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グラクラ(Glavity:Craft) ―壊れた世界でも、俺は作り続ける―  作者: はちねろ


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第37話 二音のひかり

静かな朝に、声がひとつ落ちた。

 朝の洞窟には、火の音が似合う。


 熱交換器の脇で、水がゆっくりと沸き始めていた。まだ白くなりきらない湯気が、岩肌に沿って、()でるように立ちのぼる。

 その傍らでは、金属の(きし)む音が断続的に響いている。床材の調整か、それとも接合具の確認か──誰も声を荒げることはなく、作業の音と、足音と、水音だけが、洞窟を穏やかに満たしていた。


 この惑星で、静かな朝が訪れるようになったのは、ごく最近のことだ。


 火を燃やさずに湯が沸く。機械はうなり声を上げず、ただ必要な仕事をこなす。

 呼吸に不安がない朝は、それだけで一つの奇跡に近い。

 それでも、誰も浮かれてなどいない。皆、同じように黙って働いていた。


 岩棚の奥では、マリアが熱分散パネルの数値を確認していた。淡い光が彼女の頬を照らし、紫がかった瞳が一度だけ瞬いた。

 そのそばに(かが)む優司は、工具をいくつか並べ直しながら、小さなスパナの接続部を手のひらで転がしている。

 無言の作業。それでも、彼の目は明確な目的に向かっていた。


 奥の通路では、レオが何かを引きずっていた。床材か、それとも昨夜運び込まれた資材だろう。

 音はするが、(しゃべ)らない。カリームの足音が続き、その重みで洞窟の空気がわずかに揺れる。

 二人(ふたり)とも、早朝にしては珍しく無言だった。

 けれど、不思議と重苦しさはない。ただ、空気が静かなだけだった。


 ──静かだが、動いている。


 少女──いや、ミナ。

 名はもう知れている。昨夜、彼女自身の声で静かに告げられた。

 誰も問いたださなかったが、その音は確かに、この洞窟の中に刻まれた。


 ただ、朝になってもその名を口にする者はいなかった。

 名を知るということと、それを呼ぶということは、少しだけ違う。

 呼べば、その音はこの空間に混ざり、彼女という存在に、ひとつの“位置”が生まれる。


 その位置を、どう与えるべきか──皆が決めかねていたわけではない。

 ただ、沈黙のままでも日常は流れていた。


 ミナは、誰よりも早く目を開け、床の一角で膝を抱えていた。

 まだ誰も名前を口にしない朝。

 けれど──


「……ミナ、これ、こっち持ってきてくれ」


 自然すぎて、一瞬、誰も反応しなかった。

 優司の声だった。


 呼ばれた本人は、すぐには動かなかった。

 その言葉が、自分を呼んだのだと、確信が持てなかったのかもしれない。


 だが──優司が視線をわずかに動かし、指先で目の前の部品を示した。

 声よりも、そちらの仕草の方が、彼女には届いた。


 ミナの目が、その指先を辿(たど)り、動きを止める。ほんの一拍。

 そして、静かに立ち上がった。手にしていた容器を一度置き直し、もう片方の手でそれを拾い上げる。


 ──音が、しない。


 地面を踏みしめるでもなく、浮かぶでもなく、滑るように。

 彼女の足取りには、一切の揺らぎがなかった。

 細い岩の割れ目も、沈んだ床材の上も、その歩みは滑らかに流れていく。

 水を運ぶときも、道具を運ぶときも、重さという概念そのものが、彼女の身体からは抜け落ちているようだった。


 けれど、それを“特別”と思う者はいなかった。


 人とは違う。それは事実だったが、誰も驚かない。

 彼女はそういう存在であり、それはただの現実だった。

 むしろ──その自然さが、もう一つの“当たり前”として受け入れられつつあった。


 ミナが容器を優司に手渡す。

 その瞬間、彼は工具の手を止め、わずかに顔を向けた。


 ほんの少し、だけ。


 ふだんの彼なら、目も合わせない距離だ。

 それでも今、彼の目がミナをとらえ、口元がわずかに動く。


「ありがと」


