第40話 緑牙、言の葉の前
命に触れたあと、何が変わるのかは誰にもわからない。
先に戻ったのはレオだった。
肩にかけた袋がかすかに揺れ、沈んだ足取りが床を踏むたび、濡れた泥がかすかに音を立てる。
乾ききらない粘土質の泥が、靴底にまだ重さを残していた。
頬と首筋には、微かに紅潮した熱。照明の反射が、うっすらと濡れた肌を鈍く照らしている。
誰かが声をかけようとして、飲み込んだような空気だった。
安堵よりも、言葉を持たない重さが先に場を支配していた。
続いて、カリームが姿を現した。
手斧の柄に泥がこびりつき、刃はひび割れたまま沈黙している。
歩みは乱れず、崩れた様子もない。だが、全身から立ちのぼる疲労の気配が、熱より先に室内に染み込んでいった。
手斧を手放すことなく、カリームはそのまま壁際へと歩いた。
誰にも背を向けず、誰にも気配を見せず、ただその足取りの重さだけが、今日という時間の全てを語っていた。
腰を下ろすことなく、彼はしばらくそこに立っていた。
まるで、まだ何かが終わっていないかのように。
拠点にいた者たちの視線が、無言のままふたりに集まる。
問いかける者はいない。言葉がいらないほど、その場にあった空気は濃かった。
帰還。それだけの事実が、ただ静かに、その場を締めつけるように広がった。
数秒遅れて、小さな影が続いた。
ミナだった。
姿は乱れていない。服にほつれも、土の跡も見えない。
傷はない。けれど、その背に刻まれたものは、視線の奥に隠れていた。
誰も見ていないように、誰の目も見ず、ただまっすぐ、彼女は歩いてきた。
その目は、何も映していないように見えて、どこか遠くを凝視していた。
室内でもなく、天井でもない、もっと別の場所。
ひとつの戦いが終わっても、何かがまだ、胸の内で終わっていない──そんな視線だった。
声をかけるには、あまりにも静かすぎる空気が、彼女の周囲に張りついていた。
あのとき守られた小さな輪郭が、今、ここに帰ってくる。
足音はなく、肩だけがわずかに揺れる。
呼吸は整っている。だが、張り詰めた何かがまだ芯に残っているように、どこかだけ動きが硬い。
クレールは、黙ってミナの方へ歩いた。
視線はそらさず、様子をうかがうでもなく、ただ“戻ってきた”という事実だけを見ていた。
そっと肩に布をかけながら、小さく呟いた。
「……おかえり」
その一言だけで、張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
その背に、まだ何かを背負っているような硬さが残っていた。
ミナは立ち止まり、顔を上げることはない。ただ耳が、ひとつ、微かに揺れた。
そのわずかな揺れだけが、彼女の中に残ったものを教えてくれた。
クレールの手が離れたあとも、ミナはその場に立ち尽くしていた。
布の感触が、肩に微かに残っている。だが、彼女の目はやはり誰とも交わることなく、静かに伏せられていた。
睫毛がほんのわずかに揺れ、呼吸が薄く、浅い。
誰かの声を聞こうとしているようにも見えたが、耳の動きすら、音に反応していない。
その姿は、守られた者ではなく──なにかを抱えて帰ってきた者のように見えた。
その様子に、誰も言葉を継がなかった。
追及の声も、説明を求める視線もなかった。
そこにいた全員が、“結果”を見ればそれ以上を問うまでもないと理解していた。
カリームの手斧は、刃のひびが深く、泥と血のような赤褐色に染まっていた。
網の一部が、彼の腰袋からはみ出している。繊維は裂け、いくつかの結び目はほどけていた。
レオの手元からは、石包みの袋が見えていた。口が開いたまま、半分ほどしか中身が残っていない。
ひとつずつ投げられた証のように、重さを失っていた。
この“静かな帰還”の中に、十分すぎるほどの失敗の記録があった。
沈黙のまま、エルナが一歩、ミナに近づいた。
身体に怪我はない。血も、裂傷も、土の汚れすらない。
ただ、何かを押し込めるように胸のあたりだけが微かに上下している。
──守られた。そういう状態だった。
だが、そうであるならなおさら、彼女の無言は何かを強く物語っていた。
誰かが、何かを言いかけた。
けれど、その声は形にならなかった。
代わりに、室内の誰もが、無意識に小さく息をついた。
問いただすべき何かが、今はもう“問いではない”というように。
沈黙の中で、ただひとつの感情だけが静かに行き渡る。
──無事でよかった。
けれど、その安堵は、喉の奥で乾いた苦味をともなっていた。
夜は静かに過ぎた。
