第27話 沈みゆく境
言葉にしない選択が、ときにすべてを動かす。
眠りは浅く、時間は冷たい。
誰も声を発さず、それでも、足音だけは確かに進んでいた。
ロケットの床を、カリームがゆっくりと横切る。擦れる音と、金属の鳴り。
バックパックの底がかすかに引きずられ、暗がりに淡い輪郭を残す。
艦内の空気は乾いていた。装置の冷却音が低く響き、照明は最小限。区画ごとに影が揺れている。
通路を行き交う気配の奥、ひとつだけ、動かない影があった。
布にくるまれた膨らみの輪郭は、やけに静かだった。
息を潜めているのか、それとも──すでに空気を忘れかけているのか。
だが、誰も足を止めなかった。
ただ一度、マリアがちらと視線を送ったが、それきり何も言わず通り過ぎた。
低い物音が一度、壁を震わせた。
カリームが通路の奥で、バックパックの留め具を締めていた。
靴底が床を滑る音と、バックルの小さな音がひとつずつ重なる。
荷の重さを確かめるように一度肩を揺らし、そのまま沈黙に戻る。
整備区画では、エルナが酸素測定装置の点検を終えていた。
表示された呼気濃度と圧力は、いずれも逸脱していない。
だが、そのどれも“余裕”を語らなかった。
必要なぶんだけが、正確に供給されている。
それがいまの生命維持条件だった。
隣でマリアが道具袋の内容をチェックしていた。遮蔽布、防水フィルム、採取用の小型容器。
不測の天候にも対応できるよう、最軽量の装備だけを整えている。
「クレールは?」
「もう起きてる。脚はまだ引きずってるけど、判断はしっかりしてたわ」
マリアの言葉に、エルナはひとつ頷く。
そのまま、装置のデータログを端末へ転送しながら言う。
「回収はあくまで最低限。危険があれば、即引き返すわ」
ロケットの側壁に備えられた出入口で、クレールが外気センサの表示を睨んでいた。
気温は朝よりやや上がっているが、湿度が高い。
遠くの空はまだ曇っていた。だが、薄くひび割れたような陽光が、森の輪郭だけを縁取っていた。
出発の準備が整う。
優司が最後に、装置のバッテリー残量を確認していた。言葉はなかったが、無駄な動きもなかった。
通路の突き当たりで、カリームがバックパックのストラップを引き締めていた。
黙ったまま、腰の装具を一つずつ確認している。
肩口に結びつけた耐候布が、ゆるく揺れていた。
三人は言葉を交わさずに出ていった。
通路に残った空気が、わずかに揺れた。
その背後、布の内側で、何かが微かに沈んでいた。
気配だけが残り、誰も気づかないまま、それもまた静かに消えていく。
通路に残った灯が、ゆっくりと背中を滑り落ちる。
扉が閉じた瞬間、ロケットの内と外が、まるで異なる惑星のように切り分けられた。
マリアの足取りは、わずかに深くなっていた。靴底が地に触れるたび、草の層が控えめな抵抗を返す。音にはならないが、その“柔らかさ”がいつもより濃い。
カリームは無言のまま、肩のストラップを整えながら歩調を合わせている。腰に巻かれた遮蔽布が、揺れずに垂れていた。動きではなく、空気の重さで抑えつけられているかのように。
フードをかぶったエルナが、ちらと空を見上げる。何かを確かめるような素振りはなかったが、目の奥に、すでに“距離”を測る意識が宿っている。
足を踏み出した瞬間、音が変わった。
靴底が地を離れるとき、微かに遅れが生じる。まるで、土がわずかに名残を惜しむようだった。
フードの縁が、額に柔らかく張りつく。防滴布の内側に、うっすらと肌の熱が溜まりはじめている。
風はあった。だが、枝の揺れ方は不規則で、音が途中で千切れていた。
マリアが一度だけ背後を見やる。
カリームは無言のまま、肩紐の調整を終え、首元の布を巻き直している。動きに焦りはないが、手の動きに遊びはなかった。
丘へ向かう途中、木々の間を抜けるたびに、風が肩の裏をすり抜けた。
けれど、その風が何かを運んでくることはなかった。むしろ、通り過ぎたあとの空気の層が、じわりと衣服の下に沈んでいく。
マリアが布の合わせ目を一度、指先で押さえた。息は乱れていない。ただ、呼吸のリズムが、ほんの一瞬だけ、ずれた。
