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グラクラ(Glavity:Craft) ―壊れた世界でも、俺は作り続ける―  作者: はちねろ


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第38話 名のつづきにあるもの

声ではなく、手が先に輪へと入っていく。

 (こけ)の光はまだ、青みを帯びていた。

 昨夜の冷えを残す空気が、岩壁に沿って流れ、足元の石板をしっとりと()らしている。

 誰かが小さく咳払(せきばら)いし、それが天井に反響して返ってきた。洞窟の朝は、音に対して異様に敏感だった。


「ここを中心に動くってんなら、もう少し暮らし寄りに作り替えるべきだな」

 カリームが壁際の工具棚を指差す。重ねた金属板がぎしりと鳴いた。


「寝床も調理も、毎回場所が変わるのは不便だしね」

 クレールが薄いパネルを畳みながら応じた。


「……拠点、って言葉が似合うようには、なってきたかもな」

 レオの声には冗談めいた調子が混じっていたが、言葉はまっすぐだった。


「焼き場、固定しちまうか?ミナも気にして見てたし」

「道具置き場も変えるか……あの子の手が届くとこに」


 言葉はやがて、誰に向けるでもない提案になり、

 それでも全員が、なんとなく同じ方向を見始めていた。


 そのわずか後方で、金属音が断続的に響く。


 壁際の簡易端末に、ひとつだけ明かりが(とも)っていた。


 エルナが記録用の入力装置を指先でなぞり、酸素密度と湿度の微変を記録している。

 だが、指の動きは数値よりも──音に、反応していた。

 金属が()()う音、工具の擦過音、それが整ってきたとき、彼女の目だけが、静かにそちらを向いていた。


 言葉のやりとりはなかった。けれど、その場の誰もが、

 そのふたり──優司とミナが何をしているのかを理解していた。


 優司は無言で部品を押さえ、ミナはそれに呼応するように工具を選ぶ。

 目線すら交わさないまま、ふたりの手は迷いなく動いていた。


「……スパナ、」


「その金具、もう(ゆが)んでんぞ」

 カリームがぽつりと漏らす。レオが(のぞ)()みながら言い返す。


「気のせいだろ。見る角度による」

「歪んでるものは、どの角度でも歪んでるんだよ」

「うっせえな。じゃあ、お前が削れ」


 ふたりのやり取りが、作業台越しに投げ合われる。

 苔の光が揺れていた。


「……十七ミリ」


 ミナの瞳が、ごくわずかに揺れた──工具の音に、視線が反応する。


 独り言のように(つぶや)かれた声に、誰も返事はしない。

 ただ、その隣に、小さな影がひとつ。


 ミナは、何も言わなかった。

 膝を抱えるわけでもなく、立ち上がるわけでもなく、優司の手元と工具の動きを、黙って見ていた。眼差(まなざ)しは深く、何かを測っているようで、それでいて無防備だった。


