第30話 燃え残る者たち
沈まなかった火が、まだ胸の奥で明滅している。
濡れた地面が、足音を吸い込んでいた。
水を含んだ泥土は靴底に絡みつき、踏み出すたびに重さを増す。空は明るいのに、どこまでも重く、空気だけが昨日の続きを引きずっていた。
朝の空気は濁っていた。曇天の光が濡れた大地を照らし、寒さではない何かが、皮膚の内側にまで残滓のように染み込んでいた。
「……昨日の進捗、二メートル」
クレールの声が、拠点中央に沈んだ。
端末の画面に表示された移動ログ。数字は、わずかな変化と大量のエラーで埋まっていた。
「滑車四基が歪んで使用不能。丸太八本が折損。台車の一部にフレーム変形。……このままでは、次は動かない」
ロケットは、確かに動きかけていた。
だが、滑っただけだった。泥に囚われ、丸太は沈み、荷重が前に進むのではなく“沈んだ”だけ。人の力でどうにかなる段階は、すでに過ぎていた。
ロケットは、いまも昨夜の“限界”をそのまま形にして残っている。
傾いた軸、破損した支柱、散らばった工具。全てが、ここまでの失敗を無言で物語っていた。
レオはその光景を、何も言わずに見つめていた。
目の奥に浮かぶのは怒りでも諦めでもない。ただ、悔しさ。
そして、その悔しさすら、もはや言葉にする力がなかった。
彼は泥に沈んだ丸太の一本に視線を落とした。
木片は割れて、裂け目から繊維がほつれていた。誰かの手袋が、すぐ横に落ちている。脱げたのか、外したのか、もう誰も覚えていない。
「……どうにかして動かさないと」
低く、だが揺るぎのない声。
自分に言い聞かせるように吐き出したその言葉に、誰も返さない。否定も肯定も、ここでは無力だった。
「熱源はある。装置が稼働してる。酸素もまだ持つ。……でも、この場所じゃ、炉は安定しない」
「移動は、絶対条件よ」
クレールが応じた。言葉は明瞭だったが、疲れは隠しきれない。
酸素も、医療も、熱も──命を支える装置は、全部あのロケットの中にある。
あれを置いて動けば、命のほうが先に潰れる。
そして、森の火はまだ遠いが、確実に“こっちに来ている”。
クレールは、静かに端末を開いた。
表示されるのは、エネルギー供給の安定ログ。炉は生きている。装置も起動中。酸素も、あと数日は持つ。
それなのに、どこにも前進の矢印はない。
「資源はある。でも、もう“動かす手段”が残ってない」
彼女の声は淡々としていたが、指先には小さな震えがあった。
マリアは何も言わず、ただロケットの下部を見ていた。
泥に埋まった支点。歪んだフレーム。その先に続くはずだった地面。
雨で軟化した大地は、足を踏み入れるたびに沈み、今もなお、わずかに沈下を続けているようだった。
「昨日の出力で、もうフレームの三箇所に応力異常が出てる。あれ以上の負荷は……」
クレールが呟く。
「今度こそ、潰れる」
「じゃあ……」
カリームが問いかけかけて、口を閉じた。
その視線の先には、ロケットの向こうに広がる、森の境界。
風はそちらから吹いていた。
湿った空気に、微かな炭の匂いが混じっている。
「──火は、来てるな」
誰も返事をしなかった。
クレールは、端末の画面を伏せた。
「どこまで引っ張るか、とか、滑車がどうとか、もう関係ないのよ」
「“ここにいられない”っていう、それだけの話」
その言葉に、レオがゆっくりと目を閉じた。
拳を握ったまま、泥の上に立ち尽くす。動こうとする意思だけが、形にならないまま、そこにあった。
“燃える前に、動かさなきゃいけない”
“でも、どうやって?”
