第1話 整備士、空の拍動
錆びついた日常の奥底で、
世界は静かに、息を潜めていた。
焼けた機材の煙の匂いが、爪の隙間にまで染み込んでいた。
焦げついたケーブルの切れ端が、足元で転がる。
鉄と埃と油を混ぜた重たい空気が、熱を含んで鼻を刺す。
背中には古い送風機の振動。
無骨な音が骨を伝い、胸の奥までじわりと響いた。
錆びたフレーム。割れたメーターパネル。
手を伸ばせば、金属の棘が皮膚を裂きそうだった。
それでも、俺は手を止めない。
「……動け。せめて、もう一度くらいは」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
声というより、独り言。
誰にも届かなくていい、俺のためだけの言葉。
手袋の中で指先が冷たくなる。
最後のケーブルを差し込み、電源を入れた。
一拍。
メーターが、息を吐くようにぼんやりと灯った。
軋む音。古びた心臓が、かすかに動き出す。
規格外の部品を無理やり継ぎ足しただけの構成だ。
冷却機能も死んでいる。寿命も長くはない。
それでも、動いた。
その事実だけで、充分だった。
「……お前さ、本当に行く気なのかよ」
扉の向こうで声がした。
振り返ると、作業服姿の連中が三人。
油に染みた帽子。焦げた手袋。
俺と同じ、地べたの人間。
「若年宇宙飛行士選抜ってさ、エリートの見せもんじゃん。場違いすぎんだろ」
「あれって、次の“宇宙時代の象徴”選ぶんだぜ? 通るわけねぇ」
悪気はなかった。
笑っていたけど、目は笑っていなかった。
誰よりも知っているからこそ、口にする現実だった。
「……わかってるよ。俺が通る場所じゃないのは」
俺は静かに立ち上がり、工具を片付ける。
「でも、どこまで通用するか、見てみたくなった」
その言葉に、誰かが少しだけ息を呑んだ。
会場は白かった。
床も、壁も、光も──
すべてが無菌室のように整っている。
並ぶ若者たちの顔は、“選ばれるために磨かれた”均質さを帯びていた。
その中で、俺だけが明らかな異物に見える。
視線がいくつもぶつかる。
好奇心でも軽蔑でもない。
分類不能なものを見るときの、あの距離感。
「……彼女だよ、ほら。前列の、あの白スーツ」
声が聞こえた先に、ひとりの人影がいた。
白いスーツに銀のライン。姿勢に無駄がない。
すべての動きが計算されているようだった。
精密機械を鍛造の域まで仕上げたような存在を見たときと、同じ感覚だった。
静かに、完璧にそこにいた。
クレール・ド・ルナ。
その名は、すでにひとつのブランドだった。
最年少での衛星任務帯同。
多言語訓練、格闘術、航法技術。
すべてにおいて“首位”。
その目が、一瞬だけ俺を見た。
表情は変わらない。感情も見えない。
ただ、「何かを確認した」ような目だった。
俺は、何も返さなかった。
俺は語らない。俺は、手で語る。
試験は、実技一本。
配られたのは、破損した機材と一本の工具。
指示はただひとつ──《生命維持装置の再稼働》。
時間制限あり。設計図なし。
使用パーツは不揃い。マニュアル、使用不可。
他の候補たちは迷わず手を動かしはじめた。
理想的な配線。丁寧な処理。
どれも綺麗だった。完璧に近かった。
でも、動かなかった。
一瞬、空気が止まった。
俺はケーブルを解体し、芯材を剥き出しにする。
工具の柄が掌の中で滑った。
汗と油が混ざり、指先が金属の感触を失いかける。
小さく息を吐き、手袋の縫い目を噛んだ。布越しに歯の圧で震えを殺す。
冷却管の継ぎ目が焼けて膨らみ、細い裂け目から白い蒸気が立った。
焦げた匂いが立ち上がり、胸の奥を焼く。
右隣の候補がレンチを落とした。
甲高い音が白い部屋に弾けて、全員の呼吸が一瞬止まる。
手を止めた者も、顔を上げた者もいない。
音が消えた後、沈黙だけが均等に広がった。
俺の呼吸が、唯一のノイズだった。
微かに震える工具の柄を握り直す。
金属が、まるで生きているみたいに、脈を打っている。
“冷却”と呼ぶには無理のある機構だ。
熱は逃げきれず、鉄板の下で反響している。
その不規則な熱のうねりを指先で読み取る。
壊れる前に逃がす。生きる前に動かす。
──それが整備士の“勘”だった。
左隣の台から、焦げた臭気。
誰かが冷却を逆接続した。青い火花が弾け、視界をかすめた。
試験官が動いた。だが、すぐに戻る。
まるで“見てはいけない”何かを確認するような、遅い動きだった。
その瞬間、耳鳴りが走った。
金属音でも、送風でもない。
かすかに、人の声のようなものが混じった。
けれど、誰も気づかない。
まるで“この部屋の音じゃない”みたいに、空気の奥に吸い込まれていった。
ノイズが一瞬、脳の奥を擦った気がした。
──今の、何だ?