背後でカリームが肩を回す。動作はごく小さいが、僅かに汗が滲んでいた。
風の匂いはない。ただ、鼻の奥にわずかに残る“重み”だけが、何かの前触れを教えていた。
丘の斜面に差し掛かったところで、三人の足取りが自然に散開する。
傾斜は緩やかなはずだった。だが、靴底が地を離れるたび、肉体の内側がひと呼吸ぶん遅れて引っ張られているような感覚があった。
地表には、乾いた草が折り重なっていた。だが、その下に潜む層は、何も言わずに吸収を始めている。
上りきった丘の上で、エルナが立ち止まり、遠くを見る。
焦げ跡の帯が、森の奥に横たわっていた。
だが、その向こうで昇るべき煙は見えなかった。風がそれを引き裂いているのか、それとも、燃え方そのものが変わったのか。
マリアが小さく装置を構え、端末に視線を落とす。
表示されている値に、彼女は何も言わなかった。ただ、手のひらを緩やかに返し、エルナの方へ渡す。
エルナが短く読む。
「……進行は遅いわね。前線はまだ谷の先」
「上昇気流が弱まってるのか。昨日の夜で風が変わったのか」
カリームが低く返す。しゃがみ込むと、地面に手を当て、枯れ葉の層を少しずつめくった。
指の先に触れたものは、乾いていなかった。
音もなく手袋を振って立ち上がり、肩をすくめる。
「こっちに来るには、まだ数日かかる」
マリアの声に、エルナが頷く。
「けれど、確実に来る」
風が一瞬、丘を素通りしていった。
そのあと、何もなかったかのように、全ての音が沈黙に沈んだ。
「洞窟へ急ぎましょう」
エルナの言葉に、ふたりが黙って頷く。
再び歩き出すと、森の下り道はすでに光を吸い始めていた。
地面に落ちた影が、いつもより早く、深く沈んでいく。
葉の裏側が、時折不自然にめくれては戻る。その動きは風に押されているようでいて、どこか内向きだった。
マリアがフードを軽く整え、カリームが、肩口の布を結び直す。指先の動きがほんの一瞬だけ止まり、言葉はなかったが、その動きに迷いはなかった。
それだけで、誰も言葉を発しなくなる。
マリアが一歩、歩調を早める。その横を、エルナが並んで抜けていく。
空は見えない。けれど、上から何かが降りてきている──そんな錯覚だけが、三人の足元にまとわりついていた。
そして、洞窟が見えた。
岩肌の輪郭は変わっていない。ただ、その周囲の草が僅かに伏せていた。
その前に、エルナが一歩進み、岩壁に触れる。感触は変わらない。ただ、指を離したあと、皮膚の上に何か残っているような──ごく浅い粘性が、気のせいではないと告げていた。
奥の発光苔は、前よりも淡く広がっていた。
マリアが無言で採取装置を取り出し、準備を始める。
エルナが立ち止まり、装置を一瞥する。データではなく、自身の呼吸に基づいて。
深呼吸ではなく、ただ吸った空気が、肺の奥でわずかに遅れて広がる。
「短く済ませる。回収のみ。深入りは避けるわ」
マリアが頷いた。言葉を発しながらも、手はすでに採取準備が整っていた。
採取は静かに終わった。
マリアの手は正確だった。採取管を滑らせ、発光苔の表層をすくい取る。空気に触れると同時に、苔は淡く色を変える。まるで、ここが“外界”だと察したかのように。
エルナはその挙動を見逃さず、すぐに保存処理へと移る。小さく息を吐いたマリアが、カリームに目配せを送った。彼は頷きだけ返し、無言のまま後方を見張っている。
洞窟を出たとき、空はすでに“色”を変えていた。
その変化を、誰も声にはしない。だが、足元を踏み出すたび、地面の感触がどこか異なる。草はまだ濡れていない。それでも、靴裏に残る感触が、わずかに粘り気を持ち始めていた。
森の輪郭が、光を手放しはじめていた。
太陽は雲の層に遮られ、その存在だけが空に浮かんでいる。
葉の表がわずかにねじれ、枝の揺れが断続的に途切れる。風ではない。“圧”だ。何かが上から降りかかろうとしている、その前の張りつめた静けさ。
マリアが立ち止まり、ひとつ布を握り直す。
「……帰るわよ」
誰も異論を挟まなかった。
