第18話 灯らぬ炉のまわりで
灯らぬまま、手だけが動いていた。
冷気が低く這っていた。床を這い、壁を撫で、吐いた息の温度をすぐに奪っていく。
熱源のひとつもないロケット内部に、灯っていたのは端末の光と──機械が吐き出す、ごく微かな呼吸音だけだった。
誰も喋らなかった。
朝という名の時間が来ているだけで、太陽の温度は届かない。
優司は、しゃがみ込んだまま動かない。
冷気が低く這っていた。床を這い、壁を撫で、吐いた息の温度をすぐに奪っていく。
熱源のひとつもないロケット内部に、灯っていたのは端末の光と──機械が吐き出す、ごく微かな呼吸音だけだった。
誰も喋らなかった。
朝という名の時間が来ているだけで、太陽の温度は届かない。
優司は、しゃがみ込んだまま動かない。
光源も持たず、端末のディスプレイにじっと視線を落とし続けていた。
バッテリーを抑えるため画面は薄暗く、何度も上書きされた設計線が重なって、途中から幾何なのか迷路なのかも判然としない。
何かを探っているわけでもない。
目にしているのは“ここまでに描けてしまった限界”であって、その先はまだ一度も現れていなかった。
背後で金属の擦れる音がした。マリアだ。
硬質ゴムの破片を拾い、指先で引き裂きながら強度を確かめている。
外気圧にさらされた素材は、目視では判別できないほど脆くなっていることがある。
だから彼女は何も信じない。数値もタグも信用しない。ただその都度、壊して確かめる。
「……断熱、ほぼ全滅」
吐き出されたのは言葉というより、状態の指差しだった。
優司は答えない。答える意味がない。設計画面の右下に線を一本、引いては戻し、戻しては消していく。
ひとつ息を吐くたびに、室温がさらに下がっていくような錯覚があった。
拠点の一角では、クレールが端末を膝に開き、整然とした指の動きでリストを並び替えていた。
青、黄、そして赤。
次第に数値は枯れ、いま残っているのは“まだ足りていない項目”ばかりだ。
だが彼女は、眉ひとつ動かさずにそこへカーソルを落とす。
「……必要物資の充足率、三割未満」
その言葉に、誰も反応しなかった。
“足りない”ことは、誰よりも作業をしている者たちが知っている。
希望を灯す炉を、まだ誰も組み始めてはいない。
設計の基盤も未定で、素材の目処すら立たない。
──だが、それでも作業は止まっていない。
優司は、端末の設計画面の空白に指先を滑らせた。
その手は、止めたのではない。次の手を“決めかねている”だけだった。
ロケットの隅、配線と資材の間に、ひとつの毛布が折り重なっている。
その中にいる少女は、動かない。
まぶたを閉じているのか、ただ伏せているのかもわからない。
だが──ときおり、小さな呼気が音もなく上がる。
炉も、言葉も、彼女には届いていない。
けれど、確かに“そこにいる”という気配だけが、拠点の温度をわずかに揺らしていた。
クレールは拠点の中央、通路沿いに膝をつき、端末の光に顔を照らしていた。
バッテリ残量、酸素濃度、水処理装置の乾燥進度、可燃素材の保有数。
どのグラフも、下を指していた。
彼女はリストを一瞥し、短くまとめるように言った。
「……いまの消費率で、あと九日」
誰も答えない。答えなくても、聞こえている。
この数字は、説得ではなく“宣言”だった。
延命の猶予。生存に必要な備蓄の、終端。
そのまま彼女は立ち上がり、声を張らずに続ける。
「日中活動班を再編する。カリーム、レオ──拠点周辺の整理とフィルター処理を優先。資材置き場の湿気も確認して」
「了解」
レオは肩を軽く回しながら答えた。声に軽さはあったが、動作は慎重だった。
「外には出ない。あくまで、動けるための準備」
カリームも黙って頷き、工具袋を肩にかけた。
その手には、朝の震えがまだわずかに残っていた。
クレールは続けて、優司とマリアのほうを見やる。
ふたりとも、会話はない。
