


 指先が震える。

 それでも、その震えのまま、手が前へ伸びた。


「……だから……ミナを……傷つけるな……」


 雪に滲む血の上で、その一言だけがはっきりしていた。


 優司の視線が、ミナへ戻った。

 その一瞬だけで、守る理由がすべて伝わった。


「この子は……俺が……守る……」


 ──その声に、場の空気がわずかに揺れた。


 族長は何も言わない。

 ただ、息だけが荒く沈む。


 息子が“殺せ”と叫んだその場で、

 その肩を押しとどめた手だけが、答えになっていた。


 沈黙の中、優司の膝が落ちる。

 雪に沈む音がやけに遠かった。


 その沈黙に、灰色の影たちも踏み出せずにいた。


 ミナは、その背に手を添えた。


 触れた指先が、細かく震える。

 声をかけたら崩れてしまいそうで、呼びかけの手前で喉が固まった。


 優司の背は、小さく上下している。

 けれど、その呼吸は浅く、速く、頼りなかった。


 生きている──

 そう思った瞬間、胸の奥に別の感覚がこみ上げる。


 この手のひらの下で、少しずつ“向こう側”へ引かれていく。

 そんな予感が、身体の奥を締めつけた。


 ──ぽたり。


 足元に、赤黒いものが落ちた。

 乾いた地表を濡らしていく血の音だった。


 まるで、夜の残響が地表に落ちてきたかのように、音もなく染みていく。


 ミナは、別の夜を思い出した。


 寒かった夜。

 声もなく、名前もなく、居場所もなかった頃。


 洞窟の奥で、壁際の光が揺れていた。

 熱石の装置から溢れる橙の光が、岩肌をゆらゆら撫でていた。


 自分はその光の端に、身体を小さく丸めて座っていた。

 誰とも目を合わせられず、肩をすぼめ、震えが止まらなかった。


 そのとき──男がひとつの毛布を置いた。


 言葉はなかった。

 視線すら交わさなかった。


 ただ、光のいちばん近くに、厚い布がひとつ置かれた。

 それだけで、まるで“ここにいてもいい”と言われたような気がした。


 あの夜、彼はただ黙っていた。

 名前も訊かず、過去も問わず、何ひとつ引き出そうとしなかった。


 それでも、そこにいた。

 橙色の光と、機械の低い唸りのそばで、少し離れた場所に座っていた。


 光の反射が頬をかすめ、金属片の影が床に長く伸びていた。

 その中で、ミナは毛布にくるまりながら、声もなく泣きながら眠った。


 目を覚ましたとき、光は弱くなっていた。

 熱は少しだけ残っていて、冷たさと混ざり合っていた。


 それでも、彼はまだそこにいた。


 名前はなくても、言葉はなくても──

 “ここにいていい”という居場所だけは、その沈黙の中にあった。


 現実に引き戻され、ミナは顔を上げる。


 彼の背に当てた掌から、血が伝っていた。

 最初は温かかったそれが、今は少しずつ冷たくなり始めている。


 息を整えようとして、肺がきしむ。

 声にしようとした何かが、喉の奥でつかえて出てこない。


「……言えなかったの……」


 掠れた声が、風に紛れて消えていく。


「 ありがとうって……言いたかったのに……」


 装置の光を見ていたときも。

 食事を受け取ったときも。

 毛布にくるまって眠った夜も。


 ずっと胸の中で、言葉にならない思いが燻っていた。


 でも、声にすると壊れてしまいそうで、どうしても言えなかった。


「……だって、わたしには……」


 言葉が途切れる。

 吐く息だけが白く伸びる。


 それでも、吐き出さなければならなかった。


「……“家族”って呼べる人なんて……もう、いなかったから」


 やっと出た言葉が、それだった。


 光のそばにいた彼が、ミナにとってすべてだった。

 名前を知らなくても、言葉を交わさなくても。


 何ひとつ返されなくても──あの夜の毛布は、世界だった。


 そして今、その世界が、ミナの手のひらで失われかけている。


 目を閉じると、涙がこぼれた。

 頬を伝い、指に落ちる雫が、彼の血と混じって消えていくように思えた。


 もしも願いが届くなら。

 もしも言葉が遅すぎなければ。


 この血が冷える前に、たった一言でいいから。


 わたしの「ありがとう」を、受け取ってほしい。


 そのときだった。


 重力に引かれながら──それでも、動いた。


 その背中に預けていた重みが、ずる、と傾いた。

 倒れる。そう思って、ミナは慌てて手を伸ばす。


 だが──違った。


 彼の手が、動いていた。


 震えながら。

 重さに抗うように。


 まるで、生きること自体が重力との戦いであるかのように。


 その手が、ミナの頭に触れた。


 血に濡れ、もうほとんど温もりの残っていない掌。

 だけど、そこには確かさだけがあった。


 力はない。

 言葉もない。

 目を合わせることすらできない。


 それでも──その手は、この世のすべての返答だった。


 肯定でも、慰めでもない。

 ただ「わかっている」と告げる、最後の証。


 ミナの「ありがとう」は、届いていた。


 喉から、声にならない嗚咽が漏れる。

 もう何も伝えられない。

 けれど、伝わっていた──それだけが、救いだった。


 やがて、その手が落ちる。

 重力に引かれるように。言葉も熱も残さずに。