 ふと、工具の音が()んだ。


 ミナが、じっと優司の動きを待っている。


 彼女の尻尾(しっぽ)が、ごくわずかに揺れた。それは、音の代わりに交わされる応答のようで、わずかに緊張した空気を和らげた。


「……興味あんのか?」


 その声に、誰も(こた)えなかった。

 代わりに、作業台の向こうでクレールが小さくぼやいた。


「……また温度、下がってる。これじゃ発酵が止まるわ」

「お前、それまだやってんのかよ」

 カリームが笑いながら腰を上げ、鍋のあたりを指差す。

「上から岩でも乗せときゃいいだろ」

「それで壊れたら、今度はあなたが食料作るのね?」

「はいはい、俺が悪いです」


 そんなやり取りの裏で──


 返事はなかった。

 けれど、耳がほんのわずかに揺れた。


 優司も、ただ静かに、別の部品に手を伸ばすだけだった。


 ──それだけの、ささやかな光景。


 レオは小さく鼻を鳴らし、手元のパーツ箱を引き寄せた。


 誰も声をかけないまま、作業だけが続いていた。

 だが、空気のどこかに、確かな予感があった。


 ──カチリ。


 最後の留め具がはまり、優司の指が離れた。

 簡素な金属筐体(きょうたい)から、かすかに熱が()(あが)り始める。


「……できたか」

 レオが腰を上げる。

「動くか試すぞ、クレール、これ──」

「断線はない。電圧も許容内。()けていいわ」

 返す言葉より早く、クレールは確認を終えていた。


「よし」

 カリームが腕を伸ばし、器具を持ち上げる。

「このくらいなら調理に使える。肉、あるな?」

昨日(きのう)の残りが少し。スライスでいこうか」

 マリアがパックを取り出し、焼き台の近くに並べた。


 その一連の動きのすべてを、ミナが目で追っていた。


 その様子を、端末越しに見ていたエルナの目が、ごくわずかに細められる。

 彼女の指先は止まっていた。ログの入力が数秒遅れて、別の文字が入力される。

 ──違う、と静かに打ち直す。

 観測すべきは、温度でも電圧でもない。

 ミナの目線。耳の向き。呼吸の間。

 そこに生きた反応が宿っている限り、この場の設計は正しい。


 音も、手の動きも、熱の変化も――耳と尻尾が、わずかに揺れた。


 誰も、彼女に指示はしなかった。

 けれど、ミナは道具棚に足を運び、トングのような金具を静かに差し出した。


「……おう」

 カリームがそれを受け取り、軽く笑った。

「準備、(はえ)ぇな」


 試作された小型の電熱器は、まだ仮設だった。


 平らな岩盤に置かれた金属板の下では、バッテリー式の熱源がかすかに(うな)っている。固定用の留め具は間に合わせの針金で締められ、放熱と安全距離を取るための脚台も、切り出したパイプの一部だった。


