第6話 静寂の中の違和
名前はある。けれど、思い出せない。
夜の空気が、窓のない施設の奥まで静かに染み込んでいた。
月明かりの届かぬ構内では、天井の間接灯がわずかに灯り、影と壁の境界を曖昧にしていた。
その時間帯、人工呼吸器の循環音さえも遠ざかり、建物そのものが眠りについたような沈黙が支配していた。
ユニットC-4のメンテナンスルームには、ひとつだけ灯りが残っていた。
淡い光の下で、優司が無言のまま工具の手入れを続けている。
整備用ドローンの分解パーツを布の上に並べ、表面の汚れを拭い、動作試験のために組み直していく。
それは仕事ではない。ただ、“やるべきこと”として体に染みついているだけだ。
──呼吸装置、明日の同期確認は早めに回しておこう。
静けさに包まれた空間。だが、何かが薄く足りない。
夜の深さが増すほどに、耳が研ぎ澄まされていく。
その時だった。
「……カシャン」
遠くで金属音がひとつ、空気の膜を破るように鳴った。
扉が閉まる、あるいは何かが戻った──そんな音。
優司の手が止まる。
だが顔を上げない。ただ、耳と気配だけが音の“向こう”を探っていた。
廊下に誰の足音もない。センサーの明滅も聞こえない。
それでも、確かに何かが“場に加わった”と感じる。
ほんのわずか、空気の密度が変わっていた。
優司は工具を戻し、扉を開ける。
廊下の照明は自動点灯式。
足音に反応して、天井の光が一灯ずつ順に灯っていく。
ただ一つ──突き当たりの灯だけが、すでに明滅を繰り返していた。
優司は足を止める。
静かだった。
空調の風も止まりかけ、通気のざわめきすら薄れていた。
動きはない。
足音も、衣擦も、機械の音すら……何一つ聞こえない。
それでも、その灯りだけが──他より少し早く、点き、消えていた。
優司は視線を左右に滑らせる。
天井、壁、床。
センサーの配置、視界の端に残る反応光……どこにも“人の通過”を示すものはなかった。
だが、何かが通った。
空気の質が変わっていた。
目には見えないが、重さだけがそこに残っている。
優司は踵を返す。
わずかに冷たい風が、背後から頬を撫でた。
ユニットC-4に戻る。
ドアが開いた瞬間、先ほどの冷気が、そこにも漂っていた。
6つのベッドが並ぶ室内。
そのひとつ──誰の割り当てもなく、タオルや資料が積まれていた“共用ベッド”が、今夜はなぜかカーテンを閉じていた。
その布地の向こうに、確かな“区切り”がある。
誰も使わないはずのスペースが、誰かの領域に変わっていた。
優司は靴を脱ぎ、無言でベッドに腰を下ろす。
照明が落ち、感知灯の光が遠のいていく。
部屋は静かだった。誰の寝息も、機械の作動音もない。
ただ、そこに在る。
この部屋には、もう一人いる。
──
朝の始まりは、いつも同じように訪れる。
ユニットC-4では、壁面パネルに設けられた照明が午前六時を迎えると、ゆっくりと明るさを増していく。
天井のラインが淡く浮かび、床のラインセンサーが“活動開始”を促すように緑の光を点滅させた。
ベッドのいくつかがわずかに軋み、誰かの寝返り音が静かに空気を揺らす。
そのときだった。
優司の視線が、一点で止まった。
昨日まで“誰も使っていなかった”はずのベッド。
そのカーテンが、今朝はわずかに開いている。
その奥──誰かが、静かに座っていた。
無言で、まるで何時間も前からそこにいたかのように。
視線の端に、その女の輪郭がゆっくりと浮かび上がっていた。
誰かが見たわけではない。だが、そこに“いる”という感覚だけが、空気より先に伝わってくる。
膝を揃えて座る姿勢は、乱れがなく、ただ“整っていた”。
濃紺のジャケットが、胸の曲線を押し返すように張り詰めていた。
窮屈そうで、それでいて、余裕すらなく、布が身体の形を忠実に沿っていた。
……目を向けたつもりはなかった。
だが、視界が勝手にそこを撫でていた。
柔らかさを隠しているのではない。
隠さずとも、すでに視線を許していない──そんな完成されていた双高山だった。
タイトスカートは短すぎず、ただ脚の交差に応じて自然に形を変えていく。
流れるように伸びた脚線。膝の角度。足先の収まり。
すべてが、“意識されているのに、演じられていない”。
背筋の伸び方ひとつにしても、軍人のような緊張ではなく、舞台の上でしか見ない“正しさ”があった。
肌は、明るさに負けない淡い冷色。
それが服の輪郭からはみ出すたびに、光が濃くなったように錯覚する。
曲線と直線、肉と布──その境界線のすべてが“確信”でできている。
──それを、見たくて見る者はいない。だが、一度見れば目が離せない。
まつげの奥、紫がかった瞳がゆっくりと持ち上がった。
音はない。
ただ、誰よりも早く目を覚ました“この部屋の何か”が、静かに優司を見ていた。
ただ──目が、動いた。
黒に近い紫の瞳が、音もなく優司を捉える。
……いつからいた?
