第20話 静の灯、動の声
沈黙の中に、ひとつの声が灯る。
朝の空気は、ほとんど動いていなかった。
ロケットの隔壁は淡い水滴でにじみ、金属の肌がうっすらと曇っていた。冷えた内部に加温の余裕はなく、照明すら節電のため最低限に絞られている。艶の消えた室内では、断続的な音だけが浮いていた──金属を削る低い音、配線をたどる手が触れる微かな振動。生きている証のような、人為の痕跡。
優司は、端末の前に座り込んでいた。左肘を軽く膝に乗せた姿勢のまま、ほとんど動かずに設計画面を見つめている。仮組みしたフレームの一端を右手で支え、目線は画面と実物を何度も往復した。淡く焼きが入った鋼の曲面。そこに浮かぶ歪みを、親指の腹で何度もなぞる。現場で測った微細な変形と、設計データ上の数値を照合しながら、次の工程を考えているようだった。
その表情は、朝焼けの色も受けずに淡々としている。利き手には仮設フレームの一部。焼け跡の残る金属を指先でなぞりながら、実際の部材の歪みを感触で追い、数値を設計図に反映する。
画面上の炉のイメージは、まだ“未完成”だった。何度も引き直された配線図とパーツリストの大半が空白のまま残っている。足りないもの、仮の素材、仮定された数字──それらを一つずつ試し、消し、書き換える工程が続く。
目の下には夜を越えた跡。だが、眠気は微塵も見せない。代わりに、指先だけがわずかに固く冷えていた。
向かいにいるマリアも、無言だった。
毛布を肩にかけ、小型端末を手にリストの更新作業を進める。背筋を伸ばしたまま、資料端末を小刻みに操作し、優司の設計画面に走る図面のラインを逐一目で追う。視線は静かに忙しい。部品の在庫リスト、接続部の規格表、使いかけの絶縁材。資材置き場や工具ラックを何度も見回す。指先がごく僅かに震えるのは、寒さだけではなく、集中の残滓だった。
彼女の睫毛が一度、深く揺れる。マリアの呼吸音は聞こえないが、その無音がかえって拠点の静けさを際立たせていた。
部屋の隅。少女が小さく丸まっている。
毛布に埋もれた体はほとんど動かず、目も閉じている。毛布の端から覗く耳の形が、ごく僅かに揺れていた。呼吸音は微かで、まるで物音ひとつ立てまいと身を潜めているかのようだ。
装置の基部は、組み立て工程の中盤にさしかかっていた。だが出力は、どうしても上がらない。試験点火は三度を数え、いずれも規定以下の発熱と反応停止で終わった。進捗を遮るのは、素材の質と量。必要な金属部材の多くが仮設のまま、肝心なパーツリストの空欄が埋まらない。
部品が足りない。現場の空気も、どこか停滞していた。
ふと、外壁越しに小さな足音が混じる。ロケット船体に伝わるリズム。硬い地面を、乾いた靴底が打つ気配が室内に届く。
──レオだった。
朝のロケット内部は、まだ眠気が残るほど静かだった。
仕切りの金属がわずかに結露し、光のない空間に薄い湿気が漂っている。誰もまだ言葉を発していない。
だが、空気の中にひとつだけ“動き”が混じる。
寝袋の中から、レオが音もなく体を起こす。
素早く寝具をたたみ、隅に並べる。次に全員の水筒を点検し、何気なく人数分の蓋を緩めていく。その動作は流れるようで、無駄がなかった。
レオだけが動いていた。まだ薄暗い拠点内で、静かに動く姿が、一際目立っていた。
ポリ容器を抱えて移動しながら、床の段差を無意識に避ける足取り。
誰も指示していないのに、彼は“今やるべきこと”を正確に選んでいた。
まるで昨日の夜、誰かに全てを託されたかのような──そんな動きだった。
「おはよ。……二人とも、寝てないな?」
朝の光はほとんど入らないが、彼の声だけがその場にわずかな明るさをもたらす。けれど、それもどこか、抑制された響きだった。優司は返事をしない。マリアは一度だけ、小さく頷いて応えた。
レオは荷物から水筒を二本取り出し、無言で作業机の端に並べる。優司とマリアがまだ設計画面の前で沈黙しているのを横目に、レオは手早く空き缶や工具を集めては、足元を静かに片付けていく。再び外に出ようとした足が一瞬止まるが、何かを思い出すように再び動く。その背筋は、軽く見えて芯が通っていた。
──火は、まだ灯らない。
だが、誰かの動きだけは、朝の静けさを破ろうとしていた。
部屋の隅では、少女が毛布に包まれていた。膝を抱えて丸まり、静かに目を閉じている。布の端から覗く耳のあたりが、微かに上下しているのが見えた。眠っているのか、ただ力を抜いているのか、その境界も曖昧だった。深い底に沈んだ呼吸音─レオが近づき、静かに水筒をそばに置いた。渡す仕草に強制はない。ただ目線を少女に落とし、いつもの調子で声をかける。
少女は反応しなかった。ただ毛布に包まれ、目を伏せている。
レオは数秒、その顔を見つめた。
拒絶ではない。だが、扉は閉ざされたままだ。
──まあ、また今度な。
そう呟く代わりに、彼は肩をすくめ、水筒をそっと近くに置いた。
その手が、ほんの少しだけ迷っていたことを、誰も知らない。
「……ま、飲みたくなったらでいい。ほっとくとカリームが全部飲むからさ。……じゃ、またあとでな」
反応はなかった。まぶたも動かない。レオは一瞬だけ眉を曇らせるが、すぐに口角を引いて、何事もなかったように立ち上がる。
──次だ。
拠点の一角、仮設の作業卓に、小型端末と配分リストが広げられていた。
