第35話 緑と灰の間
雨は、形を変えて、足元を満たしていく。
雨は、三日も止まなかった。
洞窟の外では、折れた枝や泥の塊が、斜面を遅い呼吸のように流れ落ちていく。
遠くの森は白くけぶり、輪郭を失っていた。
耳を澄ませば、奥底から湧き上がる水音と、苔の群れを叩く無数の水粒が、途切れのない細い連打を奏でている。
マリアは小型炉のパネルに指先を滑らせ、排熱と湿度の釣り合いを計算していた。
優司は隣で、工具箱をひとつひとつ探り、金属の重みと手馴染みを確かめながら選び取る。
腰に掛けたそれは、数分後にはまたロケットの心臓部に持ち込まれる。
炉の安定化に、まだ終わりの兆しはない。
天井を伝った滴が、ぽたりとカリームの肩を打った。
短く舌を鳴らし、削りかけの木板を横にずらす。
「……外の材は、もう少し乾かさないとだな」
刃を入れれば、湿った木肌が粘るような感触を返し、内側から匂いが立ち上る。
雨の森の深部にしかない、重く甘い匂いだ。
入り口脇では、レオが外套の襟を立て、灰色の帳の奥をうかがっていた。
森の影が、雨越しにぼんやり揺れる。
「……火、止まったのか?」
低くこぼした声に、カリームの手が止まる。
「確認に行くぞ」
肩越しに声を投げ、入口を指先で示す。
優司は視線だけを二人に向け、手は炉の調整から離さない。
二人は外套の裾を整え、足元を確かめてから一歩踏み出す。
途端に、空気が変わった。
湿りを含んだ冷気が肌を刺し、耳の奥まで染み込む。
雨の匂いが一気に濃くなり、肺の奥まで押し込まれてくる。
背後の洞窟が、わずかに遠ざかったように感じられた。
足元の泥は、歩くたびに小さな吐息をもらす。
水気を孕んだ地面が体重を受け止め、ゆっくりと沈む。
斜面を下る水筋があちこちに走り、小石を転がしながら浅い流れを作っていた。
倒れた幹の下をくぐると、皮がけた白木が雨に濡れて光り、手を触れずとも冷たさが伝わってくる。
森の縁に近づくにつれ、景色が開けていく。
焦げた地面が雨を吸い、灰が泥に溶けて黒い筋を描いていた。
その筋はある地点でふいに途切れ、そこから先は、息を潜めたように静まり返っている。
雨がすべてを覆い隠す前の、一瞬の静止画。
カリームがしゃがみ、枝を拾う。
指先の中で、脆く崩れた。
焼けた匂いはもう雨に押し流され、残るのは湿った土の匂いだけ。
かつての炎の熱は、手の中からも景色からも失われていた。
「……ここまでだな」
レオが頷く。
足元の泥が、わずかに軽く感じられた。
洞窟口へ戻ると、優司が立っていた。
「どうだった?」
「着陸地点あたりだ。焦げ跡は残ってたが、煙も匂いもなかった」
雨と地形が、自然に火を止めたのだろう。
優司は外を一望し、目線をゆっくり巡らせた。
岩の張り出しが口を覆い、地形のくぼみが風と雨を逸らしている。
足場は硬く、崩れの心配もない。
そして──この洞窟は、少女が過ごせる苔の空気と、大人たちが耐えられる外気との、ほぼ境界線にあった。
岩肌を背に、全員が洞窟の中間あたりに集まった。
奥はしんと静まり、苔の光がかすかな緑を揺らしている。
湿り気を含んだ外の空気とは明らかに違う匂いが漂っていた。
エルナが手元の簡易計測器を掲げ、表示を確認する。
「酸素濃度、このあたりから先の数メートルが境ね。奥に進めば少女の域、出口側に寄れば私たちの作業域」
数字を読み上げるというより、自分に言い聞かせるような口調だった。
優司は無言で、その境目を見渡した。
足元の岩が少し白っぽく変色しており、苔の胞子が着かない帯が横一文字に伸びている。
そこから先、数歩では届かない距離に緑の明かりが揺れていた。
カリームが腰を落とし、濡れた木板を床に置いた。
「ここを起点にしよう。奥にも外にも行きやすい。材の運び込みも楽だ」