誰もその話を持ち出さないまま、朝が来た。
作業音が、少しずつ拠点の中に満ちていく。
水のくみ上げに回る者、収納の棚を整理する者、端末を起動する指先の音。
会話は少ないが、気配はある。生きている場所の空気だった。
ミナは、既に網の繊維を解いていた。
昨日の破れた一部を、新しい紐にすげ替えている。
誰に指示されたわけでもない。
ただ、そこにある“やるべきこと”に手をつけているようだった。
「──ミナ」
ふと、名前が呼ばれる。
ミナは手を止めずに、指先だけが動きを変えた。
軽く手元を持ち上げ、ほんの少し、顔を向ける。
言葉はない。けれど、その反応は“会話”だった。
クレールが手を止めた。
何も言わず、そのやり取りを見ていた。
だが、ふっと目線を落とすと、独りごとのように小さく漏らす。
「……名前で、通じるようになったわね」
誰も返さない。けれど、その言葉は否定されず、空気に溶けていった。
ミナは再び、網の結び目に集中している。
指先が、わずかに止まる。細い繊維の端を、ほんの少し見つめる。
それは誰にも気づかれない一瞬だったが、手の内でなにかを確かめるような動きだった。
しばらくして再び作業に戻るが、その手つきには、昨日までにはなかった“ためらいの消失”があった。
手つきにぎこちなさはない。左右の指先が自然に動き、力のかけ方にも迷いがない。
時折、工具を持ち替えるたびに、誰かに目線を投げる。その角度も、まるで合図のように意味を持っていた。
クレールはそっと椅子に腰を下ろし、作業を再開した。
マリアは何も言わずにその隣を通り過ぎ、電子端末に視線を落とす。
ユウジは配線まわりを点検しながら、ちらりとミナの動きを確認している。
エルナだけが、しばらく記録板を手に立ったままだった。
エルナは手元の記録板――薄いガラスのような観察用端末――に、淡々と文字を記していた。
その視線が、静かにミナを追う。
彼女はまだ一言も発していない。だが、反応の制度、視線の変化、動作の適応。
“識別”としては、十分すぎるほどだった。
エルナは記録板に、淡々と一文だけ書きつける。
──個体識別における反応、安定。
エルナは記録板を閉じた。
まだ何も決めていないが、それでも何かが“定着した”ことだけは確かだった。
誰も、ミナの動きを止めない。
それどころか、彼女の手元に道具を置いていった者すらいた。
声はかけない。けれど、“そこにいる”という事実だけが、静かに積み重ねられていく。
空気が変わった。
昨日までと、何かが違っていた。
それでも拠点は動いている。いつもと同じように。
レオが、小さく息をつく。
「……網は、一度は効いた。でも一瞬だった。支えの枝も、踏み板も──全部、耐えきれなかった」
手元の石袋をひとつ指でなぞる。
「こっちもそうだ。狙いは合ってたはずなのに、止めきれなかった。撃つたびに少しずつズレていく。……数が多かったんじゃない。こっちの手が追いついてなかったんだ」
投げる速度も、回避も、精度も。全部、ほんの一歩ずつ足りなかった。
そんな悔しさが、声ににじんでいた。
カリームが静かに頷いた。
「奴ら、最初から全方向で来たよな。偶然か、狙ってたのかは分からねえけど……どっちにしろ、あいつらの動きの方が一枚上手だった」
「だからこそ、」とレオが言った。「今の俺たちじゃ、何かが足りない」
その“何か”が何なのか、誰もすぐには答えを出さなかった。
手斧の刃を拭きながら、カリームが短く唸った。
「……やっぱり、ひび割れたか。刃の方はともかく、この柄じゃあな……応急用じゃ限界あるな」
カリームが手斧を握り直しながらぼやく。宇宙船の補修工具をそのまま転用しているにすぎない。戦闘用ではないのだ。
レオが横から覗き込んだ。
ひびの入った金属部分に、細かく砂が入り込んでいる。
「網も……あんなふうに裂けるとは思わなかったな」
吐くように呟きながら、壁際に置かれた繊維の一部を指でなぞる。
クレールが低く息を吐いた。
いつになく、真顔だった。
クレールが、手元の繊維を一度握りしめてから、ゆっくりと口を開いた。
「……私たち、頑張ってたのにね。工夫して、考えて、必死で。でも、それでも……守れなかった」
その声はかすかに揺れていた。けれど、現実から目を逸らしてはいなかった。
「罠も、石も、動きも。間違ってなかった。足りなかったのは、ほんの数歩。でも、その数歩が、命なんだと思い知った」
その声には責める色はなく、ただ現実を見つめるような冷静さがあった。
