第36話 宵鳴の唄
薄い冷えのなかで、手だけが答えを出す。
洞窟の空気は、ひと月前よりも静かだった。
外の風が運んでくる匂いも、日ごとに薄くなっている。湿った土の匂いよりも、今は乾いた石の肌にこびりついた冷気のほうが強い。奥の光苔は、昼でもわずかに青白く揺れ、照り返す壁面の色をやや冷たく見せていた。
床の中央では、カリームとレオが厚板を並べていた。
丸太から削り出した板はまだ表面が荒く、削り屑が足元に散っている。カリームが片端を押さえ、レオが手動カッターを押し込むたび、低く擦れる音が響いた。
「もう少し、右寄せたほうが水平だ」
カリームの短い指示に、レオが頷く。汗の筋が頬を伝い、顎先で光を跳ね返した。
その脇では、優司が道具箱の中身を点検していた。
燃料式のドライバーや切断具の軸を外し、潤滑油を差し込む。部品はすべて重量二倍のため、一本のスパナですら地球での倍近い重さを持つ。だが優司の手つきは変わらず一定で、必要な力だけを的確にかけて締め直していく。
時折、背後から聞こえる金属の擦れる音に反応し、首だけをわずかに向けた。
炉の側では、マリアが端末を片手に計器を確認していた。
稼働時間と温度変化、安定化装置の作動ログを追いながら、細い指で数値を打ち込む。視線は計器に向けたまま、耳は炉の低い唸りと周囲の作業音を拾っている。
彼女の立ち位置は、炉と優司、両方が視界に入る絶妙な位置だった。
クレールは負傷した足を伸ばしながら、収納棚の中身を整理していた。
棚板ごとに工具と食料パックを分け、重量バランスを調整する。背後の壁には外気測定装置が据え付けられ、定期的に低い電子音が鳴る。
彼女はその音の間隔を耳で測り、記録パッドに数字を移す。冷静で無駄のない動作だった。
そして──その全員を、少女が見ていた。
壁際、薄い苔の光が届くぎりぎりの位置。膝を抱えた姿勢で、視線だけを動かしている。
距離はある。それでも、全員の動きを追える範囲だった。
何かを測るように、何かを比べるように、視線が順に巡っていく。
この時間帯、洞窟の中は安定している。
外気はすでに薄く冷え、湿度も下がってきている。酸素量は人間にとってぎりぎりの許容範囲だが、炉の廃熱が拠点を支えていた。炉のそばはわずかに温かく、離れれば冷たい石の感触が足元から這い上がってくる。
誰も少女に声をかけない。
それは避けているのではなく、もう決まり事のようなものだった。彼女が自分から近づくまで、無理に距離を詰めることはしない。
だから作業の音だけが重なり、時間はゆっくりと流れていく。
板を削る音、工具の金属音、炉の低い唸り──それらがこの拠点の呼吸だった。
少女の膝の上には、小石が三つ並んでいた。
削れた角や色の違いを指先でなぞり、時折、位置を入れ替える。
それは遊びというより、確かめる作業のようだった。
指が止まるたび、彼女の視線はまた誰かの背中へ移る。
外から微かな振動が伝わってきた。
地表のどこかで、大きな岩が崩れたのかもしれない。
洞窟の天井に吊るした計測器がかすかに揺れ、光苔の粒が影をわずかに乱した。
だが誰も手を止めなかった。揺れが大きくないことを、経験で知っていたからだ。
優司は工具を一度置き、炉の排気管に手をかざした。
温度の変化を確かめ、わずかに顎を引く。その仕草を、少女は見逃さなかった。
マリアは計器の数値をスクロールし、短く呼吸を整える。
レオとカリームは板を敷き終え、立ち上がって肩を回す。
クレールはひと息だけ長く吐き、整理した棚を閉じた。
最近は宇宙服の軽装モードで過ごす時間が増え、合図は言葉より身振りを多用するようになった。
言葉にすれば届くはずのことも、空気と視線で足りるならそうする。
