第13話 沈黙の先にある燃えるべき命
沈黙は、時に叫びよりも遠く届く。
目が覚めたのは、誰かの声ではなかった。
──では、何が引き戻したのか。
レオには、それがわからなかった。
ただ、肺が膨らまない。心臓が遠い。身体が沈んでいく。そんな夢の底から、彼は這い上がった。
薄暗い天井。割れたフレーム。焼けた匂い。
ひどく静かだった。音はするのに、すべてが遠い。
「……っぐ……」
喉が反射的に音を漏らした。
身体を動かすには、何かを“破らなければならない”気がした。
ただ立ち上がる──それすら、異常な困難だった。
肺に詰まるような空気。骨が内側から軋む感覚。
腕を持ち上げようとした。だが、関節が拒んだ。筋が裂けるように痛んだ。
(なにこれ……地球と……違う……)
傍らで、誰かが吐息を漏らす音がした。
見ようとして、首が回らない。視界の端に、ゆっくりと誰かが歩いていた。
優司だった。作業着の袖は破れ、肩がうっすらと赤黒く染まっていた。
だが彼は、何も言わずに歩き続けていた。
その背中だけが、静かに場を満たしていた。
その数時間後。
ようやく、船内に“言葉”が戻ってきたのは、クレールが意識を取り戻してからだった。
彼女は、痛みを押してロケットの端末前に座り込んでいた。
固定した右脚を庇うように体を傾けながら、画面に指を這わせていく。
表示される数値が、視界に流れ込む。体温、気圧、酸素濃度──そして。
「……やっぱり」
息を吐くように言ったその声に、レオが反応した。
壁にもたれかかったまま、彼は顔を上げる。
「……なにが“やっぱり”なんだよ」
クレールは振り向かない。画面を指さすだけだった。
その指先の先に、表示された数値があった。
【重力加速度:2.13G】
【標準身体負荷率(成人・地球準拠):213%】
【筋繊維崩壊リスク:高】
【内臓下垂・圧迫リスク:極高】
レオは言葉を失った。冗談を言おうとして、肺が動かなかった。
「……うそだろ。そんなの、冗談……」
それ以上は出てこなかった。肺がつぶれていたのか、心のどこかが沈黙したのか、わからない。
クレールは静かに続けた。
「このままなら、一ヶ月で誰かが死ぬわ」
「この環境下で、動き続ければ──三ヶ月、持てば奇跡。動き続ける限り、筋肉と内臓は削られていく」
レオは目を伏せた。
その隣で、誰かが無言で工具を握っていた。優司だった。
何も言わない。だが、その背中だけは動いていた。
「それでも……お前は、動いてんだな」
レオの声は、ほとんど呟きだった。誰かに向けたものでも、自分自身への問いでもない。ただ、呼吸の代わりに吐き出された熱のようなものだった。
優司は答えない。視線すら寄越さないまま、焼けたフレームの隙間からまだ使える部材を拾い集めている。
足元の金属片を踏みしめるたびに、軋んだ音が鈍く響いた。
「なあ、クレール。俺たちって、ほんとに……死ぬのか?」
壁にもたれたままの姿勢で、レオはもう一度問いかけた。今度は、わずかに声音が強かった。
クレールは目を閉じて、短く呼吸した。息が引っかかる。少しの間、声が出なかった。
「……死ぬ可能性は、ある。いいえ──“このままでは”確実に死ぬ」
レオはそれを聞いて、小さく笑った。皮肉でも、強がりでもなかった。ただ、笑うしかないという表情だった。
「まいったな。死ぬってよ、俺たち」
その言葉に、誰も反応しない。けれど、レオはそれでいいと思った。
「冗談も出ねぇな、こういうときって」
誰よりもよく喋ってきた男が、喋れない。
空気が肺に入らない。舌が重い。喉が乾いて、思考が渇いていく。
それでも、口を開く。
「それでもさ……なんか、やらなきゃいけない気がするんだよな。ここで黙ってたら、もう全部終わる気がして」
視界の端で、優司が手を止めた。わずかに首が傾く。
だが、それだけだった。返事はない。
そのとき、船内の隅から静かな声が落ちた。
「……ロケットの積載リストに、記録のない装置が一つある」
マリアだった。
背もたれに寄りかかるようにして、壁際の端末を操作していた。細い指が迷いなくコードを入力していく。肩の怪我はまだ癒えていないはずだ。それでも、静かに、正確に動いていた。
「型式不明の重力制御ユニット。カプセル状で、耐熱素材の保護層つき。データにはアクセス制限があるけれど──表示された技術に、見覚えがある」
クレールが眉を寄せた。
「……それ、セリュリエ社の試作ユニット。まだ実地試験前のはずよ」
マリアは頷かず、目だけを動かしてレオを見た。
「あなたたちが知らなくても、積まれていた。私は知っていたの。……記憶してたわ」
その言葉のあと、ふっと口元を緩めた。
乾いた空気の中で、その笑みはどこか熱を帯びていた。
問いを向ければ何かがほどけそうな気配だけを残して──だが、何も語らなかった。
誰もすぐに反応できなかった。
「でも、それが動くなら、俺たち……」
「動かない」
マリアが言い切った。