「この星の素材は脆い。力でねじ伏せようとしても、こっちが先に壊れる」
「じゃあ、鍛えるしかねえな」カリームが小さく笑った。「素材も、道具も、俺たち自身も」
拠点の隅で、マリアが何かを思い出すように息を吐いた。
マリアがぽつりと呟く。
「なら、鍛えるしかない」
誰も返さない。けれど、その言葉の意味を否定する者もいなかった。
「道具も、身体も、発想も──全部。文化を、ここで打ち直すしかない」
クレールが黙ったまま、繊維の束を撫でるように整えながら口を開いた。
「……素材が悪いんじゃない。この星が、私たちの常識を超えてるのよ」
レオが顔をしかめる。
「つまり、今のままじゃ“死ぬ”ってことか」
カリームがうなずいた。
「罠は破られ、刃は割れた。投石も通らねぇ。……もう“工夫”の域じゃどうにもならねえんだ」
レオの指が、石袋をそっと押さえる。
「俺たちが持ってる“普通”は、もう通用しない。道具だけじゃなく、発想ごと更新しないと、次は命がない」
「技術が要る」
カリームが静かに続ける。
「本気で、生き延びるためのな。適応じゃなく、制圧するくらいの」
マリアが岩壁を見上げたまま、ぽつりとこぼす。
「……文化ごと、ここで打ち直すしかないのよね。文明を、鍛え直すくらいの覚悟で」
誰も反論はしなかった。
それが極論だとわかっていても、誰も否定できなかった。
言葉は途切れても、感情は止まっていない。
その沈黙の中に、じわじわと広がる緊張と、焦りと、確かな実感があった。
ミナの指先が、網の繊維を撫でるように動いた。
見ていたわけではない。ただ、話の“音”だけを聞き取っている。
耳が、わずかに揺れた。
この星では、誰かが守るだけでは足りない。
武器が壊れ、罠が破られ、声が届かないなら──
“在り方”そのものを変えなければ、生き残れない。
クレールは、誰にでもなく目線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……昨日みたいなことが、もう一度起きたら……私たちは誰も守れない」
マリアが続ける。
「仕組みも素材も、思想も含めて……“環境に負けない技術”を、こっちから作らなきゃいけない」
カリームが手斧を見やった。柄の亀裂に指を沿わせる。
「なら、地面から作るしかねぇな。火も、型も、全部。……腰を据えて、な」
レオが苦笑を交えた息を吐く。
「地味にキツいな。けど、地味にやるしかねぇのか」
そのやり取りに、誰かが笑うわけでもなく、冗談も飛ばない。
だが、全員がどこかで納得していた。
これが“現実”なのだと。もう、避けようがないと。
──この星で生きるために、闘うんじゃない。
この星と、拮抗するために変わる。
“人間側の更新”が、ようやく始まろうとしていた。
しばらく沈黙が続いた。
ただ、ミナの耳が再びぴくりと動いた。
言葉の先を引き取る者はいなかった。
けれど、その沈黙の中に、何かを始める気配だけは確かにあった。
誰も返さない。
だが、その言葉の意味を否定する者もいなかった。
ミナは少し離れた場所で、網の繊維を指先でいじっていた。
だがその耳が、ほんのわずかに動いた。
彼女の視線は遠く、表情はない。けれど、話の輪郭だけが、確かに届いているように見えた。
誰も冗談を挟まなかった。
その静けさのなか、ミナの耳がぴくりと動いた。
先ほどよりもはっきりと、空気に集中するような反応だった。
言葉の意味までは理解していないかもしれない。けれど、“なにかが変わり始めている”という気配を、確かに感じ取ってい
──“変わらなきゃ、生きていけない”。
その言葉は、誰の口からも出ていない。
だが、それぞれの胸の奥に、確かに沈んでいった。
誰もが、目の前の作業を続けていた。
だが、その手元には、いつもよりほんのわずかに“意識”が宿っていた。
必要だったのは、獲物じゃない。
この星で生きるための、“技術”だった。
守るには、ただ強くなるだけじゃ足りなかった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえるとうれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.040】
帰還報告:レオ、カリーム、ミナ。外周遭遇戦、被弾・物的損耗あり。
初期装備、現地個体の攻撃性と構造強度に対し機能不全。全体議論により次段階“再鍛造”工程へ移行。
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