声は酸素を使う。重力は余計な動きを奪う。
だから、この惑星に順応するため、拠点を作る際には必要最小限の工夫の音だけだった。
通路の奥から、金属を叩く乾いた音が響いた。
洞窟の湿った空気の中、その響きだけがやけに澄んで聞こえる。
優司が持ち込んだ工具の箱は、もう半分以上が使われている。
カリームは無言で木材を押さえ、レオがその横で寸法を測りながら印をつける。
狭い作業場の中央には、すでに切り出された板が並んでいた。床板になる予定のものだ。
「……これで三枚目だな」
レオの声が、湿った空間に低く落ちる。
その声を合図に、カリームが板を持ち上げ、入口側へと運んだ。
この重さの環境にもかかわらず、その動きは安定している。筋肉ではなく、重さに馴染んだ体の使い方だ。
作業場の隅、苔の光が淡く揺れている。
そこに、少女は座っていた。
視線は時折作業のほうへ向くが、すぐに苔の粒に戻る。
何を思っているのかはわからない。けれど、その目の動きは以前よりも長く仲間たちを追っていた。
「おい、そっちはもう寸法合ってるぞ」
前方でレオが声をかける。
彼は工具を片手に、先に敷いた板の端を軽く蹴り、歪みを確認していた。
「わかってる」
短く返すと、カリームは板をそっと下ろし、端を合わせるように位置を調整する。
金属製の固定具を拾い上げたレオが、くい、と顎で示した。
「もう少しで、一列分は張れる」
カリームの声に、優司が短く頷く。
彼は床下の支柱を点検していた。指先で木目をなぞり、締め付け具の歪みを確認する。
その無駄のない動きに、少女の目が一瞬だけ止まった。
外の気配は静かだった。
火事の跡は湿り、焦げた匂いもほとんど消えている。
それでも洞窟の奥は薄く冷え、吐く息がかすかに白く混じった。季節が、確実に進んでいる。
床板が一枚、また一枚と並べられていく。
レオは冗談めかした口調で、板を叩いてみせた。
「ほら、これなら夜でも寝返り打てるぞ。泥の上じゃないからな」
その声に、少女の口元がかすかに動いた。笑ったのかどうか、判断はつかない。
板を抱えたカリームが、低い姿勢で通路を進む。
床材に使うための厚板は、湿りを帯びて重い。呼吸が浅くなり、何倍もの負荷が肩と腰にのしかかる。
それでも彼は、足裏で地面の感触を確かめながら、崩れた石片を避けて前進した。
板と板の隙間に、カリームが充填材を流し込む。
それは滑らかな灰色で、空気に触れるとすぐ固まり始める。
湿度のせいで作業は遅れるが、焦る者はいなかった。動きは遅くとも、確実に拠点の形が増えていく。
少し離れた岩の陰、少女がじっとこちらを見ていた。
両膝を抱え、体を小さくして座っている。
何も言わず、ただ視線だけが動いて、運び込まれる資材や人の手の動きを追っていた。
その視線が一瞬、優司の手元で止まる。
固定具を締め終えた彼が立ち上がると、少女はすぐに目を逸らした。
カリームは最後の板を持ち上げた。
全身の筋肉が張り詰め、足元がわずかに沈む。
置き場までの距離はわずか数歩。それでも、重さは呼吸を浅くし、背中をじっとりと汗で濡らす。
板を敷き終えると、洞窟の奥に新しい床面が広がった。
まだ狭く、まだ不揃い。それでも「ここに住める」という感覚が、確かに形になりつつあった。
レオが腰を伸ばし、軽く笑った。
「……悪くない。あと三枚も敷けば、寝転がれるぞ」
その声に、少女の肩がわずかに動いた。
笑ったわけではない。けれど、その目の奥が少しだけ柔らかくなったように見えた。
優司は何も言わず、次の板の寸法を測り始める。
カリームは水筒を開け、喉を潤す。
レオは溜め息まじりに腰を下ろし、天井の苔を見上げた。
やがて、最後一枚がはめ込まれた。
全員がその場で腰を下ろす。
