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グラクラ(Glavity:Craft) ―壊れた世界でも、俺は作り続ける―  作者: はちねろ


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第39話 仕掛けの境界

境は、踏み出す前から揺れている。

 (こけ)の光は、まだ青みを帯びていた。

 昨夜の冷えを残す空気が、岩壁に沿って流れ、足元の石板をしっとりと()らしている。

 小さく咳払(せきばら)いし、それが天井に反響して返ってきた。


 床下の近くで、レオが石を選別している。

 すぐ隣でカリームが胡座(こざ)をかいて、手斧(ちょうな)の刃を石で整えていた。


 ふたりとも黙々と荷を詰めていた。


「……水場の件どうする?」

 口を開いたのはレオだった。

 声に張りはないが、目的を確認するだけの、短い音。


 レオの声に、カリームが器を置いて応じた。

「完成した網、仕掛けておきたいよな。」

「それに、水場の道を使う獣なら、あそこを通るはずだ。準備は少し心許(こころもと)ないが、確認する価値はある」


 数秒の沈黙。

 クレールが静かに返した。

「……危険よ。仕掛ける前に現れたら、対応できるの?」


「なるほどな…… 」


 言葉の応酬は短く、それ以上は続かなかった。


 ふたりとも、わかっている。

 今のところ、この星で“確実に狩れるもの”は少ない。

 狩れれば運がいい、くらいの気持ちで行く。

 ただ、それでも「行く」のが今日(きょう)の選択だった。


 レオは器を手のひらで押さえたまま、少しの間を置いた。

 火照った(てのひら)の感覚を逃がすように、ゆっくり息を吐く。

 それから、言葉を探すように口を開いた。


「……やはり俺たちは、水場まで行く」


 短い宣言だった。

 説明ではない。だが、全員が耳を傾けた。


 カリームが続ける。

「網は形になった。だが、まだ仕掛けてはいない。いずれ使うなら、一度は様子を見ておくべきだ」

 声は低く、硬い。

 それは“準備できていないまま獲物を迎えたら危険だ”という警告でもあった。


 しばし沈黙が流れる。

 マリアが視線を落としたまま、軽く眉を寄せる。

 クレールは器を持つ手を止めて、わずかに息を整える。

 優司は網と装置の骨組みを手元に置き、短く言った。


「これなら、上手(うま)く捕縛できるはずだ」


 仕掛けは、下から網を弾き上げる跳ね上げ式だ。

 踏み込んだ瞬間、反動で網が広がり、獣の動きを絡め取る。


「確実に捕獲できる保証はない。……だが試す価値はある」


 空気がさらに張り詰める。

 クレールが低く返した。

「リスクが大きいわ。突発的な接触になったら、誰も助けられない」


 カリームがすぐに応じる。

「……慎重に行く。仕掛ける前に現れたら、厄介だ。前に一度は倒せたが、あれは運もあった。この重さの中で同じようにやれるとは思ってな。偶然の要素は大きかったが、その時の感覚は覚えてる。」

