第3話 集いはじまる
言葉はまだ交わされず、
名乗りもないまま、時間だけが進んでいく。
声が空気を跳ね上げた。
コン、コン──。ノックの音とほぼ同時に、ドアが滑らかに開いた。
「おはようございます~~っ!」
声が空気を跳ね上げた。
艶やかな髪を肩口で結び、くるくると目を輝かせた女性が、カウンター越しに笑顔を咲かせている。
未来的な制服は真新しく、立ち居振る舞いは驚くほど自然だった。
「お名前をお願いしますっ! あ、先に申請されてますね。レオ・サントスさんと──」
「藤崎優司です」
優司が静かに名乗る。声のボリュームは控えめで、形式的な応答だった。
「はい、確認できました! おふたりとも、おめでとうございます。代表選抜、通過されました~!」
明るく言いながら、受付嬢は封筒を2つ差し出す。
中には個別IDリングと薄型端末、そして各人専用の識別カードが丁寧に収められていた。
「こちらが本日から使用されるアクティブIDです。これ、認識速度がすごく速くて、技術系の方には人気なんですよ!」
「へぇ、じゃあ僕、技術系っぽく見えるってことですか?」
レオがにっこり笑って受け取ると、受付嬢も笑い返した。
「いえ、違います。レオさんは……なんというか、軽やかで……“情報処理が早そう”って感じですね!」
「褒められてます? それとも笑われてます?」
軽い応酬に、小さな笑いが生まれる。
だが、その裏で、彼女の動きに一切の無駄はなかった。
まるで、ここに来る者たちを、誇りをもって迎えるのが当然であるかのように。
「搬送担当からの資料はお手元にありますね? では、ユニットC-4へご案内します。カートが待機しておりますので、廊下を奥までお進みください。──ご健闘を!」
その先には、ほとんど無音の廊下が続いていた。
床面は反射を抑えた柔らかなグレー、間接照明が壁の曲面を穏やかに縁取っている。
空気は無臭ではなかった。ほのかに、柑橘と薬草を混ぜたような香りが鼻をくすぐる。
「すごいね……。歩いてるだけで、健康になりそう」
レオが感心したように呟いた。
軽い冗談のようでいて、どこか本気でもある。歩調は速すぎず、だが自然と揃っていた。
「緊張、してる?」
歩きながらレオが優司に問うた。顔は前を向いたまま、声だけを滑らせる。
「別に」
それだけ返すと、優司は再び無言に戻った。
その静けさを崩すことなく、レオは笑った。
「そっか。まあ、無理にしゃべらなくていいよ。緊張してないのはこっちも同じだし。
……ああいう受付の人を見ると、なんか安心するね。やっぱり日本の施設って感じだよな」
優司は隣で黙って頷いた。
無言の中にある同調──それが、二人の距離をゆるやかに近づけていた。
二人の前方に、滑らかなラインを描いた搬送カートが停まっていた。
音もなく彼らのIDを読み取り、自動で目的地を認識したようだ。
乗り込むとすぐに静かな加速が始まり、廊下の景色がゆっくりと流れていく。
壁面にはサインのひとつもなく、全体が一枚のキャンバスのようだった。
「誰が設計したんだろうね、この建物。無駄がなくて、なのに居心地がいい」
レオが独り言のように呟く。
優司は視線を前に置いたまま、答えなかった。
数分後、搬送カートが緩やかに停止する。
天井のランプが緑に変わり、音声ガイドが言った。
『ユニットC-4、到着しました』
扉が滑るように開く。
目の前には、居住ユニットと書かれたパネル。その先に伸びる短い廊下。
そして──その奥のドアが、すでにわずかに開いていた。
ユニットC-4。
そこは、宇宙飛行士候補たちが一時的に過ごすために用意された、特別居住区の一画だった。
部屋は広く整えられていた。素材に無駄はないが、機能性と美観の両立が計算されている。
金属音一つしない床、空調音すら沈んだ静寂、壁面には淡く光を拡散する特殊素材──。
簡易ベッドが六台、一定の間隔で配置されている。
ただし、それぞれは天井から吊るされたセミカーテンで視線を遮れるようになっていた。
いかにも“共同生活の限界と理性”で成り立っている、仮初の個室。
なぜ男女が同室なのかという点は、もはや“宇宙飛行士”という前提で黙認されているのかもしれない。
誰かが疑問を口にする前に、合理性がすべてを呑み込んでいくような空間だった。
──そんな空気の中、レオが部屋の奥へと歩いていく。
「奥もーらい!」
軽い調子でそう言いながら、カーテンの奥──最も端のベッドにたどり着く。
荷物も持たずにそのまま腰を下ろすと、仰向けになって天井を見上げた。
「うわ、これ。吸振式? いや、形状記憶か。宇宙仕様の簡易型じゃないな……まじで一流だぞ、これ」
ごろりと寝返りを打ちながら、声にはやや感嘆が混じっていた。
どうやら本気で気に入ったらしい。……調子のいい、呆れたやつだ。
レオは興奮を抑えきれず、しばらくベッドの反発を楽しんでいる。
やがてふっと息をつき、視線を室内へと巡らせる。
その奥、窓際。一枚だけ、奥のカーテンが風に揺れていた。
その布の隙間から、ちらりと見えた足──そして、長い銀髪。薄い光に包まれるようにして、ひとりの少女が静かに座っていた。
白く薄手の支給服をまとった小柄な体。
腰まで伸びる淡い銀の髪が、かすかに光を含んで揺れている。
その手元には、分解された端末の中身──基板と配線、細かなネジ。
「……何してるの?」
