第16話 沈魂に、灯を
沈黙の中に、一つの選択があった。
風が止んでいた。
乾いた砂が、足元でわずかに滑る。空気は焦げていた──木や草が燃えた匂いとは違う。もっと硬く、混ざりものの多い、人工物の焼けた気配。鼻の奥を鈍く刺すような後味が、ヘルメット越しにさえ残る。
レオは足を止め、右手を上げた。指先で静かに制止の合図を送る。
背後で、カリームの足音が一瞬だけ止まり、そのまま警戒の間合いに切り替わる気配が伝わってきた。
地形は、緩やかな下り坂に変わっていた。
その先、視界の低い位置に──黒い影が見える。
焼け焦げた構造物。壁のように見えるそれは、角が残っている。自然に崩れた石ではなく、何かを囲っていた人工物の断片だ。積み上げられたものが、火に呑まれ、崩れ、黒く溶けている。
「……建物、だな」
レオが低く呟く。口に出せば、その存在の痕跡が現実味を増す気がした。
カリームは無言で周囲に視線を巡らせた後、背中の酸素計を一つ叩く。数秒後、レオの端末にも警告が浮かんだ。微弱な放射性粒子反応。揮発性成分の残留。風の痕跡はなく──つまり、これは“つい最近、燃えた”場所だということだ。
マリアがしゃがみ込む。
崩れた石の隙間から、炭化した土を指先で掬い上げる。手袋越しに温度を測っているのか、それとも質感か。言葉はない。ただ、静かに目を伏せ、焼けた土の匂いを短く嗅ぐ。そして、小さく首を振った。
自然火災ではない。何かが、誰かが、ここを焼いた。
それは、言葉にされなくても伝わった。
「……誰かがいたんだな、ここ」
カリームの声が、押し殺されたように響いた。
レオは頷かなかった。ただ、視線を前に送った。
焦げた屋根の残骸。その向こうに──焼け土の中で、影が一つ、身を縮めているのが見えた。
崩れた屋根の陰に、それはいた。
最初は瓦礫の影だと思った。けれど、レオの目は、そこに“揺れ”を捉えていた。
黒く煤けた何かが、かすかに動いている。肩だ。細い、子供の肩が、わずかに震えていた。
「……子供だ」
息を詰めるように、レオがつぶやいた。
その声に反応したのか、小さな影がぴくりと動いた。
ゆっくりと地面に手をつき、立ち上がる。
足元は焼けた土と炭化した木片に埋もれ、よろめきそうになりながら、それでも姿勢を保つ。
少女だった。
髪は短く煤にまみれ、服は裂け、泥と血に汚れている。顔の輪郭もはっきりしない。
だが──その瞳だけは、こちらを捉えて離さなかった。正確に、鋭く。
「生きてる……」
確かめるように、レオがもう一度呟いた。
少女は何も言わなかった。
だがその眼差しが、明確に訴えていた。──「来るな」。
カリームが無言で一歩踏み出した、その瞬間だった。
少女は一歩下がった。そして、もう一歩。
背後に崩れた柱の残骸がある。少女はその陰に身を寄せると、横たわった“何か”の前に立ちはだかるように動いた。
黒く崩れた人影が、そこにあった。
誰かの遺体──それ以上は、もう何もわからなかった。
布も覆いもなかった。焼け落ちた屋根の一部が、風に吹かれて壁に引っかかっている。それが、かろうじて“そこに何かがある”と示しているだけだった。
だが、そのすぐ隣の地面には、しゃがみ込んだ小さな跡が残っていた。両膝と足の先が、灰混じりの土を静かに押し沈めている。重さの浅さから見て、子どものものだとわかる。
周囲には、焼けた石壁と、炭のように変わり果てた柱の残骸。かつては家だったであろうその場所は、間取りを想像させる焦げ跡だけが、記憶のように床に残っていた。
台所と思しき一角には、焼け落ちた鍋が伏せられている。取っ手の片方は消え失せていたが、鍋の縁にだけ、奇妙なほど煤がついていなかった。まるで、誰かが手で覆い、最後の最後まで火から守ろうとしたかのように。
そのすぐ近く、倒れた椅子がひとつ。片脚が折れ、背もたれには何かの布が絡みついている。刺繍の縁がうっすらと残っており、かつては子ども服だったとわかる。甘い色合いの、柔らかな布地。
そして、その中央に、焼けた石と灰が人型に沈んだ空間があった。そこだけ、風が吹いても形が崩れない。誰かが、そこに伏していた。
焦げた梁木の表面に、手のひらの跡がある。小さな掌が、何かを動かそうとした痕。