 その声音には、揺るぎがなかった。


 レオはその言葉を受けて、ほんの少し笑った。

「なら、俺がフォローする。任せろ。お前の背中は俺が守る」


 レオは腰袋を確認する。

 中には、()()けた石が数個。丸みのあるやつだけ選んだ。


(やり)、持ってくか」


 レオが腰袋を確認しながら言った。

 袋の中では、丸みを帯びた石がいくつか揺れている。


「石だけじゃ不安か?」


 カリームは研ぎ終えた刃を布で包み、背に回した槍の重さを確かめる。


「近づかれたくないだけ。お守りみたいなもんだよ」


「……俺は逆だな」


 カリームは立ち上がりながら、手斧を握りしめて、静かに言った。

「殴れる距離まで引き寄せた方が、手応(てごた)えある」


 レオは手の中の石をひとつ握り直した。

 ふと、目線が下を向き、少しの沈黙が落ちる。


 そして、ぽつりと(つぶや)いた。


「……やっぱ、お前すげぇな……」

「任せろ。上手くフォローする」


 カリームは何も返さなかった。

 けれど、口の端が、ほんのわずかに持ち上がった。


 荷の準備が整うと、レオは立ち上がり、洞窟の入口の方へ目をやる。


 外の気配は、岩肌のすき間からかすかに流れてくる冷気でしか感じ取れない。


「行ってくる」

 レオはそれだけ呟いた。

 カリームは立ち上がりながら、天井を見上げる。

「二、三時間ってとこだな」


 ふたりは並んで、洞窟の奥を一度だけ振り返る。


 ──洞窟を抜けると、空気が変わった。


 湿っている。けれど、昨日(きのう)よりも少し乾いている。

 足元の地面は、苔ではなく、砕けた岩とわずかな泥。

 踏み出すたびに、足裏に小さな不安定さが伝わってくる。


 レオは後ろを見た。

 まだ誰もいない。ただの確認だった。


 先に立ったカリームが、槍を地面に一度打ちつける。

「今日も、頼むぞ」

 レオは何も答えず、ただひとつ、石を握り直した。


 岩壁に沿って光る苔の明かりが、わずかに揺れた。

 エルナは、ふと違和感を覚え、手元の記録板を閉じる。静寂の中で視線を巡らせると、ひとり分だけ気配が欠けている。

 ──いない。


 洞窟の呼吸が、ふっと浅くなる。天井にこだまする水音が、ひとつ遅れて戻ってきた。空気の温度がわずかに下がり、肌の上で冷えの輪郭だけが際立つ。


 眉がわずかに寄る。

「……ミナは?」

 冷静な声色だったが、ほんの僅かな沈みが混ざった。


 マリアが首を(かし)げ、入口の方に目をやる。瞳に淡い光が映り込み、揺れた。

「……さっきまで、ここにいたわよね」

 言いながら、指先で衣の裾を整える。癖のない仕草が、かえって落ち着かなさを隠しきれない。


 クレールは器を置き、細く息を吐いた。

「気配がないわ。……静かに出ていったみたい」

 少し考えるように視線を落とし、言葉を継ぐ。

「今日ずっと、レオとカリームが準備してるのを眺めていたでしょう。……昨日も網を触ってたし、あの子なりに狩りに行くつもりでいたのかもしれない」


 エルナが小さく息を()んだ。胸の奥に冷たい予感がひらく。

「……まさか」

 記録板の角に置いた親指が、無意識に力をこめる。爪の白さが、苔の光で薄く浮かんだ。


 マリアは腕を組み、わずかに顎を引いた。その姿は迷いを隠すための輪郭を作るかのようだった。

「ついていった可能性が高い。この星で育った子だから、歩くこと自体に支障はない」


 短い沈黙を挟み、暗がりを一瞥(いちべつ)する。洞の入口は風もなく、ただ色の濃さだけを増している。

「……それでも、心配よ」


 それは確信というより、嫌な予感に近かった。

 エルナにとってミナは、観察対象。

 発語の癖、視線の揺れ、動作の精度――あらゆる要素を記録すべき対象である。


 ……なのに、今は。

 その姿が見えないことに、言葉にできない落ち着かなさを覚えていた。


 観察対象としてなら、それは想定できる行動だった。

 だが、理屈で納得しても、胸の奥のざわつきは収まらない。

