第28話 軋む地面
進まなかったのは、心じゃない。
地表には、昨日の雨がまだ残っていた。
水気を含んだ土が、靴裏にまとわりついて離れない。
踏み出すたび、足音は潰れたように響き、わずかに遅れて吸い込まれる。
草の根が水を含んで膨張しており、踏んだ足元はぐにゃりとねじれた。
ぬかるみに混じる微かな匂いが、濡れた樹皮や苔の腐敗を思わせる。
風は吹いているはずなのに、肌には届かず、空気だけが淀んでいた。
レオは、丸太を一本、肩に担いでいた。
それはこの惑星の原生林から切り出したものだ。人の手で削った断面と、滑り止めの切り込み。すでに二十本以上が、ロケットの前方に向けて並べられていた。
カリームも、交互に運び、角度を調整しながら地面に設置していく。丸太と丸太の隙間は最小限に抑えられ、横滑りを防ぐロープがくくりつけられていた。
「……これさ」
レオが泥に半ば沈んだ丸太を眺めながら、ぽつりと呟く。
「動かすっていうより、沈めてないか?」
カリームが丸太の端を持ち直す。
「浮いてない、ってことか」
「うん、なんかさ……“地面の方が勝ってる”気がしてきた」
ロケットの下層に、静かに差し込まれていく丸太。その質量に押され、木材が少しずつ湿土に飲み込まれていく様は、まるで“運搬”ではなく“埋葬”のようにも見えた。
クレールとマリアは、少し離れた位置から地形を観察していた。
「……水は引いていないわ。地表が濡れているんじゃない、地面そのものが水を含んでる」
マリアが薄く笑ってみせる。
「“滑らせる”には重すぎて、“転がす”には地形が甘すぎる。最悪の条件ね」
クレールは視線をロケット下部へ滑らせた。
「これで動くなら、それはもう“動かした”んじゃなくて“諦めなかった”だけだわ」
優司は無言のまま、端末を手にして滑車台車の確認をしていた。
操作音が二度、乾いた音で響き、端末に「準備完了」の表示が灯る。
誰に指示するでもなく、彼は端末を閉じる。
ロケットのハッチ、その内側では、少女がまだ毛布に包まれて横たわっていた。
起きているのか、眠っているのかもわからない。
ただ、重力と湿気に満ちたこの空気の中で、耳だけが何も知らぬまま、微かに向きを変えていた。
滑車のロックが外れる音が、ロケットの下部で小さく鳴る。
優司の左手が、端末に触れたまま止まった。
「──いくぞ」
ロープを引いたのは、レオだった。
レオはロープの端を引きながら、結び目を握り直した。
泥にまみれた手のひらが滑るたびに、結び目は強く締まり、掌の皮が擦れる感触が残った。
次の滑車を固定しようとしゃがみ込んだ彼の背には、重さと湿気が積もっていた。
カリームも反対側の滑車を調整し、丸太とロープのテンションを確認する。
すべての動きが、音もなく繋がっていった。
ロケットが──わずかに、動いた。
その一瞬、全員の視線がわずかに揺れる。
……だが、音は続かなかった。
「──っ……」
レオが力をこめた瞬間、丸太の一本が、ぐしゃりと音を立てて沈む。
木材が湿土に食い込むように割れ、ロケットの重心が傾ぎかける。
その傾きは数センチだったが、“軸が逸れる”という事実だけで、誰も次の一手を出せなかった。
重さが、止まった。
音のない沈黙だけが、再び、拠点を包んだ。
──止まった。
沈んだ音とともに、ロケットの動きは静止した。
丸太の一本が、湿った泥に半ば呑み込まれていた。
割れた樹皮が泥水を吸い、軋んだ音を立てながら潰れていく。重量の圧が一点に集まり、滑車の軸もわずかに斜めに傾いていた。
レオがロープを引いたまま、舌打ちひとつ。
「……無理か。思った以上に、食い込んでる」
カリームは沈黙のまま、丸太の裂けた端を見つめた。踏み締めた足元が、わずかに沈み込んでいる。
「引いても無理。滑らない。……それだけ重いってことだな」
マリアが後方からロケットの全体形状を確認する。
「重心がズレたわ。支点が沈むなら、このまま押しても横転するだけ」
クレールも頷く。
「この湿度じゃ、地面の層ごと沈んでいく。動かすたびに下がってる」
「地盤が味方してないわけだ」
レオが苦笑まじりにそう言ったが、誰も返さなかった。
空気が、音を失っていた。
丸太は並んでいた。滑車も設置されていた。
準備はすべて整っていた。
──それでも、動かなかった。
全員が、次にどうするかを誰にも聞かず、ただ静かに立っていた。
その静寂の中で──優司がしゃがんだ。
泥に沈んだ丸太の切れ端に手を伸ばし、端を軽く押す。抵抗がなく、すぐに沈む。
そのまま土を指先で撫でる。水が混じったぬかるみの層。その下に、より密な層がある。