──少女は、ここで、ずっと傍にいたのだ。
覆うものもなく、救う術もなく。ただ、目の前の死を、そのまま受け入れて、そこにいた。
動かず、離れず、ただ黙っていた。
それが、彼女にできるすべてだった。
──目の前の光景が、レオを足止めしていた。
焼け焦げた空間。石壁の名残が囲うその中に、ただひとり、少女がいた。
しゃがみ込んだその背は、あまりに小さく、風の流れすら気づかぬように動かない。
顔は見えない。髪は煤にまみれ、肩から背にかけて黒ずんでいる。
だが、その手だけが、しがみつくように何かを握っていた。焼けた柱の残骸。その根元、炭のように変色した木片の表面には、小さな手形が残っていた。
「……ずっと、ここにいたのかよ……」
「……っくそ」
思わず、口の中で吐き捨てる。
こんな場所に、子どもがひとり。
それだけでも、どうしようもなく胸が痛む。
──でも、本当に痛むのは、そこじゃない。
だが──それでもレオの胸の奥が、ひどく軋んだ。
焦げ跡の残る石壁に背を預け、彼はゆっくりと腰を落とす。マスク越しに吸った空気は、遠い記憶の底を攫うような匂いがした。乾いた土の下に、まだ熱の残る灰が眠っている。
子どもの足跡、小さな手の跡、煤けた鍋、倒れた椅子──
誰かがここに「いた」という痕跡は、どれもあまりに無防備だった。守られず、名もなく、ただ静かに焼かれていた。
レオは拳を握った。
爪が掌に食い込む感覚すら、どこか遠くの出来事のようだった。
──間に合わなかった。
そう思うには、遅すぎた。
けれど、思わずにはいられなかった。
「……俺たちが、落ちなきゃ」
低く、誰にも聞こえない声がこぼれる。
あの墜落の閃光を、誰かが地上から見ていたとしたら。
この村の誰かが、空を見上げていたとしたら。
恐怖も、混乱も、間に合わなかった叫びも──全部、自分たちの“落下”が引き金だったのだとしたら。
「こんな……ちがうよな……違うって、言ってくれよ」
額を膝に預け、マスクの内側で吐息が熱を持つ。
酸素の供給音が、耳の奥で不気味に規則正しく鳴っていた。呼吸はできるのに、胸が苦しい。
「……助けていいのか、わかんねぇよ……」
ここに来る途中、かすかに人影を見た気がした。焼け跡に、膝を抱えていた子ども。
──生き残りだ。
だが、だからこそ、踏み出せなかった。
もしも、その少女が、あの炎で母親を失ったのだとしたら?
その炎が、自分たちの機体の破片や熱で引火したものだとしたら?
それを確かめる術はない。だが──自分が原因でないと言い切ることも、できなかった。
「助けたいなんて……ただの自己満じゃねえかよ……」
誰の許しも得ていないのに。
何が正しいかも、まだわかっていないのに。
立ち上がろうとして、腰が上がらなかった。
指先が、焼けた地面の縁を掴む。感触は軽く、けれど沈まない。
呟きは、風にすら聞えなかった。
ただ、自分自身の中に落ちていった。沈んで、重く、心臓の奥に爪痕を残した。
助けたい。けど、それが自分の責任から生まれた罪滅ぼしだとしたら?
そんな資格、あるのか?
言葉が、喉の奥でざらついた。
息が浅い。酸素の薄さではない。
少女が動かなかったその時間の重みが、空気を引き裂いて胸に沈む。
ここにいた。
燃え尽きた家の中で、焼けた死体の傍で、身じろぎもせず──
助けを呼ばなかった。泣き声もあげなかった。
いや、それどころか、気配すら殺していた。
あの夜。火の手が村を呑んだとき、どれほどの恐怖があったのか。
誰かが叫び、誰かが逃げ、誰かが倒れるなか──この子はただ、ここに“いた”。
それだけだ。それだけなのに、何も言えなかった。
──助けるべきか?
脳裏に、その問いが浮かんだ瞬間、自分に苛立ちを覚えた。
そんなこと、迷うまでもない。答えは、わかっている。わかってる……はずだった。
だが、思考の奥に、冷たい声があった。
本当に、助けられるのか?
彼女が何者かもわからない。
言葉を話せるのか、生きる気力があるのか、感染や後遺症の可能性だってある。
そして、連れて帰ったところで──
酸素は?水は?食料は?
たった一人増えるだけで、残された日数が何日分削れる?