 “子どもの行動を制御できない不安”が、いつになく輪郭を持っていた。


 エルナは黙ったまま記録板を閉じる。

 ──表情は動かさず。けれどしばらく黙したまま洞窟の入り口を見つめていた。

 目を()らすこともなく、ただそこに影を探すように。


 岩場を越えると、湿った空気が広がった。

 足裏に貼りつく泥が、靴底を鈍く重くする。

 水音はまだ遠い。それでも苔の光とは違う冷えが、肌にまとわりついた。


「……なにか、いる」


 カリームが足を止めた。眉がわずかに寄る。

 直後、背後の岩場で、砂がさらりと崩れる音がした。


 ふたりの呼吸が浅くなる。

 その場に沈黙が落ちた。

 風が抜ける音が、一瞬途切れたように思えた。


 カリームの指が、槍の柄に添えられたまま強張(こわば)る。

 レオもまた、石を握り直した。掌に()んだ汗が、じわりと石肌に染みこんでいく。


 耳の奥で脈が速まる。

 岩の隙間から冷えが立ちのぼり、足先の泥が急に重さを増していく。


 ふたりの視線が周りを()めるように走る。

 崩れかけた岩壁。(とが)った石の影。砂をかぶった割れ目。

 太陽の光に照らされるほど、影は鋭さを増し、そこに潜む気配を誇張していた。


 岩壁に貼りついた苔は、昼の光を浴びてもなお鈍く光を返す。

 風に吹かれる草木はなく、耳に届くのは自分たちの息と靴底の擦れる音だけ。

 石の角が肌に触れる錯覚すら覚えるほど、感覚が鋭くなっていた。

 目を凝らせば凝らすほど、影は増える。

 ただの岩の割れ目が、今にもこちらを(のぞ)く目に変わっていく。


 ――その影の奥に、輪郭があった。


 岩肌に反射した光が、不意にそこを照らす。

 人影のように見えた。

 だが、石が転げ落ちると、光は揺れ、輪郭は崩れて消えた。


 レオが息を呑む。

 胸の奥にかすかな痛みが走る。

 静けさの中で、互いの鼓動だけがやけに大きい。


 沈黙は長く、秒針のない時間が引き延ばされていく。

 息を呑むたび胸がきしみ、鼓動の音が石の隙間に反射して返ってくるように思える。

 ほんの一歩を踏み出すことさえ、余計な音を生むのではと足が固まった。

 その静寂を裂くように――


 次の瞬間、砂が崩れ落ちた。

 乾いた音が岩場に広がり、張りつめた緊張を突き破る。


 目を凝らす。

 影がまた浮かび上がる。

 人のような、獣のような、まだ定まらない形で。

 光の反射に合わせて、輪郭は伸びたり縮んだりを繰り返す。


「……っ」

 レオの喉が鳴った。言葉にはならない。


 岩の陰で、小さな気配が動いた。

 小石が転がる。

 今度は、はっきりとした。


 小さな足が、一歩、石を踏んだ。

 音はない。けれど、確かに近づいてくる。


 照り返す光の中で、影は今度こそ逃げなかった。

 肩の線。顔の高さ。細い腕。

 幼い姿の輪郭が、岩影から切り取られるように浮かび上がる。


 目が合った。

 暗がりから、()()ぐに。

 鋭さでも(おび)えでもなく、ただ揺らがない視線だけが二人(ふたり)を射抜く。


 ――そこに立っていたのは、ミナだった。


 肩をすぼめ、こちらを見ていた。足元は静かで、気配を消すように立っている。

 指先だけが衣の裾をつまみ、離そうとしない。


「……おい、戻れ」

 カリームの声が低く落ちた。


 ミナは立ち止まらない。

 小さな足が、石を踏んで近づく。

 呼びかけなど聞こえていないように、視線だけが二人の背を追っていた。


 肩がわずかに揺れる。

 ためらう仕草ではない。

 後ろを歩く子どもが、手を伸ばして荷を支えようとする――そんな気配に近かった。


 足元の砂利が、かすかに擦れた。

 息を吸い込むように胸がわずかに持ち上がる。

 それでも声はなく、ただ目の色だけが真っ直ぐだった。


 カリームの忠告には反応はなかった。

 目だけが動いて、彼らの背中を追ってくる。


 レオはため息をつき、額を押さえた。

「伝わってねぇな……」