 その声に続けて、彼は少しだけ口角を上げた。

 言葉と笑み、どちらが先だったかは、誰にもわからない。

 けれど──確かに、そこには柔らかな肯定があった。


 ミナは、首を傾けるようにして優司を見つめた。

 何かを理解したわけではない。ただ、その空気を受け取ったように見えた。


 そして、再び無言のまま作業に戻っていった。


 その背には、ほんのわずかな硬さが残っていた。

 優司に道具を手渡したあの瞬間、ミナの中には(かす)かな“間”が生まれていた。

 喜びでも不安でもない。ただ、普段と違う何かが起きた──その感触が、手のひらにうっすらと残っているかのようだった。


 彼女はそれを振り払うでもなく、かといって、抱きしめるでもなく、ただ、歩いた。

 あたたかい石の上を歩くような、気配を確かめながらの足取りだった。


 器を持ったまま、ミナはゆっくりと歩いていく。

 足音は相変わらずない。岩肌の起伏を避けるでもなく、まるで生まれたときからここを知っていたかのような足さばきだった。


 腰を落とすときの動作も、やはり音を立てない。

 手元で器を支えたまま、少しだけ周囲に目を配る。

 誰も彼女を見ていなかった。カリームは手斧(ちょうな)を使い、太めの枝を削っていた。

 レオは遠くで何かを持ち上げ、壁際に立てかけた。

 誰も“ミナが動いた”ことに注目しない。だが、それがかえって自然だった。


 ──もう、“目新しさ”ではないのだ。


 ミナが器を置く。

 その動きも、手馴(てな)れているというより、本能的に静かだった。

 爪先の向き、手首の角度、重心の移し方──その一つひとつに、言葉では説明できない感覚の精度があった。


 置いた器のふちに、ほんの少しだけ指を()わせるような仕草を見せた。

 まるで何かを思い出すかのような動きだったが、それが癖なのか、意識的なものなのかは誰にも分からなかった。

 その手はすぐに膝の上に戻り、静かに指先を組む。

 動作の端々に、どこか動物的な間がある。

 人間の子供には見られないような、呼吸と神経の繊細な間合い。


 だが、誰もそれを不思議とは思わない。

 彼女は彼女であり、その身体は、ここにある“自然”の一部なのだと。


 ……水が沸く音が、少しだけ強くなった。

 熱交換器の金属がわずかに軋み、洞窟の奥に小さなこだまを落とした。


 その音と、空気と、誰かの呼吸と一緒に──

「ミナ」という音は、何気ない会話の端に、ゆっくりと混ざり始めていた。


 その日、ミナという名前は、作業の音の隙間に少しずつ混ざっていった。


 最初はレオだった。

 工具箱を持ち上げながら、自然にこう言った。


「……あ、それミナが運んでくれてたやつか」


 誰に語るでもない、独り言に近い(つぶや)きだった。

 けれど、その音にはどこか“確認”のような響きがあった。

 何かを探るのではなく、すでにそこにあると信じているものに対して、名前を添えるような声。


 ミナはその場で手を止め、ちらりと視線を向けた。

 目が合ったわけではない。レオの方も、こちらを見ることなく、資材を棚に戻していた。


 ──でも、音は届いていた。


 そのあとすぐ、カリームが木材の束を床に下ろすとき、ひとことだけ言った。


「そっちは、ミナが置いたやつだ。()れてねえ方な」


 まるで最初から決まっていた順序のように。

 誰に聞かせるでも、指示でもない。ただの確認。それでも名前がそこにあった。


 誰かがあえて意識してそう呼んでいるわけではない。

 だが、その音は確かに、洞窟の空気の中に根を張り始めていた。


 ──名が、音として定着していく。


 優司は相変わらず黙々と作業を続けていたが、その背中は少しだけ柔らかく見えた。

 道具の受け渡しはもう何度か交わされていた。

 ミナが必要な部品を見て、周囲の動きから優司が次に使うものを“読む”。

 わずかな視線と、道具の置き方だけで、呼吸が合いはじめていた。


 ミナ自身の動きにも変化があった。


 たとえば、しゃがむとき。