そう思ったときには、もう手遅れだった。
この“異物”は、既に空間に“馴染んで”いる。
その後、全員が食堂スペースに集まったのは予定通りの時刻だった。
今日の訓練内容は未通知。AIが“課題変化型訓練”を示していたため、皆の表情にはやや緊張が漂う。
教官が現れるより先に、その“彼女”が先に口を開いた。
「おはようございます。マリア・ストヤノヴァです。本日より、皆さんと行動を共にします」
……事前の通達はなかった。
AIのスケジュールには「追加参加者」の記載もなく、ユニットC-4の入居ログにも彼女の名は存在しない。
にもかかわらず、誰一人として“驚き”を口にしなかった。
まるで彼女が、最初からここに“含まれていた”ように。
声は、丁寧で抑揚の少ない中音。
滑舌は明瞭で、発音に癖はない。だが、聞いた者は全員、何かが引っかかったような感覚を抱いた。
──あまりにも、自然すぎる。
名乗る時の“間”、立ち姿、目線、身振り……そのすべてが、マニュアルのように完璧だった。
「……今日から? 聞いてないけど?」
レオが不意に口を挟む。だが、悪意のある調子ではない。
単なる“反応”だった。無意識に出た言葉。
「上層部の判断です。急な決定だったと、私も聞いています」
そう返したのは、クレールだった。
彼女の口調は冷静そのもので、すでに“知っていた”ような印象を与える。
だが、それ以上は何も言わない。
「へえ。じゃあ……何担当?」
今度はカリームが腕を組み、鋭い視線を向ける。
だが、マリアは表情をまったく変えずに答えた。
「広域観測とリスク評価です。状況に応じて動きます」
“そう書かれた”ような返答。
だが、その一語一句に“内容”はほとんど含まれていない。
カリームが何かを言いかけたとき、レオが笑って肩をすくめた。
「まあ、なんか面白いヤツが来たってことで。よろしく、マリアさん」
「ええ。こちらこそ」
礼儀の中にある、どこか“温度を持たない丁寧さ”。
マリアの返答は、まるで言葉そのものを滑らせているような感触があった。
そのやり取りを、優司とエルナは一言も発さずに見ていた。
エルナの視線は、マリアの立ち姿から足元へと滑り落ち、再び顔に戻る。
──その体は、既にこの環境に“慣れている”。
筋肉のバランス。重心の置き方。足の運び方。
それらは、数週間の訓練を終えた者たちの“それ”と同じだった。
にもかかわらず、マリアは今、初めて立っているような顔で振る舞っている。
静かに──ほんの少しだけ、エルナの表情が揺れた。
その朝、訓練の予定は未定だった。
施設の通達は「課題変化型訓練」の一文だけ。詳細は、当日の参加者と環境因子によって決定される──そう記されていた。
食堂スペースでは、カリームが黙々とカロリーバーを齧り、レオが隣の席でカフェパックを振っている。クレールは中央端末に指を滑らせながら、無言のままAIの傾向を読んでいた。
その中で、マリアはごく自然に輪の中へと加わっていた。
振る舞いは丁寧、しかし過不足がない。
気取っていないのに、目線が向かう。
声を張らず、ただ存在しているだけで“場が寄っていく”。
──空間の中心が、僅かにズレていた。
「カリームさん、そちらは朝のルーティンですか?」
そう問いかけながら、マリアは空いた席に腰を下ろした。
背筋が伸び、膝が揃っている。それだけで、その場の緊張感がひとつ引き締まる。
「ああ? まあ、毎日これだよ」
カリームがやや警戒を含んだ声で返すと、マリアはゆっくりと頷いた。
「……なるほど。筋肉には、同じリズムが心地いいと聞きます」