 指先が額から滑り落ちる。

 そのまま掌を下げ、カリームと視線を交わした。

 言葉よりも、目の色で足並みを決める。


(わな)だけ置いて、戻ろう」

「……ああ」


 決断は早かった。

 石をひとつ握り直し、肩の荷をずらす。

 ふたりは歩調を速め、水場の方角へ向かった。


 地面に、ひと筋の影が走った。

 レオが腰を低く落とし、岩のくぼみに手を差し入れる。掌が探るのは、あらかじめ()(なら)した土。そこには、少し前に自分でつけた小さな爪痕が残っている。


 横では、カリームが獣道の端を確認していた。背を丸め、膝をついて何かを押し込むように動く。指先は迷わず、繰り返した動きに滞りがない。


 何も言葉は交わされない。

 草が揺れる音と、網が擦れる乾いた気配だけが、静かな空気に混ざった。


 レオが細く息を吐く。

 それに呼応するように、カリームの手が最後の枝を地面に馴染(なじ)ませた。ほんのわずかに浮いていた角が、泥の中へと沈む。


 レオが最後の支柱を押し込むと、(くい)がわずかに沈み、装置の枠が静かに開いた。

 踏み板の先に張られた網が、低く(たわ)む。


 手応えを確かめるようにレオが一歩下がる。 ひとつの瞬間が過ぎる。

 ふたりの目が合った。

 視線だけで確認を取り、足音を立てずにその場を離れる。


 彼らが残した地面には、何の変化も見えない。

 それと同時に、ミナの身体がぴたりと止まった。


 地面の隙間に収まっていた枠が、かすかに撓んだまま静止する。

 網は丸めた状態で抑えられており、重さを分散するための板が、わずかに(きし)んだ音を立てた。


 耳が僅かに揺れた。

 そのまま、肩が沈む。

 重心を落とし、身を(すく)めるように──けれど、視線だけは動かない。

 目は、石の地面を見つめたまま、動きの気配を探っていた。


 音はなかった。

 だが、彼女の呼吸が細く変わったことで、ふたりも察した。

 ひと呼吸の間を置いて、風が変わった。


 湿り気を含んだ空気のなかに、違う気配が混じる。

 草が揺れるのではなく──地面が揺れた。

 遠く、何かが打ちつけるような足音。最初は錯覚かと思えるほど(かす)かな振動だった。


 レオの手が、無意識に石へ伸びる。

 カリームの背がわずかに沈んだ。膝に重心をかける。

 そして──ミナの獣耳がぴくりと動く。


 視線は上がらない。だが、耳と鼻と、皮膚の感覚が研ぎ澄まされている。

 彼女の呼吸が細くなる。

 ぴんと張った弦のように、全身の気配が静まり返る。


 ……間違いない。


 地を(たた)く音が、ひとつ増えた。

 続いて、二つ、三つ。

 乾いた打撃が連続し、こちらへと近づいてくる。重く、速く、真っ直ぐに。


「……来た」


 カリームが低く呟いた。言葉というより、息のような音だった。


 レオが素早く立ち位置をずらし、ミナの前に出る。

 目だけで網の位置を確認しつつ、石を握り直す。


 音が明瞭になった。


 地面を()うような圧が、足元から腹に伝わってくる。

 次の瞬間──


 茂みが裂けた。


 突き出すように現れたのは、以前に一度だけ対峙(たいじ)したことのある、あの異形の獣だった。

 重心の低い体躯(たいく)。厚い皮膚に(うず)もれた目と、牙。

 黒光りする体が、跳ねるようにこちらへ向かってくる。


 そのすぐ後ろにも、影が動いた。

 地面の一角が、ばちんと跳ね上がった。

 網が(はじ)けるように展開し、枠が空中でしなりながら広がる。

 先頭の一体が踏み込んだ瞬間、その脚が引っかかり、重心が浮く。

 獣の体が半ば空中に引き上げられ、土煙の中で激しくもがいた。


 地を擦る音。

 爪が滑り、牙がむき出しのまま暴れる。

 網が沈み、獣の重みが絡まる枝を締めつける。


 だが――。


 次いで、風を割る音。


 斜めから、影が飛び込んだ。

 その突進に、誰もが反応する暇はなかった。


 牙が網の結び目を裂く。

 ほつれた継ぎ目が、外から引きちぎられる。