息が詰まる。だが、目は逸らさない。
俺の耳が壊れたのかと思った。
誰も反応しない。まるで最初から、それが“聞こえない”前提で試験が進んでいるみたいだった。
喉が乾く。舌に鉄の味が残る。
だが、指先は止まらない。
掌の中の熱が、徐々に脈を取り戻していく。
機械が息を吹き返す音。
それが俺には、“鼓動”のように聞こえた。
規格が合わないなら、通電を“通す”。
冷却ユニットを壊して、逆流させて負荷を逃がす。
正解じゃない。
でも、“動かすための処置”としては最適だった。
二つ目のランプが点いたとき、
試験官の表情が変わった。
他の台に置かれた機材は、どれも新しい規格だった。
俺の前の一基だけ、ねじ穴の位置が古く、端子のピンも一本わずかに短い。塗装の下から、剥がし切れていない旧ロゴがのぞく。
塗装の下に、半分削れた円弧と三つの点。
一瞬だけ、胸の奥がざらりとした。その違和感が、記憶の底をかすめた。
──指は止めない。
配線を締め込んだ瞬間、部屋の“鳴り”が変わった。
送風の低い唸りが、一拍だけ薄くなる。金属の振動だけが、白い壁に吸われず残った。
黒いガラスの向こうに影がある。試験官席の後列、誰かがこちらを見ている。光は反射して目は見えない。ただ、視線の角度だけが真っ直ぐだった。
端末の隅に、知らない表示が一瞬だけ浮く。
──適応値:再計測/コードS-0
文字はすぐに消えた。誰も何も言わない。最初から“見なかったことにする”手順があるみたいに。
俺は冷却ラインを逆へ落とし、余剰を逃がす。正解ではない。だが、今は“生かす”が先だ。
レンチの柄でパネルの縁を軽く叩く。乾いた音が白い空気を汚す。ガラスの向こうの影が、わずかに姿勢を変えた。
音が戻る。
指先が震えた。
恐怖ではない。
忘れていた“鼓動”が、指先の奥で鳴った気がした。その音に、送風の拍が重なっていく──
誰かが作った静けさは、壊せる。
俺は、工具を置く角度でそれだけを伝えた。
「……なるほど」
短い声が落ちた。
「……この構成、現場判断か?」
「はい。“生き延びる”なら、これが最低限です」
「……なるほど」
それだけ。
だが、その一言に、すべてがあった。
夜。
誰もいない工房に戻り、俺は機械の隙間に腰を下ろした。
いつもと変わらないはずの空間。
でも、何かが違っていた。
古い送風機の振動だけが、まだ微かに鳴っていた。
まだ、止まっていない。
スマートフォンが震える。
画面が、無機質な文字を映し出す。
《選抜合格者:1名》
その下に、ひとつだけ名前があった。
《藤崎 優司》
……それが、俺だった。
たった一滴の異物が、波紋を広げる始まりつつあった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.001】
進行確認済。次項目に進む予定。
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