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第4話 軋む訓練、ひとつの兆し

足もとが沈むほどの重力の中で、

心だけが、まだ軽かった。

 ──息が、重い。それが最初に襲いかかってきた“現実”だった。


 地球の二倍を超える重力環境を模したトレーニングルームは、見た目に華美な装飾はなく、無機質な金属フレームと分厚いゴム床が敷かれただけの閉鎖空間だった。だが、その空間に足を踏み入れた瞬間、五人の身体はまるで鉛でも詰め込まれたかのように、沈み、(きし)んだ。


「──っ、くぅ……おいおい、これ……冗談だろ」


 レオが腰に手を当てながら、半ば笑い声を吐く。だがその顔は汗まみれで、言葉に余裕はない。


「これが……模擬か。まるで、地面に引きずられてるみたい……」


 クレールは背筋を伸ばしたまま(つぶや)く。体幹のぶれはない。その冷静さが、むしろ不自然にすら見えた。


 優司は何も言わず、足元の床を見ていた。


 慣れない重力下では、わずかな足の滑りが致命的な転倒に(つな)がる。既に数分のテスト移動で、全員の脚は悲鳴を上げている。それでも、トレーニングは容赦なく始まった。


 ───


 AIナビゲーターの声が天井のスピーカーから響く。


「基礎移動訓練──開始します。次の移動目標地点まで、各員は協力して資材ユニットを運搬してください。※目標達成時間:9分。連携行動推奨」


 目標は、部屋(へや)の奥──金属ラックに置かれた細長いコンテナだ。見た目にはさほど大きくもないそれを、五人で運べという指示。一見すれば単純だ。だがこの重力環境では、全員の呼吸が合わなければ、一歩目で足元から崩れる。


「さあ、チームワークの見せどころだな! 俺が前やる!」


 レオが勢いよく声を上げて前に出た──瞬間、重心を崩し、右膝を床に落とす。


 金属が鈍く鳴り、(かす)かに笑いが漏れた。誰のものでもない笑い。だが、空気が軋んだ。


「……無理に引っ張るな。全体の足並みが狂う」


 静かに言ったのはカリームだった。その声は、低く、抑えていたが、何かを警告するようでもあった。


 レオが一拍置いて立ち上がり、口元を(ゆが)める。


「おっと、兄貴。そんなに怖い顔しないでくれよ。筋力自慢が台無しになるぜ?」


「口より脚を使え」


「はいはい……っと」


 苦笑しながらレオは肩を(すく)め、だが目元だけが真剣だった。冗談と観察、軽口と焦り──その境界線が()んでいる。


 優司は、そのやり取りを見ながら、静かに空気圧測定機のバランスを調整していた。チームワークとは何か──そんな問いには、もう何年も前に答えを捨てたつもりだった。だが、こうしてぶつかり合う他人を眺めていると、時折、それが再び目の前に差し出される。


「持ち手の位置を調整しろ。重心が後ろ寄りだ」


 そう呟いたのは優司だった。誰に聞かせるでもなく、ただ独り言のように。


 だがその声に、クレールが静かに振り返った。そして何も言わず、彼の示す方向へ動いた。


 レオも、わずかに眉を上げて──「了解」とだけ呟く。


 再び五人が歩みを(そろ)える。コンテナに手をかける。全員が、まだ呼吸を整えきれないまま──。


 次の瞬間、重さが全身にのしかかる。


「──行け」


 誰の声でもなかった。だが、全員が一斉に動き出した。


 ────


 最初の移動訓練が終わるころには、全員の顔から余裕が消えていた。誰もが口にはしないが、各自の脚は張り、肩は軋んでいる。無音のトレーニングルームには、わずかに息遣いと床を擦る靴音だけが残っていた。


「……ふぅ。もう一回、やるのか?」


 誰に向けるでもなく、カリームが息を吐いた。汗に()れた額から、眉の下に光がにじんでいる。その腕には赤いバンド──筋肉応答センサーが巻かれているが、そこに記録されるのは“性能”ではなく“協調性の数値”だった。