言葉の代わりに、空気の流れが三人の間を通り抜けていく。
その先に何があるのかを、もう誰も訊こうとはしなかった。
その声が落ちる前に、エルナとカリームはすでに歩を返していた。
判断は共有ではない。伝達でもない。ただの“即応”だった。
森の勾配を下るうち、空が近づいてくる気配があった。
見えてはいない。だが、枝葉の重みがわずかに変わる。
葉の裏側がじり、とめくれ、風のない空間でひときわ大きく呼吸しているかのようだった。
空気には“湿り”ではない、粘性が混じり始めていた。
枝葉の隙間から染み込む圧が、風を孕まぬまま、皮膚のすぐ上を這っていた。
木々の陰が少しずつ沈む。踏み締めた足裏が、柔らかく戻らなくなる。
カリームが無言のまま足をひとつ止め、土を蹴った。泥の層が、ぐしゃりと音を立てて沈む。
彼は何も言わず、次の一歩を踏み出す。
──ぽつん。
最初の一滴は、布の上で吸い込まれた。
次の一滴は、滑らず、貼りついた。
肩に落ちた一滴。装備を叩くには軽すぎる。
けれど、質量のない水ではなかった。
マリアが小さく顔を上げる。
フードの縁が、雨粒を弾かずに留めた。
マリアがほんの一瞬、まばたきを遅らせた。その遅れが──異変だった
「……来たわね」
マリアが静かに言った。誰の顔も見なかった。
エルナとカリームは、そのまま速度を変えずに歩き続ける。
ぽつ、ぽつ。
粒の数が増えるのではない。密度が変わっていく。
一歩ごとに、肩へ落ちる衝撃が増していく。まるで、粒ではなく、拳大の圧縮空気が降りかかっているようだった。
空気を叩く“水”が、地に落ちるたび、周囲の音をわずかに沈める。
遮蔽布の表面が、すでに湿りきっている。防滴加工の内側にまで、重量そのものが染み入ってくる。
地面はまだ濡れていない。けれど、音が違う。
靴底が草を踏むたび、水を含んだような“沈み”が返ってくる。
フードの上に当たった一滴が、跳ねずに留まる。
つい先ほどまで防滴だった布地が、わずかにたわみ、濡れに変わる。
──ずぶっ。
カリームの靴底が沈んだ。
ただの水たまりではない。草の下層、地面そのものが膨張し始めていた。
雨脚が視界を揺らしていた。
空気が揺れているのではない。雨が、“空間そのもの”を押し返してきている。
「走るな」
カリームが短く言った。
判断ではない、体感に基づく命令だった。
全身にのしかかる重量が、足を浮かせるより、地に貼りつけることを選ばせる。
音が変わる。
水ではない。空から落ちてくるそれは、まるで小石のような断続的な衝突音に近い。
葉の上に当たるたび、葉脈が震え、枝がしなり、軋む。
カリームの肩が僅かに沈む。
マリアが首元の布を巻き直す。無言で、慣れた手つきだった。
フードの縁が、水を弾くのではなく、堰き止めるように水を貯めていく。
──音が支配を始めた。
森が、音で潰される。
もはや風も鳴かず、虫も声を失い、ただ“落ちる音”だけがあたりを制していた。
ロケットの影がようやく見える。
その金属の外壁に、乾いた打音が繰り返される。
水ではない。まるで無数の細針が、空から斜めに突き刺さるようなリズムだった。
昇降リフトが開く。
優司の姿が奥に見えた。口元は動いていない。
ただ、フレームを支える左手が、わずかに強く力んでいるのが見てとれた。
マリアが最後に入る。
肩を一度振り払うと、遮蔽布の縁から水ではなく、塊となった雨粒が滑り落ちる。
彼女は濡れたまま何も言わず、通路を奥へ進んでいった。
扉が閉まる直前、外の雨音が、爆音のように鳴り響いた。
その一瞬だけで、全員が理解した。
あの判断がなければ、もう、間に合わなかったと。
判断ではなく、重さがすべてを決めた。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.027】
重力環境下での降雨を確認。水滴は圧縮空気のような質量を伴い、運動を著しく制限。
適切な帰還判断がなければ、帰路の安全確保は困難だった。
今後も観測の継続と“ブックマーク”による進行記録を推奨。




