第5話 任務:焼きそばパン
訓練は、ただの鍛錬じゃない。
心の奥を映し出す鏡みたいなものだ。
鋼鉄の床が、重く軋んだ。
歩を進めるたび、脛に響くのは、自身の質量。
訓練用の人工重力室──重力2.3倍、酸素濃度72%、空間には模擬生体刺激装置が散布され、突発的に“敵性反応”が出現するように設定されていた。
「環境変化ステージ3、実行中。次のモジュールまで、残り6分」
天井から響くAIの音声は冷徹で、無慈悲だ。
だがその音に誰も動じない。4人の若者は、それぞれの持ち場で黙々と作業を続けていた。
──異常を、異常と思わなくなるまでに。
それが“環境適応訓練”の目的だった。
クレールは、重力によって鈍った関節を抑えるようにしながら、端末の再起動手順を淡々と指示していく。
「次、レオ。模擬コクピットAの反応、0.2秒遅延。主電源でなく、中継基板のヒューズ切れね。目視で確認して」
「了解。中継基板、目視確認する」
声は静かだったが、その指先に迷いはなかった。
彼は単独訓練では最も評価が低かったが、ペア任務になると化ける。相手の性格を読み、タイミングを合わせ、迷いを減らす。
たとえばクレールのような合理的な指揮者には、最高の潤滑油だった。
エルナはその隣、医療支援モジュールに設けられた補助卓に静かに座っていた。
小型スキャナとAI同期モニタ──
彼女は、誰にも干渉せず、ただ黙々と
**“異常の兆し”**を記録していた。
訓練生たちのバイタルデータは、すでに彼女の手の内にある。
だが彼女の視線は、数値ではなく、“動き”そのものを観察していた。
誰が、いつ、どこで、わずかに“無駄な動作”をしたか──そういった、人間そのものの誤差を、彼女は拾い上げていた。
「……レオ、右足の接地。3.2秒ごとにリズムが崩れているわ」
誰に向けるでもなく、ただ空気に言葉を落とす。
それが、彼女なりの“関与”の仕方だった。
一方、組み手用のAIロボが一歩踏み出した瞬間、
カリームの身体が、獣のように沈んだ。
先に動いたのはロボだ。模範的な連撃。
だが、その全てが届く前に、腕が絡み、肘が入り、膝が沈む。
手加減なしの訓練用AIが一時停止した。
次の再起動まで、5秒以上を要した。
ただ力任せではない。
動きは荒いが、隙を見逃さない。
一撃の重さではなく、“喰らい付き方”で制圧していた。
設計者の意図を超えた“対応不能”という判断に、
訓練室が一瞬だけ静まった。
そして──その最奥。
通気口の近く、誰もいない制御卓で、一人の男が端末を覗き込んでいた。
藤崎優司。訓練班には記録されないはずの“監視データ”に、彼はわずかな異変を見つけていた。
──冷却ユニットの圧力値。
想定誤差0.3%のズレ。放置すれば、モジュール全体に熱暴走のリスクがある。
「……」
誰にも何も言わず、優司は腰のツールポーチから、簡易冷却用の手動パーツを取り出した。
訓練モジュールの設計図は、既に頭に入っている。
彼が手を加えたことに、誰も気づかない。
訓練終了後、モジュール内の空気は妙に落ち着いていた。
排熱も整流も──どこか滑らかで、過不足がない。
数値で見れば、ごくわずかな安定の上昇。
想定範囲内の誤差。だが、そこに“引っかかり”がまったくなかった。
音はない。名もない。
金風がふわりと、空間に残っていた。
室内の空気が、ゆっくりと薄くなる。
酸素濃度は18%、17%、16%……警告音が鳴らない範囲でじわじわと絞られていく設定だ。
宇宙では何があるか分からない。酸素供給装置が故障すれば、思考も、筋肉も、静かに沈む。
──それに対応できるかどうか。生き残る力は、知識ではなく“癖”に染み込ませる必要がある。
ペア訓練。部屋には5人、それぞれ2人ずつのグループに分かれ、最後の1人──優司は補佐にまわっていた。
最初に息が乱れたのは、レオだった。
「っはー……はぁ……いやマジでさ、俺の肺、地球製なんだけど?」
隣のクレールが何も言わず、器具のメーターを確認しながら、1ミリも動じていないのを見て、肩を落とす。
「ねぇ、聞いてた? クレール? もしかして耳まで宇宙対応? それとも俺、空気になった?」
「黙って」
「うん……はい」
そのやり取りを、カリームが鼻で笑った。が、自分も足取りはやや不安定だ。
エルナは終始沈黙しつつ、冷静に彼の酸素マスクの調整を続ける。まるで“実験対象”でも扱うかのような手際だった。
1時間後。
訓練後の“自主的な休憩”が許された時間。
5人は、自然と中央ラウンジに集まっていた。いや、集まったというより……たまたま、全員がそこに“来てしまった”ような空気。
床にごろんと転がっているのはレオ。
「地球が恋しいよ……酸素の味がするあの風……」
「酸素に味はない」と、誰かがぼそっと呟くと、
「いや、あるって! ロマンっていう味が!」
という反論が返り、それには誰も突っ込まなかった。
クレールが、手元の金属製の水筒を一口飲むと、隣の優司に、言葉もなく渡した。
彼は少しだけ眉を動かしたが、無言でそれを受け取って口をつける。
次にそれがレオに渡ると、彼はわざとらしく目を潤ませた。
「この味……友情ってやつじゃない?」
クレールが小さくため息を吐くと、
カリームが「くだらねぇ」と言いながら、その水筒を受け取っていた。
エルナが最後にそれを受け取ると、じっとその金属の表面を見つめる。
そしてぽつりと、
「……唇の跡が、みんな違う」
それを聞いたレオが、肩を震わせて笑い始めた。
クレールが、ふいに小さく微笑むのを誰かが見たかもしれない。
──笑い声が、ひとつ。
続けて、もうひとつ。
静かな夜に、重ならない呼吸と、ささやかな体温の混じる音。
何も始まっていない。だが、何かが始まりかけていた。
訓練の終わった夜、ユニットに戻った彼らは
なんとなく、同じ空間で過ごしていた。
レオがタブレット片手に、言葉を漏らす。
「なー、やっぱ訓練終わりの飯は……“焼きそばパン”だよなあ」
「懐かしい……っていうか、まだ高校出て一年も経ってないけどな」
カリームが鼻で笑い、エルナは相変わらず無言。
クレールは「炭水化物と脂質の塊ね」と呆れた声を返しながらも、
なぜか、どこか遠くを見つめていた。
優司はそのやり取りには加わらず、黙って作業机に腰を下ろす。
懐から小袋を取り出すと、乾いた音を立てて包装を裂く。中には、食べかけのプロテインバー。
それをひと口噛みちぎり、低くぼそりと呟いた。
「……任務:焼きそばパン、確保」
誰も返事をしなかったが──
その場に、ふわりと笑いが流れた。
静かで、あたたかくて。
だけどどこか、ほんの少しだけ、沁みるような笑いだった。
たったひとつの軽口が、
いちばん重たい訓練だったのかもしれない。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.005】
感情応答系に微細な変動を検出。
想定外の“焼きそばパン”が、予想外の影響を及ぼす可能性あり。
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