「……火力は、これぐらいで抑えていいのか?」

 レオが眉をしかめ、優司に確認する。


「……切れ端のやつ、そっち」

 優司は目線も向けぬまま、軽く指先だけで示した。

 レオが慌てて拾い上げ、手際よく渡す。


「最初から全開にすると、バッテリーが焼ける。分割加熱で調整する」


「……やべぇ、マジで勉強になるな」


 その声に、クレールがちらと視線を向けた。

「……珍しく、素直ね。(うれ)しそう」


 レオは気まずそうに鼻を鳴らし、工具をひとつ戻した。

「うるせぇな」


 工具をひとつ戻しながら、彼は金属の表面に指を滑らせ──

「──あっちぃ」


「当たり前だろ」

 クレールが遠くから(あき)れた声を飛ばす。


「ほら、切れ端のやつ、そっち」

 優司が顎で示すと、レオは小皿のような金属プレートをつまみ、薄く切った肉片を一枚、熱源の上にそっと置いた。


 すぐに、油がわずかに(はじ)けた。


 じり、じり……という微細な音が、洞窟の奥に染み込んでいく。

 苔の光に照らされて、表面の色がゆっくりと変わっていった。


 ミナの耳が、ピクリと揺れた。


「……あのときも、耳だけ向けてた」

 クレールがぼそりと呟いた。


 視線が、皿の上の肉に吸い寄せられる。

 立ち上がりはしない。けれど、尻尾がほんのわずかに持ち上がった。


「あー、見てる見てる」

 レオが(ささや)くように笑う。


「やっぱ好きなんだ、これ」


「……気づくの遅すぎ」

 クレールがタブレットを閉じながら呟いた。

「前にこれ焼いたときも、耳だけめっちゃ動いてたわよ」


「へえ。分かりやすいな」

 レオがちらりと視線を向けた。ミナは無言のまま、じっと肉の焼ける様子を見ている。

 その横顔は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「……好きなんだ?」


 そっと問いかけると、ミナはわずかに──ほんの少しだけ、首を傾けた。

 肯定とも、否定ともつかないその仕草に、レオが息を抜く。


「……そうかい。なら、もうちょい焼くか」


 その言葉のすぐあとだった。


「またあれ、取りに行くか」


 あの牙、悪くない。刃にできる──重さもあるし、芯も通ってた」


 レオが振り返る。「“あれ”って……あの狼豚(おおかみぶた)みたいなやつか?」


(ほか)にいないだろ。あの牙と脚力。下手(へた)すりゃこっちが狩られるけどな」

「まあな。あれだけ筋張ってて、この脂の出方……なんかもう反則だよな」

 レオが、焼けた肉を裏返しながら言う。「クセも臭みもないし。普通にうまい」


「……よし、次はちゃんと準備して行く」

 カリームは真剣な顔でつぶやく。

「武器も足りてない。あの牙、こっちが使ってやるぐらいじゃなきゃ、損だ」


(わな)も欲しいな。群れだったら、正面からやり合うのはリスク高い」

 クレールが軽く腕を組んだ。


「優司、あとで時間あるか?」

 レオが声をかける。

「狩り用のクラフト──武器、道具、話そうぜ」


 工具を片付けながら、優司はわずかに(うなず)いた。


 洞窟の空気は、焼いた肉の香ばしさに満たされていた。岩壁の間を抜ける匂いが、湿り気を帯びた空気と交じり、ほんのりと甘く、喉の奥を刺激する。


 クレールは膝にメモパッドをのせながら、調理プレートに視線を落とす。鉄板の上で焼かれているのは、昨日仕留めた“狼豚”の薄切りだ。


「……見た目と違って、脂があっさりしてるのね。もっと獣臭いかと思ったけど」


「高温で焼くと変わるのよ。表面を一気に閉じて、水分と臭みを逃さないように」


 静かに答えたのは、マリアだった。手元でフライ返しを使い、肉の端を滑らかにひっくり返す。動きに無駄がなく、リズムも乱れない。だが、それを“上手(うま)い”と評する者はいない。むしろ、あまりに自然すぎて、いつから焼いていたのかすら分からなかった。


「……マリアって、なんでもできるのね」


 レオがその言葉に乗るように、手を拭きながら近づいてきた。

「な。黙ってたら普通の軍人かと思うだろ?」

「実際、黙ってるから正体不明なんだけど」

 クレールが即座に返すと、レオは肩をすくめた。


 ぽつりと呟いたクレールに、マリアは視線を向けない。肉の焼き具合を確かめながら、ごく淡く微笑したような気がした。けれど、それもたしかではなかった。


 ミナはというと──


 目の前の鉄板を、じっと見ていた。音もなく、背筋をまっすぐ伸ばし、焦げ目のつきはじめた肉から目を離さない。その瞳は、まるで獲物を見つめるように鋭く、だがどこか、懐かしさを含んでいた。