設計画面と部材。試算と感触。無言のやり取りだけが、正午に向けて進んでいく。
──炉はまだ生まれない。
だが“それを生ませる作業”は、止まらずに積まれていた。
床には、焼け落ちた外殻の部材が並べられていた。
マリアがそのうちのひとつを選び、端を金ヤスリで削り落とす。
鉄粉が舞い、空気中に金属のにおいが広がった。
優司はそれを確認することもせず、別の角度から同型の部材を測定している。
動きに、言葉は要らなかった。
この拠点にとって最も高密度な作業は、最も静かな場所にあった。
ロケットの端では、少女がまだ毛布の中で丸まっている。
手も、足も見えない。ただ、そこにいるだけ。
だがその「そこにいるだけ」という事実が、全員に知られていた。
誰も触れず、誰も声をかけない。その距離感すら、空気の一部になっていた。
レオが拠点奥の整理棚を開け、奥に手を突っ込んで缶詰のラベルを読み取る。
「……そろそろ栄養も偏るな。クレール、配給パターン見直して」
「把握済み」
クレールは顔も上げずに答える。
その手はすでに、栄養バランスと消費順の並び替えに入っていた。
カリームが、ちらと毛布の方向を見る。
「……あいつ、何か食ってんのか?」
「昨日の残りを、手元に置いてるだけ。食べた形跡はない」
今度はクレールが答えた。無機質な報告として。
それ以上、誰も言わなかった。
少女の沈黙は、問いを跳ね返すのではなく、問いそのものを発生させない。
それは、ある種の距離として拠点に馴染み始めていた。
午前の時間が終わろうとしていた。
炉はまだ見えない。けれど、全員の動きは、炉を迎えるために使われていた。
鉄片が、静かに床を打った。
マリアが手にしていた配管部品が、指を離れ、無言の音で転がっていく。
その金属片は、強度試験でわずかな歪みを起こしていた。
外見には出ていなかったが、密封時の高圧に耐えきれない。
──つまり“使えない”。
マリアはそれを拾い上げ、何も言わずに廃材箱へ入れた。
動きに感情の揺れはなかった。だが、それが何十個目の失格だったのか、もう誰も数えていない。
優司は、その一連の動作を見ていなかった。
目の前の設計画面に、一本ずつ線を引いては消し、またためらっては止めていた。
端末の表面は指紋で曇り、線の重なりで表示も読みづらくなっていた。
それでも彼は、上書きするように寸法データを入力していく。
何度目かの沈黙のあと、マリアがつぶやく。
「この条件で、設計を維持するのは……」
最後まで言葉にはしなかった。
途中で止めた。自分で飲み込んだ。
その判断もまた、彼女の合理性の一部だった。
クレールは端末を見つめている。
素材の圧縮耐性と耐熱限界、それに必要な炉心の気密性。
どれも必要なはずだった。だが、いまこの環境下では“持っていない”ものばかりだ。
試算上の不可能。理論上の限界。
端末の表示は明快だった。
──この設計は、始まらない。
にもかかわらず、誰も作業を止めようとはしなかった。
優司は膝を立てたまま、削った金属端子の精度を確認している。
マリアは再び廃材の山から使える部材を拾い、やすりを手に取った。
クレールは、必要物資リストの並びを変え、“不要”の分類を一つ後ろに送った。
「いまは無理」ではなく、「いまは“まだ”無理」。
その一文字の差に、全員が寄りかかっていた。
午後の空気は、冷えたまま動かない。
音も、光も、炉の熱も、まだない。
けれど、それでも作業だけは止まらずに積み上がっていた。
外光が拠点の奥まで届かなくなった。
金属板の継ぎ目から滲むように差し込んでいた陽も消え、代わりに冷気が天井を撫でていた。
灯りは使わない。節電と判断された。
作業場の空気は、ほとんど無音だった。
ごく稀に、金属が石に触れるような音がする。そのたびに、音の方ではなく“手の疲れ”だけが増えていくようだった。
優司の動きが、わずかに鈍っていた。
それでも彼は端末を手放さない。
