第19話 鎮灯の残滓
名を持たぬものに、手は届くか。
静寂を切り裂くように、鉄を削る音が響いていた。
優司の指先が端末の設計画面を滑るたび、画面の構造図が変化し、試作炉の姿が次第に輪郭を帯びていく。が、それはまだ完成図ではなかった。あらゆる部品が仮設で、素材欄のほとんどは“未定”のまま空白だった。
傍らでは、マリアが無言で補助作業を進めていた。接続部の規格を整え、可能なパターンをリストアップしていく。会話はない。だが互いの動きに、焦りと焦燥の色は滲んでいた。
「──このままじゃ、足りないね」
不意に、背後からクレールの声が落ちる。手には端末。酸素供給の推定グラフと、食料残量の数値が並んでいた。
「装置を組み立てるにしても、土台の素材がない。熱伝導率に耐えられる合金は……いま、手元に何ひとつ残っていない」
優司は言葉を返さず、設計画面を一つ送った。空白のパーツリストには、マリアの手で書き込まれた「構成候補:局所金属鉱」──それも、“あれば”という仮定の話だ。
「資材になるものを探しに行くしかない、ってことか」
声の主はレオだった。物資整理を終えたばかりの姿で、口元にだけ薄く笑みを残している。
「やっぱ俺とカリーム、か?」
彼の背後で、カリームが黙って腕を組んだままうなずいた。
「妥当でしょう」
クレールが即答する。
「体力と行動力で考えれば、あなたたちが最適。……ただ、今回は調査も兼ねる。単に走れるだけじゃ、足りない」
彼女は視線を滑らせ、室内の端にいた一人に目を向けた。
「エルナ、あなたも同行を」
名を呼ばれた少女──エルナ・ミレイスは、わずかに瞬きをしただけだった。だがそれは、即答するより深い理解の兆候だった。
「妥当です」
短く、静かに応じる。
「現在、ロケット内の医療的処置は必要ありません。彼女──少女の状態は安定していますし、変動の兆候もない」
「……つまり、あんたの仕事は一旦、終わってるってことか」
レオが合点がいったように言うと、エルナは軽くうなずいた。
「また、未知環境での観測とリスク管理には、感情よりも判断力が要求されます。私が加わることで、二人の行動判断を補正できます」
「ふぅん。補正される側としては複雑だけど、安心材料にはなるかな」
レオは肩をすくめて笑った。
「私は前線に出るわけではありません。観測と分析に専念します」
「……頼もしいね」
クレールの目がわずかに和らいだ。
──こうして、調査班は三名で構成されることとなった。
クラフトを進める者たちと、素材を求めて動く者たち。その両輪が揃わなければ、命の炉は点かない。
空気が薄い。口の奥にざらつく灰の匂いがまとわりつき、歩を進めるたびに、脚が重力に引きずられて沈む。
レオが手を挙げ、停止の合図を出した。
「……ここから南斜面だ。エルナのマーカー、あと二百」
「風、変わってる」
カリームが鼻を鳴らした。
焦げ臭さの奥に、獣の匂いが混じっていた。毛皮と泥、そして血が乾いたような、土に馴染まない生臭さ。
ぴしり、と枝が割れる音が背後で跳ねた。
三人の視線が、ほぼ同時に向く。
そこに姿はなかった。ただ──沈黙の底で、地面が、わずかに震えていた。
斜面の木々の間を、巨大な影が滑るように通り過ぎていく。
輪郭は曖昧だった。だが──背中の湾曲、異様に張った肩、毛並みに埋もれた鈍く光る牙。
猪。いや、それに似た“何か”。
人間の三倍はある質量が、音もなく通り過ぎていったのだ。
「……いまの、見たか」
「体高二メートル以上。毛皮、厚さ二十センチはある」
「戦うのは、無理だな」
レオが、短く言って、踵を返した。
逃げるのではない。進むための迂回だった。だが、無言のうちに全員が理解していた。あれに見つかれば、終わる。
湿った土を踏み、苔の生えた岩を避けながら、三人は声を出さずに進んだ。
やがて、目的の座標にたどり着いた。
崩れた地表から、まだ焼け残った熱が残っている。地熱か、あるいは爆発の名残か。
岩の割れ目に、淡い銀の光を帯びた鉱物がのぞいていた。