クレールは椅子に腰掛けたまま、数値と睨み合っている。
酸素吸着材の残量、フィルターの稼働限界、消毒液と保存食の在庫変動。
すべてが“使えば減る”。それを、どう減らさずに動かすか。
彼女の指は静かに動き続け、画面に走る線がわずかに揺れた。
傍らには、空のポリ容器と、再利用されたパッキング材の山。
リストの項目がひとつ更新されるたびに、重力のような沈黙が落ちる。
言葉ではなく、数値で現れる現実。
その残酷さを、彼女は誰よりも知っていた。
「──真面目すぎて燃え尽きんなよ」
ふいに、レオの声が飛んだ。
クレールが顔を上げると、彼は手に端末を持ったまま、屈託なく笑っていた。
だがその目は、冗談の中に火種のような緊張を宿していた。
笑っているが、気を抜いていない。
──冗談を言っている目じゃない。
レオのまなざしは、正面から現実を見ていた。
笑いの裏に、火の揺らぎを映し込んで。
それがレオという人間だった。
屋外の仮設置場。カリームが、獣の腿骨らしきものを石で磨いていた。泥と煤の混じる表面を布でぬぐい、角の丸い石でさらに削る。彼の横には、乾いた草紐と短い枝が数本。即席の道具作りというより、素材の感触を確かめているような仕草だった。
「……あ、それ、まだ生乾きだぞ」
レオが軽く声をかけると、カリームはちらと目をやる。
「知ってる。けど、こういうのは乾いてからじゃ、曲がらないんだよ」
「へぇ。職人かよ」
冗談めかして骨を手に取るレオ。重みを測るように手の中で転がし、慎重に握り直す。何も言わないが、「残しておきたい感触」が確かにあった。
「優司に見せに行こうぜ」
「……あいつ、見ても何も言わねえぞ」
「だろうな。でも、“使わねぇ”とは言わないだろ?」
レオの言葉に、カリームが小さくうなずいた。
場面が移る。
炉の設置場。仮設のカバーで囲われた中、優司とマリアが慎重に部材の調整を続けていた。端末画面が赤く警告を示し、次の瞬間、金属の接点から小さな火花が飛ぶ。沈黙が一瞬、凍る。
マリアがすぐに反応し、補助入力パネルに手を伸ばす。配線を切り替え、再起動を促す。無駄のない動きの中で、炉の内部は静寂を保ち続けていた。
優司の指先が止まる。
空気が、わずかに緊張した。
クレールが身を起こし、状況を確認しようとした時だった。
「下がってろ!」
レオの声が、硬く拠点全体に響いた。
マリアの肩に手が伸びる。炉から距離を取るように促す。その表情は静かだが、目の奥には鋭い集中が走る。
優司は淡々と再度、端末に指を走らせる。警告音が橙色に変わり、炉の出力がかすかに安定領域に入る。張り詰めた空気が、すこしずつ和らいでいく。
爆発には至らなかった。だが、空気が一瞬だけ凍りついた。
金属のきしみと、焦げた匂い。
「……チッ」
誰かの舌打ちが、沈黙の中でやけに響いた。
皆が息を呑んで炉を見つめる。
火は──点かなかった。
誰も余計な言葉を挟まなかった。だがその場には、確かな手応えがあった。
透明な保護板の向こう、炉の中心部。掌ほどの淡い橙の光が、ほんのわずかに揺れていた。
それは熱というより、“生きている証”のような灯りだった。
小さな火が、かすかに息をした。
誰かが安堵の声を漏らす。
その音の向こうで、レオはまだ口を閉ざしていた。
言いたいことはいくつもあった。
でも、言うべきことは一つだけだった。
ほんの短く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「……これ、希望だな」
レオが、ごく静かに呟く。誰に向けたでもない。
だが、その場にいた全員の耳に届いた。
炉の警告が落ち着き、全員がほっと小さく息を吐く。
優司は何も言わず、設計端末の数値に目を戻す。マリアは隣で工具を拭きながら、静かに背筋を伸ばした。
拍手も歓声もなかった。
ただ、その小さな火は、確かにその場に灯っていた。
やがてレオが、ぱっと立ち上がる。
「おーい、そろそろメシの時間だろ。誰か、芋持ってこいって。焼けるかは知らないけど」
肩をすくめて笑ってみせる。冗談が空気を和らげるが、その奥には本気の決意が見えた。
少女は無言のまま、ロケットの隅で膝を抱えていた。
橙色の光が、彼女の瞳の端に淡く映る。
毛布の中で、猫のような耳が、ごくわずか動いた。
クレールがそっと歩み寄り、まだ冷たい炉の外装に指先で触れる。残った熱を、静かに確かめるように。
指先に感じたのは、温もりではなかった。まだ、火になりきれない“余熱”だった。
「……あれは、まだ“火”とは言えない」
その言葉に、レオが口元だけで笑い返す。
「じゃあ、種火ってことで。あんたが言ってたろ、“希望は選ぶものだ”って」
誰も返さないが、その場に沈んだ静けさの中で、ごく小さな温度が、確かに生まれていた。
誰かが動けば、誰かの心も動く。動きが未来を示していた。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.020】
静的状態に変化反応。内部からの発声記録を初検出。
発振源は未特定。ただし、他個体に行動誘発の兆候あり。
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