言葉にならない問いが、誰の胸にも沈んでいた。
「滑車、丸太、引き具……全部試した」
レオが吐き出すように言った。「人力はもう、限界超えてる。」
「ここにいたら、終わる。なら、動かすしかないんだろ」
声は低いが、沈んではいない。
レオは小さく息を吐き、泥に沈んだ滑車の痕跡を見つめた。
その拳は、昨日からずっと握られたままだった。
風が吹いた。濡れた地面の匂いを含んで、肺の奥まで入り込んでくる。
クレールは黙ったまま、端末の画面を閉じた。マリアも、それに倣うように立ち上がる。
それでも、答えは出ない。
「俺たち、何か見落としてないか?」
カリームが問いかけようとして、口を閉じた。
「他の方法、何か……」
だが、誰も応えなかった。
その場にいる誰もが、すでに“次の手がない”ことを知っていた。
見落としではない。“現実”だ。
重たい沈黙が続いた。
靴の裏にまとわりついた泥よりも、空気のほうが重く感じられた。
レオはわずかに顔を上げた。
目の奥にはまだ火が残っている。だが、それを燃やす薪が、どこにもなかった。
「手は全部試した。人の力も、構造も、地形も……駄目だった」
言いながら、自分でもどこか納得しきれていないのがわかった。
諦めたいわけじゃない。ただ、今は一歩目が見えないだけだ。
「──ひとつだけ、可能性がある」
その声に、全員が振り返った。
マリアだった。
無言で立ち上がった彼女は、淡々とした表情のまま──だが、その目の奥で、何かが確かに燃えはじめていた。
「補助エンジン。まだ未使用の推進装置が残ってる。それを使えば、機体を前に押すことはできる」
誰もすぐには反応しなかった。
マリアは続けた。
「角度さえ合わせれば、滑走路がなくても……十秒、推力を出せれば、少なくともこの地帯は抜けられる」
レオが口を開く。「……本気で言ってるのか」
「理屈の上では可能。でも、現実的とは言えない」
マリアの声はあくまで平坦だった。
「点火系統は未調整、機体構造は不安定。推力をかければ、どこかが壊れる」
「壊れてもいい」
カリームがはっきりと言った。
「壊してでも、前に進む。それが俺たちの選択だろ」
「“壊してから”じゃ遅いのよ」
クレールが噛みつくように返した。
「予備の部品も残ってない。計器が吹き飛び、中の誰かが怪我をすれば……もう何もできない」
「じゃあどうするんだ」
レオが一歩踏み出す。
その目は揺れていなかった。
「動かさないなら、燃えて終わる。それだけだろ」
「わかってる! でも、どこにも答えがないのよ……!」
クレールの声が震えた。
彼女がこんな声を出すのは、初めてだった。
「最善も、代案も、どこにもない……やるしかないのはわかってる。でも、それを“やる”って言ったら、それはもう──ただの博打なのよ」
沈黙が落ちた。
マリアが一歩だけ前に出て、ゆっくりと口を開く。
「……私は、やってもいいと思う。失う前に動くなら、今しかない」
レオが頷く。「俺も同じだ」
「……いつも通り、壊れてから直せばいい」
カリームが笑みを浮かべたが、それは決して軽いものではなかった。
クレールは、誰の顔も見ずに俯いた。
目の前の地面が、泥でゆっくりと沈んでいく。
「ほんとに……やるのね」
かすれるような声だった。
「炉が止まったら、ただの修理不能じゃ済まないのよ」
クレールが言った。わずかに声が高く、そして、どこか硬かった。
「制御が外れたら……暴走するわ。止まらない。あの出力は。
──そして、爆発する。周囲数百メートル、全部が蒸発する」
言葉のあと、風が吹いた。
だがその風が運んできたのは、火の気配ではなかった。
“この場にいる者たちの肌”を冷たく撫でるような、そんな感触だった。
「──あれは、“実験炉”よ」
「観測用に、一時的な臨界を得るだけのもの。セリュリエ社が設計していた、未完成品」
「マリアが記憶していたのは、それ」
「優司は──それを再現したのよ。限られた物資で、できる限り近づけて。
でも、パージも排熱もない。臨界を越えれば、もう制御できない」
「保護層も、ほとんどない。排熱装置も最低限。
制御が利かなくなった瞬間、そこは核の爆心地になる。拠点も──私たちも」
彼女の声が、ほんのわずか震えた。
「だから、あれは“使ってはいけない装置”だったの。……本来は」
その言葉に、誰も動けなかった。
誰もがそれを“知っていた”のに、はっきり口にされたのは、これが初めてだった。
「……でも」
レオが、絞るように言った。
「その炉がなきゃ、もう生き残れないのも、事実だろ」
「だからこそ……守らなきゃいけないの!」