彼は手を止め、わずかに指を動かした。
カリームがそれを見つめていた。だが、何も言わなかった。
優司は滑車のひとつに向かい、泥のついた支柱の角度を確かめる。
それから、何も言わずに端末を開いた。
画面には、丸太と滑車の配置図が表示されている。
その一部に、彼は指先で線を引き、消し、また引いた。
少し離れた場所で、クレールが視線を投げる。
「……考えてるのね」
マリアが応じた。
「動かすために、じゃなく。“壊さないために”どうするかを、でしょ」
優司は顔を上げないまま、画面に触れ続けていた。
誰も、言葉を発さなかった。
誰も話さない。だが、それ以上に、森も鳴かなくなっていた。
風は止まり、虫も沈黙し、滑車の金属音すら土に吸い込まれて響かない。
ただ、布地が擦れる音だけが、遠くから届いてくる。
動くことも、引き返すこともせず、ただ湿った風が、丸太の間をすり抜けていった。
ロケットの外壁に泥が付着していた。
下層のフレームはすでに一部が歪み、先端の塗装も剥がれかけている。
このまま力任せに押せば、いずれフレームか、滑車か、あるいは地面が壊れる。
クレールがそっと膝を折り、端末を膝の上で開いた。
表示されているのは、地圧分布の推測図と、摩擦係数の簡易予測値。
「……このままじゃ、あと二メートルも動かない」
レオが苦笑しながら答えた。
「やっぱり、“重力相手に人力”ってのが、間違ってるのかね」
その声に、優司は反応しなかった。
彼は、まだしゃがんだまま、泥を落としながら何かを考えている。
マリアが少しだけ口元をゆがめ、淡々と言った。
「いま、ロケットを“動かそう”としてるんじゃない。……優司は、動かした“結果”を先に見てる」
「……?」
レオがきょとんとした目を向ける。マリアは続けた。
「もし動いたら、どこが壊れるか。何が余るか。何が足りないか。……それを先に、全部並べてるのよ」
優司の端末に、仮想構造の図面が現れる。
丸太ではなく、滑車でもない。“何かを引く力”を、支点と軸で逃がす構造。
彼の指先が、フレームに対して“斜めの力”を流すルートを描いていく。
泥のついた指で、彼は何度も線を引き、消し、また引いた。
その動きには、焦りも迷いもなかった。ただ、無言のうちに確実に“進んでいた”。
遠く、風がひと吹き通る。
だが、地面には波紋も生まれない。粘った大気が、それすらも飲み込んでいた。
優司は、図面のひとつを保存する。
画面には、短くラベルがつけられていた
──《滑走補助案α・仮設対応》。
それは、まだ現実には存在しない。
だが、ロケットが動く未来は、その仮設の中にすでに描かれていた。
夕方になっても、誰も「終わろう」とは言わなかった。
丸太は泥に沈み、滑車の支柱もいくつかが傾いたまま動かない。
だが、それでもレオは、作業を止めなかった。
「……まだ、できる」
声は誰に向けたものでもなかった。
ロープの張り具合を確かめ、滑車の位置を数センチだけずらす。
体中が泥にまみれ、息も上がっているのに、手を止める気配はなかった。
カリームが無言で背後から近づき、丸太の端を支える。
レオは一瞬だけ振り返って、短く笑った。
「いいよな、そういうとこ。先に倒れるなよ」
「そのつもりはない」
拠点の周囲に、ゆっくりと夜の影が広がっていく。
だが、ふたりの動きだけは止まらなかった。
その少し離れた場所で、優司は端末に視線を落としていた。
すでに仮設案αの設計に手を入れ、必要な資材をリストアップしている。
構造の負荷、摩擦抵抗、応力分散。思考はすでに“動かす未来”を前提に走っていた。
工具箱を開く音が聞こえる。レオが滑車の固定具を取り出し、再設置に取りかかっていた。
無理だとわかっている“今の仕組み”を、それでもやり直す。
それは、無意味な努力ではなかった。
「……無理なわけじゃない。ただ、“まだ合ってない”だけだ」
誰に聞かせるでもなく、レオがつぶやいた。
その言葉に、優司は顔を上げないまま、作業中の手を一瞬止める。
そしてまた、何も言わず端末に視線を戻した。
ロケットはまだ動かない。
だが、誰ひとりとして“止まって”などいなかった。
止まったのは動きだけ。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.028】
丸太式搬送にて滑走試験を実施。湿地環境下では沈下・摩擦が著しく、試験は失敗。ただし、作業継続中。仮設構造案αの生成を確認。
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