表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
グラクラ(Glavity:Craft) ―壊れた世界でも、俺は作り続ける―  作者: はちねろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/64

第53話 名もなき赫

灰の奥では、まだ何かが、息をしていた。

 炉の底に、まだ赤が瞬いていた。

 燃え尽きたはずの灰の奥で、わずかに火が呼吸している。

 洞窟の光苔は脈を落とし、あたりに広がる蒼が、静かに薄れていった。


 吊された革の表面が、わずかに揺れる。芯にはまだ湿りが残り、縫い目の角だけが乾いて、白く起きていた。

 天井から降りるようなその気配に、誰の手も触れなかった。けれど、空気だけが、その存在を覚えていた。


 鎖は黙って冷え、節と節がかすかに擦れる。

 その音は、聞こえるより先に、胸の奥へ届く。

 まるで遠くの雷鳴のように、遅れて響く、重い余韻だった。


 誰も、大きな声は立てない。


 湯が、静かに湧いている。

 狼豚の血が染みた布が、鉄の匂いを伴って空気ににじむ。

 そうした小さな音だけが、この日を、あと少しだけ長くしていた。


 マリアは針を引き、糸の端を指で撫でて整える。

 光の粒が革の表面に乗り、わずかにきらめいた。


 クレールは端末を膝に置き、数値を一つずつ打ち込んでは、閉じる。

 それは記録ではなく、“今は不要だ”と判断された情報たち。

 どこか冷たい、だが誤りのない手順だった。


 優司は工具を拭いていた。

 指先の布が、金属の溝をなぞるたび、微かに擦れる音を残す。

 それは、いつでも動けるようにするための準備。

 誰にも言われずとも繰り返される、彼だけの規律だった。


 カリームは黙ったまま鉱石を見つめ、濡れた鉄槌から汗を落とす。

 その手の甲に浮かぶ跡が、今日という一日の重さを語っていた。


 レオは壁に背を預け、肩の革を小さく鳴らす。

 音は控えめだったが、誰よりも確かに、“まだ立っている”という気配を宿していた。


 外では夜気が降りる。

 風が形を変え、葉を押し、土を撫で、やがて湿りを含んで戻ってきた。

 火の上を通った湯気だけが、ひとすじ、人の高さまで上がり──すぐに、消える。


 音が減っていく。

 動きはまだあるのに、誰もが、少しずつ日を終わらせる手順に移っていた。


 だが、それは終わりではなかった。

 生き残った一日が、静かに畳まれていく。その手の温度で、丁寧に、静かに。


 火は語らない。

 それでも、炉の底で明日を孕んだ赤が、かすかに、瞬いた。



 器の縁を、レオが指先で一度だけ鳴らした。

 乾いた音が、短く、低く、洞窟に吸い込まれる。


 誰も、顔を上げなかった。

 だが、その音の上に置かれた声だけが、空気の温度を変える。


「……さっきのミナ、止まってたよな」


 問いというより、確認のような調子だった。

 エルナは、背中を壁に預けたまま、視線を動かすことなく、一言だけ、重ねる。


「空、見てた」


 蓋の上で跳ねた光が、わずかに皿の息を漏らす。

 その音に応じるように、空気が一段落ち着いた。


 言葉は、それ以上続かない。

 それが正しい。誰もが、それで十分だと知っていた。


 あのとき、夕日に染まりかけた空。

 足を止めて、ただ、肩を引かれるように見上げていた少女の横顔。

 誰も言葉にしていないのに、その像だけが全員の目の裏に開く。


 誰かの咳ばらい。布の摺れる音。遠くで水滴が岩に落ちる。

 その間に、レオは器を傾け、口を湿らせた。


 熱は舌を通り、喉で失せて、胸の手前で一度、反射して返ってくる。

 その温度は、言葉のかわりに誰かの像を運ぶ。


 火が小さく音を立てて崩れた。

 その音と同じ速さで、“あの瞬間”の記憶が、洞窟全体ににじんでいく。


 誰も、それを口にしない。

 けれど、空を見ていた彼女の背中が、確かにこの空間のどこかに残っていた。



 エルナは端末を閉じた。

 音は立たない。指先の動きも、途中で吸い込まれるように止まる。

 箱の縁に腰を下ろし、静かに首元へ指を添える。

 脈を測る仕草──けれど、数える気配はない。


 その手は、過去の一点をなぞっていた。


 目は落ちたまま。

 掌の記憶だけが、そこに戻っていく。

 戻ってきた彼女の皮膚、指先の裏に残ったわずかな震え。

 皮膚温は保たれていたのに、冷たかった。


 拍の飛び、呼吸のばらつき。

 目は誰の方も見ず、身体だけが近くにあった。