「まったく……なんで俺たち、いきなりこんなに()()わねぇんだろな?」


 レオが笑みを張りつけたまま、体を伸ばしながら問いかける。誰かが「そんなの、当たり前だ」と返すのを待っていたようにも見える。だが、誰も返さない。


 ──沈黙。


 空気が止まる。その一瞬、重力よりも重たい沈黙だった。


「……原因は簡単だろう」


 静かに答えたのはクレールだった。汗一つ見せぬ彼女は、体幹を崩さず、ただ冷ややかに言葉を放つ。


「互いの動きに合わせようという意識がない。この環境でそれを怠れば、全員が負傷する。単純な話」


「そりゃ、ごもっとも。でもな」


 レオが半歩、彼女に向けて歩み出る。重力がその動作を制限するはずだが、彼の動きは妙に軽い──軽いが、挑むようでもある。


「言ってくれるじゃないか、完璧なお嬢さんよ。最初から全部うまくいくんなら、訓練なんていらないだろ?」


 クレールの視線が、レオを刺すように向けられた。その一瞬、空気が凍った。


 ──だが、決して言い返さない。ただ、視線を外すこともなく、彼女は静かにレオの瞳を見据える。


「……喧嘩(けんか)腰で言ってんじゃねぇよ、レオ」


 カリームの低い声が、背後から割って入る。床を蹴って歩み寄ったその足取りは、まるでそのまま誰かを殴りつけそうな勢いだった。


 レオがちらりと振り向き、鼻を鳴らす。


「おっと。今日(きょう)のお(にい)ちゃんは、随分と過保護じゃないか」


「そいつは関係ねぇ。無駄に張り合ってる暇があったら、呼吸の一つでも揃えろ。……ったく、ただの運搬でこれだ」


「はーいはーい。じゃあ次は、仲良くやりましょうかね」


 レオは肩をすくめて歩き出す。が、その背中に滲んでいたのは、軽さではなく、苛立(いらだ)ちだった。


 クレールはその背に、ただ一言だけ落とす。


「次は、(わたし)が前に入る」


 どんな訓練でも、前に立つ者が一瞬でも迷えば、全体が崩れる。


 レオの足が一瞬止まる。


 ──そして、何も言わずに歩き出す。


 その様子を、優司は観察していた。だが、“楽な傍観者”ではなかった。


 ──脚が痛む。太ももが重く、膝の関節は細かく震えていた。息を吐くたびに、内臓の重さが背骨にのしかかる。


 けれど彼は、顔をしかめなかった。


 感情を隠しているわけじゃない。表情も、言葉も──エネルギーと同じ。使い方を誤れば、次の一歩で倒れる。だから、抑える。今の彼にできる“最適化”だった。


 ──次で、誰かがバランスを崩す。


 そう思った瞬間、優司の手が腰のツールホルダーに伸びた。


 中身を確認したわけではない。ただ、“何かをすぐ取り出せる”ように備えるだけ。それが、整備士の習性だった。


 ──異音。


 金属音が床を滑る。誰かの手から、固定具の一部が外れた。


「待て、それ──!」


 だが、間に合わなかった。


 ──音が、落ちた。


 カラン、と軽い金属音。だが、その一音はこの重力下では致命的だった。


 レオの手元から滑ったのは、荷重分散用のスライドバー。本来はコンテナの前後を均等に支えるためのパーツ──その一本が失われれば、コンテナの重心は、斜めに崩れる。


「あ──!」


 クレールが声を上げるより早く、金属の箱が傾き、クレールの足元に重心が寄った。彼女の膝がぐらつく──倒れる、と思ったその瞬間。


「──離せ!」


 優司の声が飛んだ。


 それは怒鳴り声でも命令でもなかった。ただ、最短で意味を伝えるためだけの音声だった。


 クレールが条件反射のように手を放す。一瞬で荷重が偏り、今度は逆側のカリームの腕に重みがのしかかる。


 だが、同時に──優司が動いた。


 彼はコンテナの下に片膝を滑り込ませ、崩れた荷重を、ちょうど中央下部から“受け止める”ように支えた。


 脚が悲鳴を上げた。腰が、重力に潰されるように沈んだ。関節という関節から、悲鳴が上がっていた。


 それでも優司は、倒れなかった。