 ミナは、その手を両手で包んだ。

 握りしめる力は残っていなかった。


 それでも、決して離さなかった。


 ミナは血に濡れた手を胸に押し当てたまま、しばらく動けなかった。




 ──どれほどの時が過ぎただろう。


 血の匂いも、あの夜の震えも、いつしか遠くなっていた。

 仲間の手で繕われた布が乾き、またほつれては縫い直される頃には、洞窟の奥に再び作業の音が戻っていた。


 雪は何度か降り、溶けていった。

 谷の縁には、丸太を組んだ家がひとつ、当たり前の顔で腰を下ろしている。


 壁はまだ新しい木の色をしていて、雨風に慣れていない。

 それでも、基礎に埋められた石と金属の足場は、重たい荷重を受け止めていた。


 煙突代わりの通気塔から、白い息が上がっていく。

 熱石装置から上がった温度が、筒を通って外気と混ざり合い、空気の境目を曖昧にしていた。


 その家の中には、吊床がいくつも並び、

 洞窟から運び込まれた装置と、ここで削られた木と金属が、ひとつの“暮らし”の形を作っている。


 その光景を、誰かが特別視することはもうなかった。

 ここで目を覚まし、ここで息を整え、ここから外へ出ていく。


 それが、彼らの日常になっていた。


 ある日、音が変わった。


 工具の触れる音でも、吊床の軋む音でもない。

 もっと低く、硬いものが地面を押し込むような振動が、谷全体にじわりと広がった。


 洞窟の奥で、誰かが手を止める。

 視線が交わり、言葉の前に、呼吸のリズムだけが揃った。


 合図はない。

 それでも、皆は同じタイミングで立ち上がる。


 墜ちた機体は、丸太の家と同じ“暮らしの形”を纏っていた。

 動くための足も、固定具も、全部この冬につくられたものだ。


 動かさなければ進めないと、誰もが知っていた。


 固定具が外れ、機体の底がかすかに浮いた。

 そのわずかな浮き沈みが、谷に静かな揺れをつくった。


 乾いた地表を、車輪が踏みしめていく。

 音は決して大きくない。

 それでも、その一歩ごとに、谷の空気が少しずつ動いた。


 行き先は、どこか遠い空ではない。

 この星の上で、少し先の場所まで。


 雪どけの地面には、まだところどころ白が残っている。

 タイヤの跡が、その上を切り取り、新しい線を描いていく。


 ロケットの前方、補助推進の制御パネルのそばに、ひとりの男がいた。


 左側の脇腹には、まだ薄い補助ベルトが巻かれている。

 歩幅は少しだけ不均一で、時折、息を押し殺すように立ち止まりかける。


 それでも、彼は姿勢を崩さない。

 ロケットの進む方向を確かめるように、ただ前だけを見ていた。


 振り返らない。

 けれど、知っている背中だった。


 ミナは、少し離れた位置からその背中を見ていた。


 谷の端に立ち、丸太の家とロケットと空を、いちどきに視界に入れながら。

 掌の中には、もう血の温度は残っていない。


 それでも、あのとき頭に触れた重みだけは、今も確かにあった。


 ロケットの速度が、ごくわずかに上がる。

 ほんの数十センチ。それだけなのに、谷の空気がわずかに震えた。


 機体が新しい地面へ踏み出すたび、金属と土の擦れる音が低く続く。


 彼は振り返らない。

 ただ、いつものように、無言で片手を掲げた。


 別れの仕草ではない。

 そこにいる全員に、“次へ進む”合図を送るだけの、癖のような動き。


 乾いた風が、頬を撫でていった。


 ミナはふと、空を仰ぐ。

 ロケットの向かう少し先と、そのさらに向こうを。


 雲は低く、色は薄い。

 それでも、その隙間からのぞく青は、どこか前より深く見えた。



「……空、きれいだね」


 風に乗って、白い息と一緒にほどけていった。

 この惑星の全貌は、まだ知られていない。


 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

 この物語は、いったんここで手を離します。


 もし「続きを見てみたい」と感じていただけたなら、

 星をひとつ、そっと置いていただけるとうれしいです。

 その小さな光が、また次の頁をひらく力になるかもしれません。


【整備ログ No.end】

 記録データの一部は、損傷により読めなくなっている。血液の付着に似たノイズと、衝撃で走った亀裂が、画面の上をざらつかせていた。その中で、ひとつの行だけが、はっきりと残っている。

 ──奪ったぶんを、いつか返せるように。歪んだ筆跡で刻まれたその文の先には、まだ何も書かれていない余白だけが、開いたまま残されていた。航路は、これから記される。──ブックマーク……推奨。

 表示の隅には、小さな“星”のマークがひとつ。

 五つの光をすべて満たしたまま、瞬いている。


 その光に触れたかどうかを知っているのは、

 たぶん、あなただけだ。

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― 新着の感想 ―
完走お疲れさまでした! 10話で受けた衝撃のまま、最後まで完走できました。
はちねろさん! 本当にお疲れ様でした!! ゆっくりと読ませていただきます。
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