 エルナの視線が、わずかに洞窟の口へとずれる。

 ただ、暗さが重さに変わって居座っているだけだった。


 彼女は視線を上げない。

 ただ、自分の掌の記憶を辿るように、手首を軽く押さえた。


 触れていたのは、ミナの皮膚の温度。

 掌に残っていたのは、皮膚の感触だった。

 細い骨の上に張った薄い皮膚。体温はある。汗もごく微かにあった。


 けれど、温かいとは言えなかった。

 汗の膜は薄かった。

 体温は下がっていなかった。

 なのに──確かに“冷たかった”。

 その“空白”を、数値に置き換えることはできなかった。


 けれど今夜、彼女はそれをしなかった。


 語れば遠ざかる。

 測れば軽くなる。

 その重さは、たぶん──そのままにしておくべきだった。


 呼吸も、不規則だ。

 吸った息が途中で止まり、胸に届く前に折れていた。

 肩と腹の動きが噛み合わず、体はまるで、別々の指示で動いているようだった。


 小さく、薄く震える。


 目は見えていた。耳も聞こえていた。

 けれど──何かが、彼女の中で、空白になっていた。


 皮膚の下で流れていたものは、熱ではなく、“止まった息”。


 肩の上下と呼吸のリズムが、噛み合っていなかった。

 吸ったはずの空気が、胸の手前で止まり、奥まで届いていない。

 息が浅く、割れる。

 音も、動きも、どこかが“間違って”いた。


 夜は変わらない。

 だが、あの子が見た空の向こうには、きっと何かがあった。


 彼女は目を閉じず、視線を逸らさず、ただ黙って夜の先を見ている。


 クレールは言葉を継がない。

 言わない部分が、かえって空気を冷やしていく。

 余白が冷えを呼び、冷えが、現実の重さを静かに濃くしていった。


 しばらくして、彼女は小さく首を傾げ、洞窟の口の方へ視線を滑らせた。

 その先に空はない。

 あるのは、夜の色でも闇でもなく、ただ“光の消えた重さ”だった。


「数値にすれば簡単だけど──」


 そう言いかけて、クレールは口を閉じた。

 数字に落とすよりも、指先が覚えている感触の方が、ずっと確かだった。

 あの子の呼吸、皮膚の震え。

 数ではなく“記憶”が、彼女の中で答えを持っていた。


 ……軽くしてはいけない種類の重さだった。


 クレールは沈黙を保ったまま、指先で机の水滴ひとつ、拭う。

 その動きを、少し離れた位置でエルナが見ていた。


 その指の冷たさが、あの子の皮膚の記憶と重なった。

 クレールは理を抱き、エルナは感触を抱く。

 ふたりの沈黙が、同じ“痛み”を囲んでいた。


 その沈黙の中で、エルナは指先にまだ熱を感じていた。

 あの瞬間、止まったのは呼吸だけじゃない。

 あの子の“生きようとする拍”が、ほんの一秒だけ途切れていた。

 ──それを、二度と見たくはなかった。


 治すとは、奪うことでもある。

 痛みも、震えも、声も奪って──それでも生を戻す。

 だからこそ、彼女は“温度”だけは奪わないようにしていた。


 刃が石板に触れる音が、まるい月の縁に差す光のように、静かに広がる。

 誰も声を出さないその空間で、唯一、“治す手”の動きだけがゆるやかに続いていた。


「呼吸も乱れていた。……あれは、ただの疲労じゃない」


 言葉は短く、感情を含ませない調子だった。

 けれどその下に、柔らかく苔のような手触りがある。


 あのとき、ミナの手首を取った。

 皮膚の下にこもる湿りが、エルナの指先へじわりと移ってきた。

 拍は飛び、間は乱れる。

 呼吸のリズムが合わず、視線は戻らない。


 医療者としてなら、いくつでも語れる。

 数も、所見も、状態の傾向も──すべて並べることができた。

 だが、今それをすることが、“治す”という行為から外れる気がしていた。


 語らないほうが、治療になる夜もある。

 それを知っているのは、知識ではなく、“何度も誰かを看てきた経験”だった。


 湯気がふわりと上がり、その向こうにミナの横顔が浮かんだ。

 目は、何も見ていないふうで、どこかを見ている。

 エルナは、それを見た。そして、また見ないふりをした。


 言葉は刃にも、包帯にもなる。

 今は、包帯であるべき。


 それでも、指の腹に残る湿りが消えなかった。

 まるで、あの手首の鼓動が、まだ彼女の中で続いているようだった。


 エルナの指は自分の膝の上で止まり、まだ切っていない糸の端を探すように触れる。

 その糸がどこにあるのか、自分でもわかっていた。

 けれど、今はただ、“探すふり”の時間だけが必要だった。


 音も光も遠ざかる。

 だがその静けさの奥に、確かに“守ろうとする手”があった。