そして、さらりと隣へと手を伸ばす。
肩に触れるか、触れないか。
その指先はほんの一瞬、カリームの二の腕に触れた。
ごつごつとした筋の上を、なぞるでもなく、ただ“確認”するように。
「……貴方、筋肉が優しいのね」
意味のない言葉。
しかし、意味深な声色。
カリームが一瞬動きを止めたのを見て、レオが吹き出した。
「おいおい、朝からなに口説かれてんだよ、カリーム」
「いや、違 ──ちょっと待て、なんだ今の」
レオの茶化しに、カリームは微妙な顔で座り直す。
マリアは笑わない。
ただ、何もなかったかのように手を引き、フォークを持ち直す。
──“冗談”のようで、“意味”がない。
だが、そこに“印象”だけが残る。
クレールの目が、わずかに動いた。
エルナはマリアの仕草を一瞥し、無言のまま視線を落とす。
その“観察”の中に、敵意や警戒はない。
ただ、解像度の高い“違和感”だけが存在していた。
各々が、動いた。
クレールはその場を離れ、階層上部にある訓練管制官の元へ向かった。
「C-4ユニット所属の追加メンバー、マリア・ストヤノヴァについて。詳細資料を拝見したいのですが」
応対に出た女性職員は、迷いなく答える。
「通達通りです。上層部からの直令で、C-4ユニットへの配属が決定されております」
クレールは諦めなかった。
さらに上の責任者と面会し、情報の提示を求める。だが返ってくるのは、形式ばった言葉の繰り返しだった。
「経歴や訓練歴については──機密です」
そう通告され、すべてが“開示対象外”であることを示された。
一方、レオは施設スタッフを片っ端から探し回っていた。
警備班、清掃員、売店の店員、果ては給食搬送のドローン整備員まで。軽口を交えながら「あの子、どっから来たの?」と尋ねる。
だが──全員が、同じ調子ではぐらかす。
「いましたよ、最初から」
「あなたの見落としじゃない?」
「訓練で忙しくて気づかなかったのでは?」
口ぶりは柔らかいが、内容はすべて統一されている。
言葉の裏に、「それ以上踏み込むな」という無言の合図すら感じられた。
「……ここまでか」
レオは苦笑しながら、肩をすくめた。
エルナは、黙って個人端末を開いていた。
公式ログ、ユニット管理記録、扉の開閉履歴、果ては清掃ロボットの行動データまで。
──「最初から、いたことになっている」
そう書かれていた。
だが、具体的なログは異常なほど少ない。
タイムスタンプは合っている。だが、情報密度がない。
誰かが意図的に“綺麗に消した”ような跡。
その時、視界の隅に入った人影に、エルナは端末を閉じた。
カリームは口には出さなかった。
だが、その目は誰よりも鋭くマリアの動作を“読んで”いた。
姿勢、呼吸、視線の動き。動作の一つ一つが“訓練済み”のそれであり、素人ではないことは明白だった。
──だからこそ、誰もが感じ始める。
この施設の誰もが、あの女の「来歴」に触れようとしない。
その名は確かに登録されているが、経歴も推薦元も記されていない。
だが、システム上は「正規の隊員」として扱われ、すでにユニットC-4に組み込まれている。
──逆らえない存在だ。
各自調べた情報は、小声の中合わせた、その“事実”は、その後口にされることなく、自然に輪の中に染み込んでいった。
だが、優司は違った。
静かに足音が近づく。
マリアが振り向いたときには、彼はすでにすぐ側にいた。
言葉もなく、問いかけもなく。
ただ、視線だけが真っすぐに、彼女の瞳を射抜いていた。
だがその奥にあるものは、何も映していないかのように虚ろで、同時にすべてを見透かすような鋭さを帯びていた。