 以前は岩に指をかけるように体を支えていたのに、この日は腰を下ろす前に、一度だけ周囲を確認していた。

 視線で、どこに誰がいるのかを確かめ、作業の邪魔にならない位置にそっと腰を落とす。


 誰も教えたわけではない。

 けれど、その配慮は確かに“仲間としての間合い”だった。


 それを見ていたのは──クレールだった。


 光苔ひかりごけの前に設置された端末の前で、彼女は数字と図形の並ぶ画面を見つめていた。

 だが、入力する手は止まり、いつの間にかミナの動きを追っている。


「……早いわね」

 そう口にしたのは、声というより息に近かった。


 マリアはといえば、炉の隅で温度制御の値を再調整していた。

 その手は正確で、数値は常に基準値を保っている。

 だが一度だけ、彼女の指が止まり、視線が短く揺れた。

 目の端でミナの動きを追い、それに合わせて端末を少しだけ右へずらす。

 置かれた器と作業スペースの干渉を、何も言わずに回避するように──それは、誰よりも自然な受け入れの形だった。


 エルナもまた、少し離れた場所でサンプルの整理をしていたが、何も言わなかった。

 ただ一度だけ、ミナの歩き方に合わせて、意識的に酸素濃度を記録した。


 笑っている者はいない。

 けれど、誰一人(だれひとり)として“ミナを客体”として見ている者もいなかった。


 ──それが、この朝の正しさだった。


 水が、再び沸いた。

 小さな音が洞窟に広がる。工具の音と、金属の軋み。

 その間を縫うように、名前が音として浸透していく。


 ミナはその中心にいた。

 けれど、中心にいることを彼女自身は知らない。

 ただ、与えられたわけでも、命じられたわけでもない動作を、丁寧に繰り返していただけだった。


 水音が、徐々に遠ざかる。

 金属の軋みも、道具のぶつかる音も、ゆるやかに奥の空気へと押しやられていく。


 ミナは、器を一つ手に持って歩いていた。

 洗うわけではない。ただ、洞窟奥に置かれた水場の近くに、静かにそれを戻す。


 そのまま、戻ってもよかった。

 けれど彼女の足は、ほんのわずかに遠回りする。


 光苔の群れ──この洞窟の最も深い場所、ひっそりと生えている光の胞子たち。

 近づけば、足音が吸い込まれるように静まり、息遣いすら淡くなる。

 濃密な青白い光が、壁と天井の水膜に映り込み、空間全体が柔らかく脈打つように揺れていた。


 ミナはその中央で立ち止まった。

 手にはまだ器を持っていたが、それを下ろすわけでもなく、ただ見上げる。


 名を呼ばれた音が、今も耳の奥に残っていた。

 レオの声。カリームの声。

 意味はわからない。それでも、“その音”が、自分を指していたことはわかった。


 湯が沸く音と、道具の音と、歩く足音の中に──

 ミナという音が、(ほか)の音と同じ重さで流れていた。


 誰も、特別な顔をしなかった。

 誰も、近寄りすぎなかった。

 けれど、誰も、遠ざけることもなかった。


 ミナは光の中で、小さく、息を吐いた。


 そして──笑った。


 ほんの一瞬、唇の端が緩み、頬がわずかにゆれる。

 誰にも見せるつもりのない、小さな、小さな笑みだった。


 ミナの笑みは、光の中でそっと(こぼ)れた。

 その瞬間、誰も声を発さなかった。

 遠くの通路の奥に、かすかな気配があったかもしれない。

 けれど、彼女は振り返らなかった。

 光苔のゆらぎだけが、笑みを知っていた。


 名前が呼ばれるたび、ひとつずつ居場所が増えていく。

 その名前は、今日(きょう)も音のなかに溶けていく。

そのひかりは、もう名と離れなかった。


……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえると、うれしいです。


……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。


【整備ログ No.037】

識別呼称、全個体が習得済み。

音声と視線による呼応率が安定。

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