「──あったな」
レオが小さくつぶやいた。
カリームが足元の何かに気づき、しゃがみ込む。
「……これ、骨じゃねぇか?」
煤けた地面に転がっていたのは、明らかに異様な大きさの頭骨だった。
歯列は粗く、牙の根元が金属のように冷たく光っている。
「硬度、異常。鉱物の再構成か……高温環境で焼成されたかも」
エルナの声が低く落ちた。
「武器に使えるかもな」
カリームが骨の柄を持ち上げる。ずしりと重く、バランスも悪い。だが、
「……叩き割るには、十分だ」
その目は、冗談を言っていなかった。
それは、戦いの準備ではない。生きるための“道具”──火が灯るその前に、襲われたときのための、ささやかな備えだった。
枯れた雑木林を抜けて、少し開けた岩場に出たときだった。
「……あれ? ビーコンが……」
レオが振り返り、腰のあたりを手で探る。数秒後、目線を上げた。
「落としたかもしれない」
その声に、カリームがすぐに振り向く。
「は? いつからだ」
「たぶん──さっき、走ったあたり」
そう、あの“何か”に遭遇して撤退した直後。尾根沿いを転げるように走った、そのあたりだ。
「戻るには、遠いな」
エルナが静かに告げた。表情には焦りも怒りもない。けれどその眼差しは、はっきりと危険の重みを測っていた。
レオは無言で何度も腰元を探る。
やはりビーコンが、ない。
一拍置き、息を吐いた。
「……落としたな。あの獣に出くわしたあたりか」
カリームが振り返る。
「あんなのが突っ込んできたら、慌てるのも無理ねぇよ」
「回収は……あとだ。今は──誰も傷つけずに帰るのが先だろ」
レオの声は低かったが、言葉の奥に、何かをかみしめるような硬さがあった。
彼の声には、後悔と緊張が滲んでいた。
カリームが、ふぅ、と大きく息を吐く。
「回収は後日か。今は無理に決まってる」
「でも、場所はわかってる。あとで──ちゃんと、取りに戻ろう」
レオはそう言って、自分で自分に言い聞かせるようにうなずいた。
エルナは小さく首を振る。
「それだけじゃない」
彼女が指差した地面には、先ほど通ったはずの道とは違う、深く刻まれた複数の“線”があった。
土の表面が、大きく抉れている。ひび割れた石の隙間には、細く鋭い“引っかき傷”が走っていた。
「──これは、あの獣じゃない」
エルナの低い声が、空気の温度を下げる。
カリームが眉をひそめ、片膝をついてその痕跡をなぞった。
「蹄でも、爪でもない。けど……歩幅も、人間のそれじゃねぇな」
「重心の位置が違う」
エルナがそう呟いたとき、その目はすでに端末を開き、痕跡の座標と画像を記録していた。
誰が残したのか。それとも、“何”が。
──少女のことが、脳裏をよぎる。
けれど、誰もそれには触れなかった。
いま言葉にしてしまえば、何かが崩れるような気がした。
「……帰るぞ。日が落ちる前に」
三人は静かに立ち上がった。だがその背中には、行きよりも重いものが刻まれていた。
陽は傾き、空気が再び冷え始めていた。
炉の仮設置台には、まだ輪郭も曖昧な金属構造が据えられている。だが、設計図面の中では、すでに“核”となる中心部の寸法が確定していた。
優司の端末には、昼間からのログが静かに蓄積されていく。わずかに指先が止まった。画面には、“使用可能素材リスト”の欄──いくつも空欄が残ったままだ。
その空白を埋めるには、いまここにはいない誰か──外に出ていった彼らの、“希望の炉材”が絶対条件だった。
それでも彼は、無言のまま作業を続ける。
室内の隅。少女は毛布に包まれたまま、声も動きもなくただじっとしていた。その眼差しが、時折、優司の手元へと滑る。だがそれが興味によるものか、警戒によるものかは判然としない。
その視線の動きに、ほんのわずかだが“耳”の位置も動いた。──横に、小さく揺れたのだ。
気づいた者はいない。ただ、その事実だけが、密やかに室内に残された。
その空間の静けさを、扉の開閉音が破った。
午後も深く、空の色が淡く濁り始めた頃。