「どうぞ、何か?」
「少しいいか?」その声音は静かで、距離を測るようでも、許すようでもあった。
静かに無言でユニットC-4の入居に到着する。
皆が見ている前で、静かに、金属の小箱を机に置いた。
手のひらほどのサイズ。艶消しの灰色ボディに、コードが一本だけ。
「……これ、なんだ?」
カリームが首を傾げた。
優司はコードを差し込み、端末に接続する。
画面に、静かな映像が再生された。
──今朝、5時43分。
中央ホールの天井裏。換気ダクトの影に、小さな“目”が潜んでいた。
映像には、ドアのロックが“手動”で解除される様子と、マリア・ストヤノヴァが無音で侵入してくる一瞬が、くっきりと記録されていた。
その“目”は、優司が数日前に整備の余りパーツで作った簡易モニター。
元は、通気の流れと熱源検知をテストするための装置だった。
だが今、それが唯一の“真実”を記録していた。
「……これ、お前が?」
レオの声がかすれた。
「整備士の端くれが、手慰みに作った機械だ。 だが、誰の命令も管理も受けず、黙って真実を記録していたのは──こいつだけだった。」
優司の声はいつもと同じ、淡々と低い。
だが、その背中からは、確かな緊張と熱が滲んでいた。
クレールは言葉を飲み込む。エルナは無言のまま映像を凝視し、カリームはゆっくりと拳を握った。
そして──マリアは微笑んだ。
「……本当に、あなたって人は」
彼女はため息混じりに前へ出た。
「では、少しだけ、答えましょうか」
優司は渋い表情をしながら
「……あのとき、なんか引っかかった。空気の流れか、温度か、匂いか……とにかく、機械が嘘ついてる気がしてな」
「だから仕掛けた。整備士の手ってのは、時々“答え”より先に動くもんなんだ」
静かに一歩、空間の中心に立つ。
「──なるほどね。それで私の“嘘”を暴いたのですね。
でも、それなら──私も少し、敬意を払わなくては」
「私は、“アストラリア・ユニット適性育成課程”出身。
地球圏連合が十数年前に始めた非公開プロジェクト。
──要は、宇宙環境適応型の“子供兵育成計画”です」
沈黙が、室内を包む。
マリアは淡々と続けた。
「計画は既に凍結済み。だから私は、存在しないことになっています。
でも、処理される前に一部の成果だけが、ここに回された──そういうことです」
「……それを今、ここで話す理由は?」
優司が問うた。
マリアは肩を竦めた。
「あなたが、“知る権利を得た”から」
彼女の目は、笑っていなかった。
──そして、言葉を締めくくるように、こう付け加えた。
「ここまでの情報開示は、あなたが初めてです。ね? 優秀な整備士さん」
全員が、沈黙した。
だがその沈黙は、もはや“疑念”のためのものではなかった。
数秒後、アナウンスが鳴る。
『第六課程訓練、開始。C-4ユニット、集合せよ』
優司が最後に一つ、マリアへだけ聞こえる声で呟いた。
「……だったら、せめて今は、仲間でいろ」
マリアは一瞬だけ目を細めた。
全員が立ち上がる。
誰一人、もうマリアを“異物”として扱わなかった。
──こうして、“6人目”が加わったチームの、本当の試練が始まった。
ただの整備士が拾ったのは、きっと誰かが捨てたままにした“真実”だった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.006】
記録にない存在を検知。
視認は不可、ただし“違和”として残留。
引き続き監視を行うため、“ブックマーク”による追跡記録を推奨。