 マリアが、そっと立ち上がった。

 吊るされた革が、空気の縁を擦るように鳴る。


 光苔の青が一粒、その気配に呼応するように震えた。

 まるで──呼吸の中に紛れ込んだ、小さな記憶。

 誰のものとも言えない、けれど、全員の胸に引っかかる、熱の残り滓だった。


 空気が、わずかに変わる。


「……外で、何があったのか、もう一度……」

 目を伏せたまま、かすれるように言葉が続いた。


 問いというより、“確かめる”手つき。

 誰にということもなく、場にそっと置かれた。


 カリームの手が止まる。

 鉱石の柄を撫でていた親指が一度だけ拳をなぞる。

 革手の中で、関節が小さく鳴った。


 レオは器を傾けかけて、戻した。

 中の水面が、音を立てる直前で静まる。


 誰もすぐには言葉を継がない。

 答えが見えているからこそ──誰も、それを声に出せなかった。

 沈黙は、まるで火の傍に置かれた刃のように、鋭く光を歪める。


 火の奥で、湯気がゆっくり息をしていた。

 その向こうに、ミナの横顔。


 マリアは、それ以上問いかけなかった。

 言葉の代わりに、火の揺らぎを見ていた。


 ──沈黙に、誰の感情が落ちていくのか。

 ──どの鼓動が、どの呼吸が、それを拒もうとしているのか。


 彼女の目は閉じられない。だが、見上げることもなかった。

 火の奥にいるミナの影と、自分の手の温度と──その両方を、胸の内側に重ねていた。


 やがて、レオが低く言う。


「……空を見てた。けど──目の先が、何にも届いてなかった」


 短く、ただそれだけ。

 それで充分だった。


 カリームが鉄槌を、そっと地面に置く。

 その音が洞窟に溶けていき、空気を静かに打った。


 クレールがひとつ息を吐く。

 それは音にはならず、けれど──空気の密度を変えた。

 エルナが、まだ切られぬ布の端に指を置く。

 火の揺れが、その輪郭をやわらかく包む。


「耳は動いてた。でも……聞いてなかった、と思う」


 ふたりの声に、誰も言葉を足さない。

 けれどその沈黙は、場に線を描きはじめていた。


 マリアは、まだ何も言わない。

 手の上に手を重ねたまま、ただ──皆の言葉を、脈のようにたどっていた。


「切り株……焚き跡はなかった」

 レオがそう言ったあと、エルナがそっと頷いていた。

「小石が、色で分けて並べられてた」

 カリームはそう付け足し、少し黙った。


 それらの記憶は、ひとつずつ、彼女の中に沈んでいく。


 ミナが見たもの。

 皆が言葉にしたもの。

 そして、彼女が今、聞き取っている空気。


 どこかで見たような順序。

 それは記憶ではない。ただ、重ね合わせた結果だった。


 “何かがあった場所”には、痕跡がある。

 並べられたもの、埋められた布、立ち止まった足元。


 それは──誰かが生きようとした順序で、

 誰かが“恐怖の中で選んだ整頓”だったのかもしれない。


 それは、脅えた誰かが──崩れないように並べた小さな“日常”。

 呼吸を整えるために置かれた、無意識の秩序。


 それは、凍る夜に火を囲むような行為だった。

 震える手が、それでも手放せなかった“習慣”の温度。


 それは──生きようとした痕そのものであり、

 恐怖と祈りのあいだに刻まれた、誰かの記憶の形。


 まるで、小さな火を守るように。

 ひとつずつ、静かに置かれた希望の順序。


 そして、ミナはそこで止まった。


 誰の言葉も否定しないまま、

 誰の記憶にも干渉せず、

 マリアは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……覚えてるのかもしれない」


 それは断定ではなく、今夜という火の、最後のひと欠けだった。

 灰の底で、わずかなあかが、まだ名もなく息をしていた。

赫は眠らず、ただ名を持たぬまま、夜を越えていた。


……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえると、うれしいです。


……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。


【整備ログ No.053】

夜間観測、拠点内静止状態を確認。

観測対象“ミナ”の呼吸・脈拍に短期的乱れを検出。

外的要因ではなく、記憶起因の内部反応と推定。

この変化を追跡したい者は、“ブックマーク”への登録を推奨。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