ロケット前の斜面に、三つの影が戻ってきた。砂に削られた靴音は重く、誰も口を開かないまま、ただ帰還の歩調だけが聞こえた。
クレールが音に気づき、作業端末を閉じて立ち上がる。ロケットハッチの横にいたマリアも無言で身体を起こした。
レオが真っ先に顔を上げる。
「ただいま」
その声には、成功でも失敗でもない、どこか“現実”だけが詰まっていた。
「どうだった?」
クレールの問いに、レオは肩からザックを降ろす。
「必要そうなものは──そこそこ拾えた。鉱石、金属片、古い機械の残骸……あとは、これ」
マリアが一歩前に出て受け取る。中には、黒ずんだ金属と焦げたプラスチック片、そして細かく分解された筐体の破片。それらを無言で撫でるように確認していた優司が、ひとつのパーツに手を伸ばすと、マリアが静かに頷いた。
「エネルギー系の素子が、いくつか再利用できる」
淡々とした声だったが、その一言に、全員の呼吸がわずかに変わる。
クレールが、次の問いを投げる。
「他には?」
「動物の痕跡……かなりあった。見たのは一体だけだけど、他にも“いた”痕がある」
カリームがうなずく。
「猪みたいなのが一頭。けど、それより妙な痕が──人間じゃない、でも蹄でも爪でもない。……重い、変な歩き方の何かが、通ってた」
その言葉に、クレールの指先が一瞬止まった。
「写真と座標は?」
「エルナが記録してる」
クレールの視線が移る。エルナは無言でうなずき、端末を掲げて短く言った。
「動きは不規則。単体。ビーコンは……落とした。追跡用の動きがあれば、発見できる」
その“ビーコン”という言葉に、クレールの眉がわずかに動いた。
「落とした……それ、動いてたら?」
レオが口を挟む。
「まだ動いてはいなかった。でも、もし──動いてたら、位置が変わってる。あとで、確認しに戻る」
「それ、動物が咥えて持ってったりありえ……」
カリームが言いかけたが、誰も続きを言わなかった。
すぐ横で、小さな物音がした。
少女が、起きていた。毛布を肩まで被り、薄闇の中で静かに彼らの様子を見ていた。視線が合うと、わずかに首を傾ける。その動きに合わせ、耳が、ふるりと揺れていた。
マリアがそっと視線を落とし、少女の足元に水のボトルを置く。何も言わず、ただひとつ息を吐いて、また炉の設計画面へと戻っていった。
ロケットの一角。工具の並ぶ床にしゃがみ込みながら、優司が端末で何かの設計を見つめていた。その手元に、乾いた音が落ちた。
「見てくれ。さっき拾った」
カリームが差し出したのは、獣の骨だった。掌ほどの長さで、節くれだった形状。乾燥して軽く、それでいて折れそうな気配はない。
優司はちらと一瞥をくれ、黙って骨を受け取った。指先で軽く弾き、関節部の密度を指で測るように押してみる。
「……そこそこ硬い。加工に耐えるとは思う」
そう短く告げてから、また端末に視線を戻す。骨の質に問題はなさそうだが──使い道までは語らない。あくまで素材の評価まで。それが、整備士としての自分の役目だと心得ているかのように。
カリームは小さく息をついた。
「ま、見た目はアレだけど……握った感じは悪くなかったんだ。たとえば……何か叩くときに、ちょうどいいかもな」
冗談のような口ぶりだったが、その目は真剣だった。感触と直感。体で使えるかどうか、それだけが判断基準だった。
「もう何本か拾ってくるかも。無傷のやつ、見つかればだけど」
カリームがそう言って立ち去ると、マリアが無言でその背を見送った。
骨の落ちた音が、まだ静かに空気に残っていた。
その後ろ姿に、レオが静かに呟いた。
「……希望の炉材、揃い始めたな」
誰も返事はしなかったが、その場の空気が、すこしだけ──光を帯びた。
灯が点るその前に、拾うべきものがあった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.019】
微熱反応、炉外にて検出。出力閾値に満たず、“残滓”として記録。
拾われた灯の行方を追う読者は、“ブックマーク”による記録継続を推奨。