苔の光が板に反射し、淡い緑の模様が広がった。
その光景の中で、少女はほんの少しだけ、背を仲間のほうに向けなくなっていた。
洞窟の奥は、湿った息を吐き続けていた。
苔の光は昼夜の区別を忘れさせ、壁面を流れる細い水筋が、作業音の合間に絶え間なく響いている。
作業の音が、また響き始める。
遠くで流れる水音と混じり合い、この洞窟だけのリズムを刻んでいた。
──その端で、少女はまだ見ている。
何かを言いたげに。
それが何なのか、誰もまだ知らない。
カリームは、洞窟の奥に立てた丸太を、片手で軽く押し込みながら傾きを確かめた。
その動きに力みはない。だが、肩の沈みを受け止める足取りは、岩肌に沈み込みそうなほど重かった。
「もう半歩、こっち寄せろ」
背後からレオの声が飛ぶ。
彼は両手で別の柱を抱え、斜めに支えたまま膝を落としている。息は短く、だが笑みは消していない。
優司は二人の間に入り、結び目の位置を指先で示した。
「ここだ。あとは緩まないように縛る」
声は淡々としているが、視線は束ねられたロープの摩耗や繊維の割けまで追っていた。
カリームは頷くと、腰の後ろから縄を引き抜いた。
厚い手袋越しでも感触が伝わる。繊維がまだ生きていることを確かめ、柱に回す。
岩壁に反響するのは、擦れる音と、自分たちの呼吸だけだ。
柱と床板をつなぐ枠組みが組み上がっていくにつれ、洞窟の空気が変わっていった。
硬いだけだった地面が、少しずつ形を持ち始める。
座れる場所、物を置ける場所――それはまだ未完成だが、確かな「境界」になりつつあった。
「なあ、カリーム」
レオが笑い混じりに言った。
「ここに棚をつけたらどうだ。ほら、壁のくぼみの高さ、丁度だろ?」
カリームはちらりと見やり、短く答える。
「……悪くない。だが耐荷重は見てからだ」
その声音は、物を作る者の責任そのものだった。
優司は既に寸法を測り始めていた。
手の中の金属製の計測具が、かすかに光苔の光を返す。
数字を口にすることはない。ただ、それをカリームに見せると、二人の間に無言の了解が流れた。
床が伸びていく。鈍い響きが返る。
叩けば鈍い響きが返り、わずかにしなる。
その感触に、カリームは重心をかけ直し、板を押し下げた。
板が沈まず、静かに受け止めた瞬間、わずかな満足が胸を通った。
レオがにやりと笑う。
カリームは返事をせず、縄を締め直しただけだった。
作業の合間、優司は工具箱を開き、磨耗した部品を取り換えていく。
それは家具のためではない。
この場を支える全ての作業が、結局は同じ線でつながっていると知っているからだ。
ロケットの修理も、床板の固定も、この惑星で生きるための「同じ一歩」だった。
カリームはうなずき、固定具を打ち込む。
音が洞窟に短く響き、その後の静寂が心地よかった。
ふと、壁際の影が揺れた。
光苔の淡い輝きが、組み上がった板の輪郭をやわらかく縁取る。
その様子は、ただの板切れではなかった。
そこにあるのは、「誰かがそこにいてもいい場所」だった。
「優司、締めを頼む」
返事はない。
だが次の瞬間、背後からしゃがみ込む気配と共に、工具の金属音が響いた。
優司は無言で固定具にレンチをかけ、一つひとつ丁寧に締めていく。力を入れるたび、彼の肩越しに苔の光が揺れた。
レオはその様子を一瞬見て、口元を緩めた。
──やっぱり、この人がいれば形になる。
「……完成、だな」
カリームが低く言う。
洞窟の奥で、何もなかった空間に形が宿った。
まだ簡素だ。だが、この惑星に来てから初めて、心が少しだけ緩む匂いがした。
最後の板が、鈍い音を立ててはまった。
木が壁と噛み合う手応えが、掌から肘へ、そして胸へと静かに届く。
その感触を、優司はしばらく離さなかった。