 もう一頭が、体ごとぶつかっていた。


 網の端が裂けるように引きちぎられ、バラけた枝が跳ね、束ねていた縄が弾けるように飛んだ。

 鋭く反響する金属音が、岩肌を這って空気を裂き、逃げ出した個体が、泥を蹴って反転した。


 土煙が、低く這うように広がる。

 その向こうで、もう一頭の獣が足を止めた。

 前脚を突いて踏ん張り、鼻先で地面を探るように空気を割る。

 呼気が荒く、鼻腔(びこう)から白く熱を吐く。


 罠の網は、まだ脚に絡んだままだ。

 だが、縄の一部は裂け、枝は大きく曲がっていた。

 重みと圧で、木枠がすでに変形を始めている。

 ひとたび暴れれば、()(とど)めていた構造が崩れるのは時間の問題だった。


 獣の肩が、揺れた。

 網を引き裂くでも、逃れるでもなく、ただ間を測るように。

 ふたつの脚で、ぬかるみを踏みしめたまま、周囲の反応を探っているように見えた。

 動かない。けれど、次の瞬間には跳ぶかもしれない。


 網の端が裂けるように引きちぎられ、金具が飛んだ。

 鋭く反響する金属音が、岩肌を這って空気を裂く。


 踏み板の支柱が、ぬかるみに傾いだ。

 もともと即席の材で支えていた構造は、獣の重みに耐えきれず、音もなく沈み込む。

 次の瞬間、網の中央が沈下し、獣の体が一気に抜けかけた。


「チッ……!」


 カリームが反応するより先に、レオが動く。

 ミナの前へ、わずかに身を滑らせる。

 崩れた網の隙間から、別の個体が突進してきていた。

 牙を()()しに、泥を跳ね上げながら──。


 その動きに、ミナの耳がわずかに揺れた。

 頭の位置は動かさず、尾が重心の低さに合わせてわずかに沈む。

 尻尾(しっぽ)が地を這い、次にどこへ跳ぶかを計測しているように見えた。


 (おおかみ)豚の片脚が、網の残骸を踏みつける。

 崩れかけた枝がばきりと割れ、足元に散った。


 カリームが足を滑らせながらも、咄嗟(とっさ)に手斧を抜いた。

 だが、その斬撃が届く前に──

 レオが横から滑り込むように動き、ミナの前に身を投げ出した。


 裂けた網の隙間を縫って、次々と突進してくる狼豚たち。

 そのうちの数頭は、罠の気配を嗅ぎ取ったように回り込み、別の角度から牙を向けていた。


 ミナの耳が、ぴたりと止まる。

 重心を下げたまま、頭だけをわずかに傾けて周囲を探る。

 視線はまだ地面に落としたまま、だが明らかに“囲まれている”ことを理解していた。


 土を蹴った狼豚が、真っ直ぐに突き進んできた。


 カリームは、地面を裂くように一歩踏み込み、腰を落として右肩を(ひね)った。


 ──振り抜く。


 重みのある手斧が、獣の肩口に食い込んだ。


 衝撃音が、腹に響く。


 獣の脚がよろめき、体勢が崩れる。手斧の刃に血がにじみ、肩の筋が跳ねるように揺れた。


 そのまま、反転。


 すぐさま次の個体が泥を蹴って迫る。


 カリームが横に捻り、体勢を入れ替える。その腕が再び振り上げられた――が。


 ガンッ。


 獣の牙が、手斧の柄に食い込んだ。


 骨のように硬い音がした。柄が軋み、次の瞬間には亀裂(きれつ)が走っていた。


「……っ!」


 手斧が外れ、腕ごと弾かれる。


 重心を崩したカリームの足が滑る。泥が跳ね、背後の岩に体をぶつけた。


 泥に足を取られたカリームの身体が、傾いだ。


 次の瞬間、レオの足音が跳ねた。


 振り返るより先に、斜め横から飛び出していた。脚の力だけで地を蹴り、獣との間に滑り込む。


「カリーム、下がれ!」


 声よりも先に、石が(ひらめ)いた。


 構えていた右手が振ると同時に、レオが滑るように横へ跳び、突進してきた一体をかわす。


 反転した勢いで腰の後ろから石を抜き、狙いを定め放つ。

 放たれた石は(うな)るように空気を裂き、獣の肩口を正確に撃ち抜いた。

 鈍い音とともに肉に食い込み、突進の勢いが明らかに鈍る。

 だが、すぐに別の一頭が角度を変えて突っ込んでくる。


「チッ……!」