レオが問いかける。
だが少女は顔を上げず、手だけを動かしながら言った。
「ここの端末、少し古い型だったから……見てるだけ」
その声はどこか、世界との接続が緩いように聞こえた。
淡々としていて、感情が抜けていて、けれど完全な無関心ではない。
「君、名前は?」
「……エルナ」
ようやく顔を上げた彼女は、まるでこちらに焦点を合わせるのが苦手なように、視線をふわりと浮かせたまま続けた。
「ふたりとも、観察される側の人間だよね?」
レオが笑って眉を上げる。
「それ、どういう意味?」と返そうとしたとき、優司がすっと先に歩いていった。
扉が閉まり、廊下に微かな振動が戻る。
エルナは一言も発さず、まっすぐ見ていた。
人懐こい笑みでもなく、警戒でもない。
ただ──静かで、妙に鋭い目だった。
レオが微かに息を呑む。
優司は目を逸らさずにいたが、その指先は、ごくわずかに動いた。
何かが違う。
──そう思った誰かがいたとしても、それを言葉にする者はいなかった。
静寂が一拍、室内に降りた。
それは、誰かが足を踏み入れるための、ほんの一瞬の余白だった。
ドアが開いた。
ふたり分の足音。ひとつは硬く重い。もう一方は、濁りのない水音のように滑らかだった。
部屋に入ってきたのは、対照的なふたり。
ひとりは、筋骨たくましい青年だった。
焦げ茶の肌に刈り上げた短髪、動作の端々に戦闘訓練を積んだ者の気配が滲んでいる。身体の使い方が洗練されていて、無駄がない。
だが、その眼差しはどこまでも真っ直ぐだった。壁際に立つスタッフへも、室内にいたレオとエルナへも、柔らかなまなざしを向けていた。
──空気が少し、温かくなるような気がした。
そしてもうひとり。
彼女は、年若い女性だった。年齢こそ若いが、その佇まいは凛として隙がなく、まるで刃のように静かだった。
制服の着こなしには乱れがなく、背筋は伸び、目線の動きすら一分の無駄がない。
それでいて、どこか非現実的なまでに整っていた。
髪は艶やかな銀のような色合いで、光の角度によって冷たい光沢を放つ。瞳は青く澄み、だが冷たくも優しくもなく、ただ“静か”だった。
視線を向けられるだけで、自分の芯を覗かれているような錯覚を覚える。
誰かが、思わず息をのんだ。
彼女の足取りは音を立てないほどに滑らかだったが、存在感は確かにあった。
「おお、仲間が増えた!」
レオが立ち上がり、笑顔で手を挙げる。気さくな歓迎のジェスチャーだが、どこか相手の出方を探るような視線も含まれていた。
クレールは一礼だけして、無言のまま椅子へと向かう。
「カリーム・アル=ナジリだ。よろしく頼む」
青年は静かに名乗り、深くはないが丁寧な頷きを加えた。
その声は低く、重みがある。礼儀をわきまえているが、媚びているわけではない。拳で語る者の声──とでも形容したくなるような。
「クレール・ド・ルナ」
それだけを、はっきりとした発音で言った。
名乗るというより、確認を求めるような調子だった。無駄がなく、簡潔で、それでいて曖昧さを許さない。
静まり返る室内に、一瞬だけ冷たい緊張が走る。
「おふたりとも、よろしく!」
レオがすぐさま空気を和らげるように笑みを浮かべた。
その背に、空気がほんの少し、冷えた。
その温度差を埋めるように、レオがゆるく手を上げた。
「……いや~、目ぇ覚めた。朝からこの威圧感、なかなか味わえませんよ?」
軽口を叩きながらも、視線はクレールとカリーム、両方を捉えて離さない。
まるで、冗談の中に本音を潜ませるように。
カリームがわずかに目を細めた。
「レオ、と言ったか。……ただの口軽野郎じゃなさそうだな」
「それ、褒めてくれてます? それとも──“こいつ、どう転ぶか見てからにしよう”って目ってやつですか?」
レオは笑ったまま、腰も重心も崩さず立っていた。
その軽さは、ふざけてなどいない“陽”の構えだった。
「どっちでもいい。ただ──」
「“やる時はやれ”ってことでしょ、ア、ニ、キ」
ふっと声のトーンが落ちる。
その一言に、カリームの眼差しが変わる。
「……気に入った」
ドアが静かに開き、
優司が、無言で姿を現した。
部屋に入ることなく、ドアのすぐ内側で立ち止まる。
その場にいた四人の視線が、一斉に彼へと向く。
彼は短く手を上げ──必要最低限の言葉を落とす。
「藤崎優司だ」
短く、名乗るだけ。
クレールが応じかけた瞬間──彼の口が、先に動いた。
「カリーム・アル=ナジリ。クレール・ド・ルナ」
どこかで会ったかのような言いぶりだったが、二人に心当たりはない。
ただ──思い出す。選抜試験前、広報番組の特集で何度も流れていた“注目候補”の映像。
あの時と、全く同じ目だ。
名乗りもしないのに、自分の名を呼ばれる。
その静けさと正確さに、クレールのまなざしがわずかに揺れる。
このとき、彼らのうち誰もがまだ、知らなかった。
最初に“戻る場所”を失うのが──誰なのか。
五人目が静かに腰を下ろし、
部屋の呼吸が、ようやく“はじまり”を告げる。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.003】
初期ユニット、接続確認。
名称不明のまま、各機能が沈黙のうちに稼働を開始。
続行を希望する記録者は、“ブックマーク”への同調を推奨。
──“起動”は、名乗りよりも先にやってくる。