汗が首筋を伝い、襟元で重く冷える。
振り下ろす腕の力よりも、ここまで持ち運び、削り、調整し続けた時間のほうが、ずっと重い。
背後で、レオが泥まみれの手袋を壁に当てた。
肩が上下し、息が少し乱れている。
「……やっとだな」
その声は笑いにも聞こえたが、震えが混じっていた。
優司は振り返らず、膝をついたまま手袋を外す。
裸の掌で板の端を撫で、節や木目を一つひとつなぞる。
それは検品でも仕上げでもない。
ただ──確かめたかった。
この板が、もう二度と割れない場所で息づくことを。
手が、軽く叩いた。
音は小さかったが、洞窟の奥まで届いた。
──ここでいい。
それ以上の意味を持つ、沈黙の合図だった。
そのとき、通路の奥から細い足音が響いた。
ためらいがちで、それでも近づいてくる。
レオが気配に気づき、静かに膝をつく。
目線を合わせ、柔らかな声で言った。
「もう冷たくないよ」
小さな影が、板の手前で立ち止まる。
靴底が濡れていて、しずくがひとつ落ちた。
優司はその足先に視線を落とし、何も言わず掌を差し出した。
影は一歩踏み出す。
板の上に重みがかかる瞬間、優司の手が深く押さえ込んだ。
そこから落ちることはない──そんな当たり前を、形にして伝えるように。
足が板の中央に収まったとき、レオは小さく息を吐いた。
外ではまだ雨が岩肌を叩いている。
けれど、この一枚の板の上だけは、どこよりも温かかった。
「呼んでくる」
短くそう告げて、足音は奥へ消えた。
やがて、複数の足音が戻ってくる。
レオとマリア、クレール、エルナが、苔の明かりを背に入ってきた。
その影は、敷かれた板の手前で立ち止まった。
優司は、仕上げたばかりの板の端に手を置いた。
掌に残る木肌は、まだ湿りを帯びている。
それを確かめるように指を軽く曲げ──二度、静かに叩いた。
コン……コン……。
音は控えめだった。だが、厚い壁をすり抜け、湿った空気を分け、洞窟の奥に吸い込まれていく。
それは木を試す音ではなかった。
「ここは、もう動かない。もう壊れない」──そんな保証を、音に変えたものだった。
その合図は、工具や言葉よりも確かに、目の前の小さな少女へ向けられている。
声を出さずとも伝わる距離。
“ここが、おまえの居場所だ”という、優司なりの言葉だった。
叩いた指先が板から離れたあとも、その響きはしばらく耳の奥に残っていた。
小さな手が、そっと空虚に伸びた。
湿った空気を割るように、指先が最初に向いたのは──。
「……レオ」
掠れた音が、奥の岩壁で一度だけ跳ねて消える。
レオは瞬く。笑いをこらえた唇が、わずかに震えた。肩が小さく揺れる。息を吸って、のみ込む。
指が横へ。
「……カリーム」
低い確かめの調子。
カリームは胸を張る。だが膝の上の拳は、ゆっくりと丸まり、布越しに節の固さが伝わる。爪が掌に食い込むほど、力が入っていた。
「マリア」
名を受けた瞬間、マリアの瞳の奥で光苔の色が柔らかく揺れた。
彼女は息をひとつだけ深く吸い、吐く。声は出さない。目元だけがほどける。
「……クレール」
緑の反射が横顔の輪郭を細くなぞる。
クレールは目を細め、短く頷いた。頷きの終わり際、喉仏が一度だけ上下する。言葉にしない安堵がそこにある。
「……エルナ」
その二音が落ちたとき、奥で水滴がひとつ、はっきりと弾けた。
エルナは視線を逸らさない。瞳の底、光苔とは別の色が小さく灯る。消えない。
指が止まる。
少女の眼差しが、優司を捕える。
無言で、そこにいる男。
必要な時だけ差し出される手。
その手が、寝る場所と、息の仕方と、朝起きる順番まで──自分の「居る」を作ってくれた。
胸の奥が、ゆっくり熱を持つ。
唇がわずかに震え、喉の奥で音が突っかかる。