短く言い切る声には、湿った木を担ぎ続けた疲れよりも、判断の確かさがにじんでいた。
「棲み分け、だね」
クレールが静かに言葉を足す。
「少女を安全な空気の中に置きつつ、私たちは外気に慣れていく。段階的に」
少女は奥の苔の上にしゃがみ、小石を並べて遊んでいた。
話の内容は理解していないはずだが、時折こちらを振り返り、目が合うと小さく笑う。
優司はそれに反応せず、工具箱の中身を点検し始めた。
カリームが板の寸法を測り、レオが外から新しい材を抱えてくる。
湿った木の匂いが一気に広がる。
レオは足元の泥を払ってから板を下ろし、肩を回した。
「滑るな、これ……持ってくるだけで一苦労だ」
そう言いつつも、次の材を取りに再び外へ向かう。
カリームは、自作の鉋を手に、板の端をなぞった。
刃が木肌を削り、湿った薄片が静かにがれていく。
「乾くまで時間はかかるが……板はしなる分、割れにくい」
独り言のように呟き、削りくずを手のひらに集める。
その指先には、水滴と木屑が混ざっていた。
優司は工具を点検しながら、その横顔を一瞥する。
「寸法、先に揃えておくか」
「そうだな」
短いやり取りの後、二人は無言で動き出した。
マリアは炉のパネルに目を落としつつ、作業場を一度だけ見やった。
湿度と温度の針を確かめ、再び視線を戻す。
その一連の動きに、誰も声を掛けない。
外では雨が再び強まってきたらしく、レオが戻ると肩口から水が滴っていた。
入口の張り出しの下に置いていた材を抱え、泥を払って運び入れる。
直接の雨は避けられるが、湿気は容赦なく衣服にまとわりついてくる。
「あと三枚だ。急がねえと泥に沈む」
足元に板を立て掛け、深く息をつく。
その呼吸が白くなるほど冷えているわけではないが、空気は重く、衣服に湿りを貼り付けてくる。
カリームが板を並べ、寸法の違いを手で測る。
鉋を引くたびに、湿った木肌がわずかに明るくなり、削り屑がふわりと足元に落ちた。
「……乾けば、こっちの方が締まるな」
短い言葉を置き、さらに刃を滑らせる。
音は控えめで、炉の低い唸りと雨音にすぐ飲み込まれた。
優司はその横で、釘や金具を工具箱の中から選び出していた。
並べられた部品は小さいが、湿気を避けるために布で一つひとつ包まれている。
包みをほどく指先は迷いがなく、作業の流れを頭の中で組み立てながら進めているのが見て取れた。
レオは再び外へ向かい、濡れた材を肩に担いで戻ってくる。
その背中から、雨の匂いと土の匂いが混ざって漂った。
「あと一往復」
言葉と同時に、板を下ろす。
肩口の外套から水が落ち、地面の小さな砂粒を弾いた。
少女は奥の苔の上で膝を抱え、小石を順に並べていた。
苔の緑は、外からの薄明かりと混ざり、柔らかく揺れている。
彼女は時折、こちらの作業をじっと見つめ、何かを口の中で転がすように唇を動かした。
言葉ではない。
しかし、その仕草は、記憶の底を探るような静けさを伴っていた。
エルナはそんな少女の様子を横目に、記録端末に短く入力を続けている。
視線は時おり境界線へと戻り、数値の変動を確かめては、また端末に戻す。
奥と出口側──そのわずかな空間こそが、この拠点の心臓になる。
緑と灰の間。
少女と大人たちの息が、同じ場所で交わることのできる唯一の領域。
板が一枚ずつ敷かれ、硬い岩の床に新しい色を落としていく。
濡れた木目はまだ暗いが、並びが整うにつれ、洞窟の中に人の形をした居場所が浮かび始めた。
カリームが最後の一枚を置き、掌で押さえて水平を確かめる。
優司が膝をつき、金具を打ち込む。
金属の音が洞窟にこだまし、外の雨音と重なって一瞬だけ消える。
「……よし」
短く呟き、工具を下ろす。
レオが濡れた外套を脱ぎ、肩を回した。
「これで、寝床が少しはましになるな」