「……好きなのね、肉」


 クレールが静かに(たず)ねると、ミナは首を小さく縦に振った。それだけだったが、耳の先がほんのわずかに赤くなっていたのを、誰かが見ていたかもしれない。


「でも、昨日の部位は脂が多かったから、今日(きょう)は赤身にしておいたわ」


 マリアはそう言いながら、ひとつ焼きあがった切り身を、ミナの皿にそっと移す。


 その瞬間、ミナの耳がぴくりと動いた。

 言葉ではなく、反射のように。


「そういうの、狙ってやってるの?」


 クレールがぼそりと問うと、マリアは肩をすくめるように軽く息を吐いた。


「習性よ。観察と反応。それだけ」


「……まったく、奥が深すぎて見えないわ」


「……なのに、ミナは見てるのよね。ちゃんと」


「それが一番安全な生き方なの」


 短い言葉の奥に、どこか遠い記憶のような響きがあった。


 クレールはその余韻を追わず、話題を切り替える。


「で。肉はいいとして、今後の話。あれだけミナが気に入ってるなら、もう一度狩りに行くとして──必要なのは?」


「じゃあ、こっちで狩りの武器と道具を固めておこう」


 マリアが静かに応じると、背後の荷物から、仮設の素材メモを取り出す。


「その話、こっちも同じこと考えてた」

 カリームが空の器を片手に、手近な岩に腰を下ろす。

「もう一回、あの獣狙うなら、今回は準備万端でいこうぜ」

「武器と道具、改めて(そろ)(なお)したい」


「罠か、武器か、それとも誘導手段か。どれかに特化したほうがいい」


 優司が、手元の工具をひとつ戻しながら、ぽつりと呟いた。

「移動距離と足場を考慮すれば、誘導型が安全だろう。罠との連携ができるなら、なお良い」


 食器を置く音がひとつ。

 マリアが静かに頷き、隣でスープの温度を見ていた。


「……それは、カリームたちに相談ね」

 少しだけ視線を横に滑らせながら、言葉を添える。


「でも、最終的に“どう使うか”は、皆で見て決める」


 カリームは黙って、肉の端をナイフで切り分けていた。

 クレールは湯気越しに視線をあげ、その言葉を受け止めるように瞬きをひとつした。


 答えはなかった。

 だが、ほんのわずかな光だけが──その瞳に、残っていた。


 クレールは、膝の上のパッドにメモを書き込みながら、ふと隣を見た。


 ミナは──肉を食べていた。


 静かに、きちんと、真剣に。

 一口ごとに、時間を確かめるように咀嚼(そしゃく)し、最後のひと切れを飲み込むまで、指一本動かさなかった。


「……あの子が笑うの、やっぱりこれが一番早いわね」


 クレールの呟きに、マリアもまた、軽く頷いた。


 生きるということは、食べること。

 ただ、それだけの話なのだ。

 それぞれの手には、皿や工具や端末。

 食べながら、話しながら、次の行動の輪郭が、静かに形を取りはじめていた。


 レオが口を開いた。


「素材が必要なら、そろそろ仕掛けも強化しないとな。──罠、武器、どこまで作る?」


「刃物がいるな。現地の石じゃ耐久が足りない。優司、刃物用の金属、まだ残ってるか?」


「──少しなら。融点の高いやつを使う」


 優司の短い返答に、カリームがうなずく。


「柄は俺が削る。重くていい。あいつら、速いし硬い」


「ってことは、罠は足止め用にして、仕留めるのは近接か?」


 レオの問いに、クレールがデータ端末を見ながら補足する。


「以前の個体、体高約110センチ、全長は160。後肢(あとあし)が強く、跳躍力ちょうやくりょくが高い。ネットで止めるなら、バネと張力調整が要る」


「じゃあ、巻きつけるワイヤー式にしよう。木に固定して、踏んだら絡むやつ」


「それって、材料どこから引っ張る気よ?」


 マリアが初めて口を開いた。声は静かだが、視線は鋭い。


「金属部材を解体すれば使える。冷却ラインの古いやつを──」


「ダメ。あれは予備機の接続管。切ったら他の作業に支障が出る」


 その言葉に、レオとカリームが同時にうなった。


「……やっぱ女はこえぇな」


「論破力、鋭すぎる」


「論破じゃない、事実の整理よ」


 クレールが即答したあと、さりげなくミナを見やった。少女は黙っていたが、先ほどの肉の話を聞いていたらしい。口元が、ほんのわずかに動いた。


「じゃあ、ワイヤーじゃなくても──」


「網状の繊維ならどう? 耐久は落ちるけど、軽くて広がる」


 再びマリア。軽く指で空中に図を描くように動かしながら続けた。


「織りを変えれば、引っ張るときだけ抵抗が強くなる構造にできる。漁網と同じ理屈」


 レオが驚いたように眉を上げた。


「……そういうのも知ってるのか?」


「少しだけ。任務でね」


 それ以上は語らなかったが、声の響きに余裕があった。


「じゃあ、材料とりまとめて、明日(あした)から作るか」


「俺が刃物と(やり)。マリアは罠系」