言ってしまえば戻れない。名のないままの自分には。
世界の音が、遠のく。
外の雨は糸のように入口を叩き、洞窟内の滴音だけが等間隔で落ち続ける。
優司は微かに首を傾け、ただ視線で「いい」と告げる。急かさない。否定もしない。そこに、立っている。
肺の底から、あたたかいものが押し上がる。
舌が、喉の震えを越える場所を探す。
唇を閉じ、そっと開く。
「……ユウジ」
空気が、一度だけ深く息をついたように揺れた。
優司の目が、ほんの一拍だけ見開かれる。
次いで、小さく頷く。音はない。けれど、その短い上下で、緊張が胸の内側からほどける。
少女は視線を落とし、両腕で尻尾を抱き寄せた。
尾先が、膝の上で小さく震え、すぐに丸まる。
胸に手を当て、長く吸い込んだ息を押しとどめるように──そして、ためらうように優司を見上げる。
口が、ゆっくりと開いた。
「……ミナ」
二音が、落ちた。
レオが目を伏せる。睫毛が微かに濡れ、光苔の光がにじむ。
カリームの拳が開く。掌に残る爪痕を、親指でゆっくり撫でる。
マリアは息を小さく吸い、見えない笑みの端だけを残す。
クレールは目を細め、何も言わず、もう一度だけ頷く。
エルナの瞬きが、いつもより一拍遅い。
床板の木目に、湿った匂いが立った。
その上は、もう「ただの板」ではない。
ここに座る場所は、名前のある者の場所になった。
ミナが肩をすぼめ、胸の前で握っていた手をゆっくりほどく。
小さな爪の下に残る古い泥が、光の中できらりと光った。
その指が、はじめて、自分の膝の上に素直に置かれる。
滴の間隔が、気づけば少しだけ広がっていた。
誰も、言葉を足さない。
十分だったからだ。今の二音が。
エルナは端末を胸の前で傾け、無音のまま二文字を打つ。──『ミナ』。
時刻が記録される。
この瞬間が、彼女の最初の“誕生日”になった。
「……ミナ」
その名が落ちて、洞窟の音が少しだけ遠くなる。
彼女は胸の前でほどいた手を、膝の上へ静かに戻した。
顎が、名を持つ者の角度で、わずかに上がる。
誰も、すぐにはしゃべらない。
水が岩から落ちる数だけ、沈黙が続いた。
優司がそっと立つ。
工具巻きの端をめくり、細い線材と小さな金具を一つだけ抜き取る。
合図はない。入口へ向かう足取りも、音を立てない。
岩の裂け目に金具を噛ませる。
線を通し、反対側の支えへ回して、息を浅くひとつ。
指でたるみを抜くと、線は光苔に紛れて輪郭を失った。
背から、マリアの声が届く。
「空気が揺れれば、ここが揺れる。……人でも、獣でも」
ひと拍置いて、呟いた。
「警報糸ね」
マリアの視線が糸をなぞる。極細のワイヤーに、乾ききらない泥が一筋だけ付着していた。踏めば、入口脇の金具がわずかに鳴る。音は外には漏れないが、洞窟の奥では響く。
優司は応えず、線を軽くはじいた。
かすかな震え──すぐに止む。張りは、ちょうどいい。
戻ってくる彼を、ミナは目で追った。
視線が、入口の糸と彼の手を往復し、そこで止まる。
膝の上の指先は、もう丸まらない。
奥で、装置の唸りが一段落ちる。
計器の針は緑帯で水平。熱は排熱管へ静かに逃げている。
浅い金属皿の水面が、一定の拍で細く震えた。
糸は動かない。
夜が寄ってくる。
その拍に、明日もうひとつの音が重なることを、誰も口にしないまま知っていた。
糸はまだ動かない。明日、その理由に手を伸ばす。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.036】
床面の一次整備を完了。体重負荷による沈みなし。
未登録個体の自己識別名「ミナ」を取得。入口に侵入感知用警報糸を設置。
拠点の“呼吸”に微変あり。継続観測のため、ブックマークへの登録を推奨。