マリアは炉の表示から視線を上げ、整えられた床板に目を留めた。
その瞳にわずかな光が宿るが、言葉にはしない。
ただ、湿度計の針をもう一度だけ確かめ、静かにパネルを閉じた。
少女は新しい床板の端まで歩み寄り、しゃがみ込んだ。
指先で板の継ぎ目をなぞり、顔を上げる。
誰に向けたわけでもなく、小さく息をついた。
その吐息は苔の匂いと木の匂いを混ぜ、境界線を越えて漂ってきた。
外の雨はまだ止まない。
だが、洞窟の中には、確かに“暮らし”の形が根を下ろしつつあった。
その日の作業は、夕刻まで続いた。
外ではまだ小雨が降り、洞窟の口から冷たい気配が入り込んでくる。炉の低い唸りと、板を踏むわずかな音が、奥の空気を支配していた。
新しく据えた床板は、まだ湿り気を帯びている。歩くと、かすかに沈み、それから弾力を返す。乾ききっていない木の匂いが、苔と岩の匂いに混じって漂っていた。
少女はその上に座り込み、膝を抱えていた。背中を壁に預け、足先だけが炉の方を向いている。
瞳は赤い光を映し、まるで炎そのものを覗き込んでいるようだった。
優司は工具を片付けながら、時折そちらに視線をやる。板の端に置かれた少女の手が、わずかに動き、木目をなぞっていた。節に指先が触れるたび、微かに止まり、また滑る。
言葉はない。
だが、その仕草の一つ一つが、この場所の空気をゆっくり変えていくのを優司は感じていた。
カリームは炉の出力を下げ、湿度計に目をやる。数字は昼よりわずかに下がっており、乾燥が進んでいる証だった。
レオは最後の板を入口近くに立てかけ、濡れた手袋を外す。外気の冷たさが入り込む一瞬、少女の肩が小さくすくんだ。
マリアはそれに気づいたが、何も言わず炉の排熱流路を調整した。わずかな温風が奥へ流れ、少女の髪をかすかに揺らした。
外は、もうほとんど夜だった。
洞窟の口は黒く沈み、雨の音も細く途切れがちになる。奥では光苔がぼんやりと壁を照らし、その淡い緑が炉の赤に混じって、不思議な色を作っていた。
少女はその色を見ていた。視線の先は壁にあるはずなのに、何かを思い出すような遠い眼をしている。
優司はその様子を横目で見ながら、工具箱を閉じた。
床板の上には、作業の名残である木屑が散らばっている。それらは、少女が足を動かすたびに小さく転がり、音を立てずに板の隙間へと消えていった。
炉の唸りが、ゆっくりと低くなる。
静けさが戻ってくると同時に、少女の唇が、ほんのわずかに動いた。
だが、その音は、最後の雨粒が洞窟の縁を叩く音にかき消された。
言葉は、まだ形にならない。
けれど、優司は確かに感じていた。
この沈黙の奥に、何かが芽吹き始めている。
──外の世界と、この洞窟の空気の間にある“境目”。
湿った木と苔の匂いが混ざり合うこの空間は、少女にとっても、彼らにとっても、まだ馴染みきらない居場所だ。
それでも、板を一枚ずつ重ねるように、時間がこの間を埋めていく。
優司は炉の熱に手をかざし、その温もりを確かめた。冷え切った空気を押し返すような、わずかな温度。
少女の視線は、依然として壁の色彩に向けられている。赤と緑、その中間に揺れる影が、長く伸びては消え、また現れた。
この夜が明ける頃、床板はもう一枚増えているだろう。
そして、少女の唇から零れる最初の言葉が、その上に落ちる日も、そう遠くはない。
板の上に宿った温もりは、まだ小さい。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.035】
小型炉の安定化作業を継続。
洞窟内中間地点に第一枚の床板を設置し、作業域と生活域の境界を確立。
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