わかってる。合理的に考えれば、“助けない方が正しい”のかもしれない。
だが──それを口にした瞬間、自分が壊れそうになる。
レオは、そっと視線を落とした。
少女はまだ、顔を上げない。
ただ、焼け跡のそばに、凍りついたように縮こまっていた。
その背に、母親と思しき遺体があった。
崩れた瓦礫の中、焼けた骨と肉が交じり合ったその影に、少女は何かをかけていた。
布だった。焦げかけてはいるが、繊維のほつれに、子供服の刺繍の名残が見える。
きっと、遺体にかけていたものを、また拾い上げて、何度も覆ったのだろう。小さな手で。
──言葉じゃない。
この子は、助けを求めたんじゃない。
守ろうとしていたんだ。
自分の手で、何もできなくとも、それでも何かを、たったひとつでも覆おうとした。
その姿が、過去の誰かと重なった。
昔、どこかで──
自分も、そんなふうに立ち尽くしていた気がする。
何もできないまま、ただ、そばにいるしかなかったあのとき。
「……くそ……」
額に触れた指先が、震えていた。
マスクの内側で、息が詰まる。
目の前の子どもを助けたところで、何が変わる?
仲間の誰かを危険に晒すことになるかもしれない。
あるいは、少女が正体不明の存在だったら──
それでも。
それでも──
言葉にならない何かが、喉の奥から突き上げてくる。
理屈では抑えきれない“選択の重み”が、胸を圧していた。
背中に流れる汗が冷たい。
それでも、目は少女から逸らせなかった。
彼女が、いま振り返って、
もし、ただ一度だけ、助けを求める目を向けてきたら──
そのとき自分は、何を言うのだろう。
何を──選べるのか。
レオの手はまだ動かないままだった。
風も音も、すべてが止まっていた。誰も、何も決められずにいる。
焦土の真ん中で、小さな影が一人、丸まっている。
その肩は、震えてなどいなかった。すでに泣くということすら終わっているような、無音の静けさだけがそこにあった。
──そのとき、誰かの影が、風のように現れた。
言葉も足音もなかった。気づけばそこに、藤崎優司が立っていた。
彼は少女の横を通り過ぎ、地面に落ちていた毛布の端を拾い上げる。
火の粉が少し舞った。誰かが置いたままにしたそれは、まだ温もりを残していた。
そして、迷いなく動いた。
優司は、その毛布を──少女ではなく、すぐそばで崩れるように横たわっていた女性の亡骸にかけた。
焼け焦げた布地に、静かに、そっと。まるで、そこに“誰かの眠り”を整えるかのように。
それは言葉にならない祈りだった。
誰のものでもなく、誰に求められたでもなく、それでも確かに“すべきこと”として、彼の中にあった行為。
レオは、動けなかった。
ただそれを見ていた。優司の背中が、余計なものを一つも纏わず、ただ筋の通った行動だけでその場を支配していた。
──そうだ。
この男は、こうして“選ぶ”のだ。
迷いがないのではない。迷ったうえで、沈黙のままに通す。
レオの胸の奥で、何かが静かに収縮した。
少女は、微かに動いた。
優司がしゃがみ込み、何も言わず、残された毛布の一部を──今度は彼女の肩にかけた。
ぎゅっとではない。ただ、風から守るように。
少女は、まだ震えていた。
背を丸めて座り込んだまま、焼け焦げた衣服の肩口に、すすが黒く染みていた。
風が吹いた。焦げ跡のあいだから、煤と灰がさらさらと流れていく。
レオが迷ったその刹那。
──音もなく、優司が膝を折った。
焼けた地面に直接座ることも厭わず、優司は少女のそばに身を落とす。
手にしていたのは、残された最後の毛布だった。
躊躇いはない。ただ、動きは遅い。慎重に、まるで繊維の一枚ごとに意味を込めるように。
優司は、そっとそれを少女の背にまわし、静かに抱きしめた。
ぎゅっとではない。優しさでも、慰めでもなく、“肯定”だけを伝えるように──空を失った子どもに、せめて地面の温もりを。
少女の身体が、わずかに揺れた。
振り向いたその小さな顔に、涙はない。だが、瞳が濡れていた。
優司は、それでも目を合わせなかった。
顔を上げることも、言葉を掛けることもせず、
ただ一度だけ、
顔を上げた少女の視線が、彼に触れた。
でも、優司は目を合わせなかった。
ただ一度だけ、少女の肩に手を添える。
そして、ためらいなく──その身体を、軽々と抱き上げた。
毛布の布端がゆるく揺れ、彼の腕のなかに収まった少女の身体は、想像よりもずっと軽かった。
呼吸は浅く、冷えた指先が彼の胸元に触れていた。
彼女の手が、そっと毛布を握る。何かを掴むように。
その仕草だけが、彼女の意思を語っていた。
──変わらないものなど、どこにもなかった。
けれど、変えようとする誰かが、今ここにいた。
焼け跡の村をあとにし、男は無言のまま歩き出す。
胸に、小さな命を抱いたまま。
命じることも、説明することもなく。
ただ、「やるべきことをやった」人間の歩き方だった。
レオは──ようやく、動き出せた。
それでも、誰かが動かなければ、何も始まらない。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.016】
鎮静領域に微光反応。外因性ではなく、内部選択による発火と判定。
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