「バランサー! 右側、引き上げろ……レオ、反対。スライド代用になる!」


 誰も返事をしなかった。だが、レオとカリームは同時に動いていた。


 コンテナが、わずかに持ち直す。


 クレールが素早く後方に回り、コンテナの一端を持ち上げる。


 優司は、ほんの一秒後に手を離した。崩れかけていた金属の箱は、全員の手に戻っていた。


 息が漏れる。


 優司は、その場で膝に手をつき、吐息をこぼした。だが、その表情に焦りはなかった。ただ、状況が“正しく”戻ったことを確認した──それだけ。


「……ナイス、整備班。なんだよ、やればできんじゃねぇか……」


 レオの言葉は、明るさというより、安堵(あんど)の色だった。


 だが、優司はそれにも返さない。ただ息を整え、手の甲で汗を拭い、また立ち上がった。


 エルナは淡々としていた。誰とも目を合わせず、必要な数値だけを機械的に報告する。


「……モジュール反応、12.1」


 クレールは(うなず)き、次の行動に移った。会話は、それだけだった。


 その目は、誰にも向いていなかった。だが、全員がその背中を見ていた。


 ──この男は、崩れる直前に、黙って支えに入る。


 その無言の判断が、誰よりも早かった。


 誰も言葉にしなかったが、この瞬間から、“何か”が変わり始めていた。


 ───


 訓練終了のブザーが、静かに響いた。


 空調が再起動し、部屋の重力設定が通常値に戻っていく。


 だが、誰もすぐには動かなかった。


 ただ、汗のにじむ服のまま、その場に立ち尽くしていた。


 コンテナは無事だった。五人の誰も、転倒せずに最後まで運び切った。


 それだけのことだった。


 それだけのはず、だったのに──誰も、すぐには言葉を発さなかった。


 カリームが、黙って手袋を外し、指を握りしめる。手のひらには、摩擦で赤黒くなった皮膚。彼はそれを見て、何も言わず、静かに握ったまま歩き出す。


 クレールは、乱れた髪を指先で整えながら、ふと──一瞬だけ、優司の背を見た。


 その視線に、感情はなかった。だが、いつもより少しだけ長く、そこに(とど)まっていた。


 レオはというと、タオルを首にかけながら近づいてくる。


「なあ……お前、元から整備士じゃねぇよな?」


 優司は顔を上げない。


 レオが肩を竦める。


「……まぁいいさ。ありがとな。背骨、砕けずに済んだ」


 それだけ言って、彼も去っていった。


 その場に、優司ひとりが残った。


 ゆっくりと膝を折り、床に座る。握った(こぶし)を開くと、関節が(しび)れていた。


「……きついな」


 誰にも聞かせない声で呟き、頭を垂れた。


 それでも、彼の表情はどこか落ち着いていた。


 きつい。それは事実だ。だが、その“きつさ”は──乗り越えられるかもしれないという、手応(てごた)えに変わりつつあった。


 トレーニングルームのドアが、自動で開く。


 その音を聞いて、彼はゆっくり立ち上がった。


 再び、何も言わずに。


 ──だが、誰もが知っていた。


 さっきの訓練で、“誰が崩れずに立っていたか”を。


 そして、それが“言葉では伝えられない信頼”の、始まりになることを。

ほんの一瞬、誰もが、次の言葉を飲み込んだ。

それは、静かな始まりだった。


……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえると、うれしいです。


……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。


【整備ログ No.004】

重力負荷、規定以上。摩擦音確認。

各機体、初期反応に遅延あり──だが、破綻はない。

評価保留。継続観測のため、“ブックマーク”登録を推奨。

──微かな噛み合いが、次を予感させる。

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