「エネルギー源がない。あれを稼働させるには、少なくとも中規模の反応炉と、安定した電磁シールドが必要。……今の状況では、無理よ」
言葉が、また空気に沈んだ。
けれど、そのときだった。
優司が、ゆっくりと立ち上がった。
工具を置き、焼けた床を歩いてマリアの隣に立つ。
マリアは視線を上げなかった。ただ、画面に情報を映し続けた。
「無理じゃない」
その声は低かった。乾いた、感情のない声。けれど、確かにそこに“意志”があった。
「資材さえあれば、回路は再構築できる。疑似的なプラズマ制御と、放熱構造……」
言いかけて、彼は一度目を閉じた。
「可能性はある」
その一言が、重力よりも重く船内に響いた。
レオが、かすかに息を飲んだ。
その一言は、どんな慰めよりも、どんな冗談よりも──希望に近かった。
「……マジかよ。整備屋がそう言うなら、もう信じるしかねえじゃん」
皮膚の下で、血が一度だけ温かく流れた気がした。身体はまだ重い。痛みも、焼けつく空気も変わらない。けれど、心のどこかが確かに前を向いた。
クレールが、ゆっくりとモニタを切り替える。
通信系統、酸素ライン、船体電源の網図が青白く浮かび上がった。
「これを動かすには、既存のエネルギーラインを組み替えるしかないわ。循環系と医療ユニットは最低限維持。その上で……」
彼女の声は途切れた。
画面の一角に、すでに作業用ルートの設計が描き込まれていたからだった。
「……もう、やってるのね」
クレールは小さく笑った。驚きも呆れも、皮肉も混ざらない。
ただ、それは「この人なら当然だ」という目の色だった。
マリアはその設計を見て、一瞬だけ目を細めた。
「……ほんと、何者なのよ。あなたって人は」
優司は何も返さず、次の工具を手に取った。
冷たい金属の質感が、彼の掌で音もなく馴染んでいく。
「無駄な動きがない……」
レオがぽつりと呟いた。
「誰に頼まれたわけでもないのに、いつの間にか全部やってる。黙って。淡々と」
「まるで……自分のことなんかどうでもいいみたいに」
その言葉に、優司の手がわずかに止まった。
だが、すぐにまた動き出す。何も言わない。何も否定しない。
レオは、その背中をしばらく見つめていた。
それから、ふいに視線を落とす。
自分の掌を見た。震えていた。だが、握れた。
足元を踏みしめる。ひとつ、音が鳴った。
「……言わなきゃ、伝わらねえんだよ」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
けれど船内にいた全員が、思わずその言葉に耳を向けていた。
「やってるの、見てりゃわかる。でも、誰かが言葉にしなきゃ、他の誰かは気づけないままなんだ」
一拍の沈黙。
「……もう、そういうの、やってる場合じゃねぇんだよ」
拳を握る音がした。
それから、喉の奥で何かが燃えたように言葉がほとばしんだ。
「俺も──命、燃やすんだよ!」
レオはひとつ息を吐いた。
そのまま、腰を落とし、工具箱の蓋を開けた。
昔から、どこかでブレーキをかけていた。
本気でやればできてしまう。けれど、それをやると、場が白けることを知っていた。
誰かが引く。誰かが困る。そういうのを、もう何度も経験していた。
だから、適当に笑って、軽口叩いて、場を回して。
“俺はそんなキャラだから”って、思わせるようにしてきた。
──だけど。
この男は違った。
誰も見ていない場所で、黙って、すでに先に立っていた。
命を削るようにして。それが当然だと言わんばかりに。
レオは思った。
(こいつを前にして、俺がまだ隠してたら──それこそ、笑えねぇ)
あの背中を見た瞬間、そういう自分が、急にちっぽけに思えた。
誰に見られてなくても、あいつは、命削って動いてた。
(……もう、隠してる場合じゃねえな)
「……制御できてねぇけど」
「それでも、やる。やりたいと思った。だから、立つ」
その声に熱はあった。だが叫びではなかった。
ただの“宣言”だった。今の自分にできることを、最も素直に差し出すような声だった。
誰も茶化さなかった。誰も目を逸らさなかった。
その空気を、優司も感じていたはずだった。
けれど彼は何も言わず、ただ一度だけ、静かにレオの方を見た。
視線が交わった。
短く、深く。
言葉はなくとも、それは確かな“通過”だった。
そして、作業は続いた。
誰も言わないまま、黙って体を動かし続ける。
夕暮れの色が、壊れた船の隙間から差し込んできた。
その光の中で、優司がただ一歩だけ、前へ進んだ。
その光は弱かったが、確かにあった。
誰かの言葉が、誰かの背中を押して、世界がほんの少しだけ前へ進んだ。
火は灯った。けれど、それを燃やしきれる者は──誰だ。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.013】
熱源反応を検知。極小だが継続性あり。
燃焼許可プロトコルは未取得。点火者の意志が必要。
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