クレールの声が、わずかに震えた。
「命だけじゃない。技術も、知識も、“戻るための可能性”も……全部、あの炉に乗ってるのよ!」
空気が、張り詰める音を立てた。
「それでも動かさなきゃいけないなら──」
カリームが、静かに言った。
「“守るために”動かすしかないだろ。違うか?」
クレールは、カリームを見ないまま、沈黙した。
その肩が、ほんのわずかに揺れた。
「……ごめん」
それは誰に向けた言葉でもなく、空気に落とされたような、かすかな独白だった。
レオが一歩、クレールの隣に立った。
言葉はなかった。ただ、その場に立ったというだけで、すべてを伝えるような一歩だった。
「もう、誰の判断でもない」
マリアが静かに言った。
「“どう生きるか”じゃない。“どう死ぬか”でもない。
──“どう残すか”を決める時よ」
その言葉に、クレールがゆっくりと目を閉じた。
空気が、震えるほど静かだった。
誰も命令しない。
誰も強制しない。
でも──誰も、止めようとはしなかった。
沈黙が、限界まで張り詰めた。
「だったら──」
レオが拳を握り直した。
「誰かがやるしかないだろ。命かけるなら、最初に立つやつが必要なんだよ」
その声に、カリームがゆっくりと振り返る。
「だったら、俺がやる。無茶を通すなら、前を踏み抜くのは俺の役だ」
「違う」
マリアが静かに遮った。
「誰が先かじゃない。“誰も残さない”って決めたの。ここにいる全員で、最後まで行く。……そうでしょ?」
その言葉に、誰も即答しなかった。
だけど、その沈黙こそが、答えだった。
クレールが震える指で端末を閉じた。
目を伏せたまま、声を絞り出す。
「……死ぬつもりでやっても、死ねば全部終わりよ……」
「でも──死なないつもりでやれば、何かが残るかもしれない。なら、そうするしかないわよね……」
誰もがわかっていた。
誰もが、それを言えずにいた。
だからこそ、“ここにいる全員”の覚悟が、初めて重なった瞬間だった。
レオがゆっくりと前に出た。
「やるか、やらないかじゃない。
やらなきゃ──全員、ここで終わる」
その背に、誰もが視線を向けた。
でも彼は振り返らなかった。振り返る時間さえ惜しいというように、ただ前を見据えた。
「だったら俺は、信じてやるよ」
「……このチームを。装置を。あいつの仕上げたものを。全部まとめてな」
その声に、空気が震えた。
沈黙が、熱に変わっていく。
「優司は言わない。クレールは止める。マリアは計る。カリームは走る。──なら俺は、信じる役をやるよ」
カリームが苦笑した。
「お前に信じられたら、やるしかねえじゃねえかよ」
「何が壊れるかはわからない」
クレールが静かに言った。だが、その声はもはや迷っていなかった。
「でも、“壊れても止まらない”って選ぶなら……最初から、全力で行くしかないわね」
マリアはわずかに頷いた。
「ここから先は、命令も、命令拒否もない。
──“選ぶだけ”よ」
誰もが、その言葉の意味を知っていた。
今この瞬間、誰かが声を上げれば全員が動く。
誰も何も言わなければ、全員が沈む。
その刹那。
──音ではなく、光が空気を裂いた。
焦げた風の中、誰かの足音があった。
いや、違う。──足音ではない。
ロケットの腹部、わずかに空気の流れが変わる。
エンジンルームの内部、誰も知らないラインが光を灯す。
背後の作業端末が、画面に白い文字を浮かび上がらせる。
最初にその文字を捉えたのは、レオだった。
思考が追いつくより先に、心臓が跳ねた。
端末の画面に、それは──白く、無機質に、明確に。
《SUB ENGINE SYSTEM BOOT CHECK... OK》
一瞬、誰も動かない。空気が止まった。
マリアがわずかに息を呑む。
クレールの視線が、端末から優司へと移る。
レオが、思わず口を開き──だが、声が出ない。
ただ、喉の奥で何かが燃えていた。
火が点いたのは、炉じゃない。
この場にいる全員の、眼の奥だった。
誰もが見た。あの表示を。そして、もう後戻りできないことも──
静かに、優司が言った。
「……繋げたのは、お前らだ。
やるか──やらないか。
あとは……飛ばす覚悟だけだ」
希望は薄い。それでも、ここで踏ん張ると決めた。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.030】
出力計画、再検討段階。
点火準備完了。
希望ではなく、確率と希望で進む。
残り作業、起動と覚悟。
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