「設計は私が書いておく。引っ張る負荷と跳ね返り力、計算し直しておく」


 クレールが端末に指を走らせる。そのすぐ脇、ミナが──小さく、手を挙げた。


「……」


 声は出さなかったが、指先は狩猟網のイメージ図に触れ、首を(かし)げた。


「……興味、あるのか?」


 カリームの問いに、ミナはわずかにうなずく。

 そのとき、ひとりだけ、端末を閉じた者がいた。

 エルナは何も言わず、ミナの手元と、イメージ図の重なりを見ていた。

 どの段階で覚えたのか、どの言葉で理解したのか──そんな推定は、不要だと判断していた。

 ただ、“今そこにいる”という事実が、何よりも正確なデータだった。


 誰も笑わなかった。むしろ全員が自然と、そこに“居る”ことを当たり前のように受け入れていた。


「……じゃあ、網はこっちでやるとして」

 カリームが腰を上げ、作業スペースに目を向ける。

「発射のほう、頼めるか? 投げ網ってわけにもいかないよな」


「……そうだな。無理だ」

 優司は短く答え、端末を引き寄せた。

「この重力で投げ網は使えない。網自体の重量が増す。広がらない。飛ばない。打ち手が死ぬ」


「言いすぎだろ」

 レオが笑うが、返事はなかった。

 優司はすでに、設計画面に線を引き始めている。


「装置で展開させる。跳ね上げ式がいい。広がりと安定性を両立できる。

 ……設置面は広く取る。反動を吸収しないと暴発する」


「さすが、もう考えてたのか」

 クレールが静かに呟くと、レオも苦笑して肩を(すく)めた。

「毎度のことだけどさ……言い方だけが惜しいんだよな」


 その会話のすぐ横で、ミナが静かに立ち上がった。


 音を立てず、そっと優司のそばに移動する。

 彼の手元をのぞき込むでもなく、図面の内容を尋ねるでもなく──ただ、そこにいた。


「……8ミリのフレアナットリムーバー」

 優司が独り言のように呟いた瞬間、ミナの手が迷いなく動いた。

 指定の工具が、まるで予備動作のように差し出される。

 優司はそれを受け取り、ためらうことなくビスを締める。

 そしてその瞬間、次の部材が、やはり無言で彼の手元に滑り込んだ。


 呼吸も、視線のやりとりもない。ただ、必要なものが、必要なタイミングで渡される。

 その動きは──精密だった。あまりにも。


「……待って、いまの何?」

 レオが思わず声を漏らす。

「おいおい……」


 その言葉に、クレールがふと顔を上げた。

「……工具名、教えてないわよね。あの子に」

「うん。俺、聞いた覚えない」


「……名前の次に覚えるのが工具って、順番どうなってるの」

「語彙獲得の順番が、意味不明よ……」


 レオが苦笑まじりに頭を()く。

 優司は、何も言わなかった。

 だがその口元だけが──ほんのわずかに、動いた。


 目も合わさないまま。けれど、その手には一切の迷いがなかった。

 クレールは視線を戻す。エルナもまた、無言のまま作業の音を止めていた。


 ──やがて、優司の手が止まる。

 仮設の設置台に試作の支柱が固定され、網を広げるための張力計算にも目処(めど)がついた。


「……これでいい。広がるはずだ」

 そう小さく呟くと、優司はふと隣を見る。


 だが、ミナはもういなかった。


 いつの間にか彼の手元を離れ、少し離れた資材置き場へと向かっている。

 マリアとカリームが準備していた網の繊維を、黙って手に取った。


 誰も声をかけなかった。

 ただ、彼女がそこに“加わる”ことを、当然のように受け止めていた。


 素材の繊維を広げていると、ミナがふらりと近づいてきた。

 言葉はなかった。ただ、端にあった一本をそっと手に取り、指で()り合わせるように整える。

 誰も止めなかった。ミナの動きは、不自然なものではなかったからだ。

 ──まるで、それが日常だったかのように。


 クレールがふと、その手つきを見て目を細める。

 何かに似ている。遠い記録の中にある、猟の支度風景。

 きっと、網も使っていたのだろう。

 それも──母の隣で。


 誰も何も言わなかった。

 だがその仕草だけが、過去を物語っていた。


 その手が、かつての風景を思い出させるように――

その小さな手は、名前のあとに、何を覚えたのだろう。


……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえると、うれしいです。

……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。


【整備ログ No.038】

電熱器の稼働により、拠点内の調理活動が安定。

ミナは工具名の識別と、網素材の補助作業に自然に加わる。

言葉を介さずとも行動が交わされる状況は、暮らしの中の“輪”の形成を示す。

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