 レオはすでに次の石を拾い上げていた。

 ただ、数が多い。

 距離を詰める個体。横から回り込む個体。

 ミナの位置、カリームの立ち位置、自分の回避ルート──すべてを把握しながら、反応が半拍ずつ遅れていく。


 一体の横腹を正確に狙いすまし、投げた石が甲高い音とともに当たる。

 ()えるような声が上がり、そいつはよろめいたが、後続が止まらない。


 レオの呼吸が荒くなる。

 体はまだ動ける。狙いも定まっている。

 けれど──手数が足りない。守りきれない。


 その刹那、背後で泥を蹴る音がした。


 カリームだった。

 崩れた体勢から跳ね起き、片腕を振るように手斧を引き寄せる。

 傷んだ刃を無理やり握り直し、反動で一歩踏み出した。


 手斧が、手負いの獣の横腹を狙って唸る。

 避けられても止まらない。

 二(うち)目、三撃目──荒くも正確に重ねられた斬撃が、確実に脚を揺らす。


 獣の背筋が波打ち、怯えがにじんだその瞬間――


 シュッと風を裂く音。

 ミナの手が、布の端を払うように動いた。

 次の瞬間、小さな石が鋭く空を切り、獣の額へと突き刺さる。


 一瞬、時間が止まったようだった。


 解かれた先端から、石が勢いよく飛び出した。

 軌道を読む暇もなく、怯んでいた獣の頭部に直撃する。


 その一瞬を、ふたりは見逃さなかった。

 ミナの石が当たるや否や、レオは重心を低くして横から詰める。

 片手の石を振り抜きながら、もう片方の手で腰のナイフを抜いた。

 刃は獣の脚筋をかすめ、斜めに切り裂く。

 続けざま、カリームの手斧が――傷んだままの刃でもなお、重さを乗せて叩き()まれた。

 肩口に深く入り、骨に当たる鈍い音が響く。

 獣が叫び声をあげ、脚を崩した。


 鋭い音が、空気を裂いた。

 鈍く(うめ)いた獣の体が、大きくのけ反る。

 傷を(えぐ)られた肩口から血が跳ね、後脚が泥を()いた。

 だが跳ばない。(にら)むだけで、一歩、後ずさる。


 ──退いた。


 その判断は、あまりに早かった。

 獣の視線がちらりと周囲を横切り、地を蹴った瞬間には、

 (ほか)の個体も連鎖するように動いていた。

 岩陰から身を起こし、散るように──全員が、逃げた。


 空気が反転する。

 ほんの数秒前まで支配していた圧が、跡形もなく引いていく。

 残されたのは、泥と血と、抉れた足跡だけだった。


 風が、戻った。


 けれど──誰も、すぐには動けなかった。


 レオは膝をついたまま、まだ石を握っている。

 ヘルメット越しの呼吸音だけが、内側に静かに反響していた。

 その振動が、自分のものかどうかも、もう曖昧だった。


 グローブ越しに感じる石の手触りが、妙に重く、妙に生ぬるい。

 濡れているはずはない。けれど、それでも確かに“何か”が指先に残っていた。

 それが自分の熱か、獣の体温か──確かめようもなかった。


 カリームは腰を落とした姿勢で、手斧を引き寄せる。

 片方の腕をだらりと垂らしたまま、深く息を吸い込んだ。

 手斧の刃先がひび割れたまま、泥に埋もれていた。


 ミナは少し離れた場所で、ただ静かに立っていた。

 耳が揺れる。

 それが警戒の名残(なごり)か、安堵(あんど)の震えかは見えなかった。

 けれど、その瞳だけは──まだ、逃げた先を見ていた。

張り巡らせたのは、網よりも深いものだった。


……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえるとうれしいです。


……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。


【整備ログ No.039】

水場周辺にて罠の設置を実行。部分的に作動するも、複数個体の行動により破損。

同時に、観測対象“ミナ”が独自の投擲行動を開始。既知データ外の精度を記録。

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