もう書き込む余地もない画面の隅に、小さな円を指先で描き続けていた。
マリアもまた、設計画面の選別を続けていた。
力の抜けた手つきだったが、作業に迷いはない。
判断は研ぎ澄まされている。ただ、身体のほうが静かに限界へ近づいていた。
ロケットの端、毛布の下では、少女が静かに目を開けていた。
何かを見ているわけではない。
だが、希望のない炉と、その周囲に座る人々の空気だけは、彼女の中に確かに届いていた。
レオとカリームは、無言で寝袋へと身を沈めていた。
カリームが一度だけ、首を鳴らすようにして目を閉じる。
それは“動かない”という決断だった。
「……今、休む。そういう番だ」
口には出さない。出す必要もない。
彼らは誰よりも身体を使う役割にある。
だからこそ、動かないことが“備え”だった。
レオもまた、炉のほうを一度だけ見やってから、目を伏せた。
声も冗談も出てこなかった。
言葉より前に、空気で理解していた。
今、彼が入る余地はない。
だからこそ、次に来る出番にすべてを残す。
──それが、自分たちの位置だと知っていた。
誰も止められない。
けれど、誰も進めていない。
その曖昧な夜の気配が、拠点全体を押し包んでいく。
炉はまだ灯らない。
だが、手は止まっていない。
“終わっていない”という希望ではない。“まだ止まっていない”という、それだけの選択。
その夜は、ただ静かに沈んでいった。
拠点は、沈黙のまま深夜を迎えていた。
光はほとんどなかった。端末の画面がひとつだけ、小さな四角として空間を照らしている。
優司は、まだ端末を膝に乗せていた。
バッテリーの残量表示が赤く点滅している。
だが彼は、それに気づいた様子もなく、ただ画面を見ていた。目で、ではない。考えるという動作の一部として、そこに留まり続けていた。
マリアは隣で、静かに道具の配置を整えていた。
動きに焦りはなかった。疲労も見せなかった。
だが、明らかに“この夜を終わらせる準備”に入っていた。
音は、もうほとんど発生していない。
誰かが深く息を吐く音だけが、時折、天井に反射する。
ロケットの隅、毛布の奥では、少女がまだ目を開けていた。
瞼が動いたわけではない。ただ“起きている”ことが伝わる。
動こうとはしない。誰を見ているわけでもない。
だが彼女の呼吸だけが、音のない拠点の中で唯一、明らかに“生きている”ことを示していた。
クレールは最後の記録を入力し、端末の蓋を閉じた。
手元には、更新されたリストが一枚。
「残り九日」──その文字を、彼女は声に出さなかった。
声にしても、変わるものはなかったからだ。
レオとカリームは、寝袋の中で目を閉じていた。
眠っているかどうかは分からない。
ただ、誰も起こさないことだけが確かだった。
彼らは役割を知っていた。
いまは動かない。
動くのは、次だ。
──それだけの自覚が、夜の重さに沈んでいた。
優司が、手を止めた。
ようやく、ではなかった。
ただ、これ以上“今日の作業”に意味がないと判断しただけだ。
紙を閉じる音もなく、彼は背を壁に預けた。
マリアもそれを見て、無言で座り直した。
二人の間に、言葉はなかった。必要もなかった。
炉は点かない。
炉はまだ、ただの廃材の組み合わせにすぎない。
けれど、その周囲にいた者たちは全員、“火を迎えるため”の位置に居続けていた。
拠点の上空、雲の層の向こうで、かすかに空が薄まっていた。
まだ朝ではない。
だが、“夜が尽きようとしている”という事実だけが、風の匂いに混じっていた。
終わらぬ夜に、誰も背を向けなかった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.018】
主炉、未点火。熱源反応なし。
ただし、周辺ユニットに作業痕を確認。全員が離脱せず配置を維持。
終わらぬ夜に寄り添う読者は、“ブックマーク”にて記録の継続を推奨。




