第12話 構造さえ、保たれていれば
声なき惑星で、ひとつの意志がただ立ち上がる
船体の骨組みが、息をしていた。
金属のきしみ。冷却液の滴り。割れたフレームに、砂のような土壌がわずかずつ入り込む。誰も言葉を発さないまま、時間だけが砂のように落ちていった。
優司は、先に起きていた。
誰かに呼ばれたわけではない。気配もなかった。
ただ、胸の奥で“空気の密度”が変わった気がして、目を開けた。
視界に映るのは、わずかにねじれた天井パネル。
左腕が痺れている。出血は──ある。骨ではない。問題ない。
痛みには、反応しなかった。
必要なのは、行動。順序。優先順位。
まず、動作確認。
手。指。足。意識が引き戻されるたび、筋肉が答える。
一度だけ、奥歯を食いしばる音が鳴った。
それでも、立ち上がる。
最初に確認したのは、自分の怪我ではなかった。
傾いた空間に目を這わせる。破損した配線。散った工具。横たわる人影。
「……っ」
小さく息を呑んだのは、レオかもしれない。まだ気配だけ。動けていない。
優司は近づくことを選ばなかった。今はそれより――
酸素循環、作動ランプ。問題なし。
非常電源、生きている。船体の半分は、まだ“使える”。
優司は、わずかに頷いた。
痛みはまだある。だがそれは、判断には不要の情報だった。
“自分が何をすべきか”、それだけが行動を形づくっていた。
船内には、焦げたような匂いが漂っていた。
高熱によるものか、焼けた配線の被膜か。酸素濃度は平常値だが、肺の奥がざらつく。
優司は床に手をついた。まだわずかに揺れている。船体の奥、どこかで熱交換機が停止しかけている感触がある。
あとでいい。
身体を起こし、崩れた隔壁の隙間をすり抜ける。
破断したフレームが、彼のジャケットの袖を裂いたが、止まらなかった。
最初に辿り着いたのは、エルナだった。
仰向けのまま、まぶたを閉じていた。だが、目の奥でわずかに瞳が揺れている。
優司はしゃがみこみ、耳元に手をかざす。
鼓動。微かだが、生きている。瞳孔反応、問題なし。呼吸浅い。
手近の装置から医療パッチを一枚、破って貼る。
彼女は目を開けない。けれど、彼の手が離れたとき、まつ毛が一度だけ震えた。
次にクレール。
彼女は操縦席で横倒しになっていた。
顔を伏せたまま、動かない。だが、彼女は生きていると直感できた。
優司は脇腹の出血を視認した。転倒時の衝撃か、肋骨か。だが骨盤の角度、足の位置──右脚は動かせない。無言で腰の工具ポーチを外し、破れかけたスリングを解いた。クレールの足に当て、即席の固定具を組み上げる。
まだ意識は戻らない。だが、手当は“今”でなければ意味がない。
その最中、一度だけクレールの指が優司の腕をかすかに掴んだ。
言葉はなかったが、拒むでも、頼るでもなく。
“委ねた”のだと、彼は理解した。
レオは、背中を壁に預けて座り込んでいた。
目を開けているが、焦点が合っていない。
外傷は軽い。だが、内臓に衝撃が走ったときの症状。今は動かさない。
「……優司?」
掠れた声。
優司は答えなかった。ただ、レオの肩を軽く叩いて、それだけで済ませた。
次に──マリア。
彼女は唯一、意識を保っていた。
だが、動こうとはしていなかった。
目を細め、天井の亀裂をじっと見つめている。呼吸は浅く、動作に焦りはない。
重力に逆らって姿勢を保つためか、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「……動かない方が得策だと判断したのか?」
優司は一瞥し、言葉ではなく行動で確認する。
マリアは左腕をかばっていた。肩口の服が裂け、内部には薄く腫れが見える。
骨折ではない。だが無理をすれば、戦力として再起不能になりうる。
それでも彼女の目は、周囲の状況を“見ていた”。
意識ははっきりしている。判断力もある。
ならば、今は何も言う必要はない。
カリームは、最も遠くにいた。
倒れた資材の山を片腕で押し返しながら、起き上がろうとしていた。
「……生きてたか、整備屋」
それが、最初の言葉。
優司は頷いた。カリームの方も、目を細めたまま、黙って拳を一度だけ掲げる。
それだけの会話で、十分だった。
全員、生きている。
半壊したこの船と同じように、歪んで、傷だらけだが、まだ“使える”。
だがそれを支える者は、ただ一人しかいなかった。
藤崎優司。
彼は立ち上がり、沈黙の中で歩き出す。
応急措置は終わった。次は、電源系統の確認、外部環境の把握、そして生存継続手段の構築。
それは彼にとって、“誰かを助けるため”の行動ではなかった。
「こうすべき」と思ったから動く。それだけだ。
けれど、その行動は、確かに誰かを救っていた。
船体の骨組みが、再び軋む。
それでも優司は振り返らない。
今すべき事。
その意志だけが、彼の足を前に運んでいた。
隔壁のロックが、鈍く唸った。
船体の一角、まだ電力が通っていたハッチが、わずかに揺れる。
優司は慎重にパネルを確認する。気圧差なし。だが、外気の組成は不安定。温度も未計測。
この一歩が、初めて“人の足”で踏みしめる地になる。
船内に残る者たちは、まだ意識が朦朧としていた。
酸素濃度の低下、重力による内臓圧迫、打撲によるショック──回復には時間がいる。
だからこそ、自分が行く。
装備は最低限。センサー、携帯工具、温度計、そして酸素の予備。
荷は軽い。だが、足取りは異様なほど重い。
〈重力〉が違う。
船内でも感じていたが、こうして動こうとすると、全身の関節が“地に縫い付けられている”ような感覚に変わる。
筋肉は正常に反応している。しかし、動きは鈍い。酸素が足りない。
それでも、進む。
手袋越しにハンドルを回す。
密閉音が途切れ、外の空気が、音もなく船内に滑り込む。
違和感は、すぐに皮膚が捉えた。
──無臭。無音。風もない。
にもかかわらず、肌の内側で何かがざわつく。まるで、空気そのものが生き物のようだった。
重力は、確かにある。
むしろ、ありすぎる。
足元が、引力ではなく“掴まれている”感覚に変わっていく。体内の器官が、すべて下へ引っ張られる。
そこは“地球に似た”惑星ではなかった。
惑星というより、何か巨大な“沈黙した意思”の上に立っている錯覚。
地表は、灰のような色をしていた。
岩でも砂でもない。微細な粒子が、焼け焦げた記憶のように、大地を薄く覆っている。
空は──なかった。
雲でも、青でも、宇宙でもない。ただ“何もない”空虚。
それでも、太陽に似た光は差していた。方向はある。だが、光源は見えない。
優司は、息を吸う。
フィルター越しの空気は、金属の味がした。
酸素は──ある。だが、濃度は標準値の三割以下。
そのままでは、生きられない。
「……圧縮が必要だな」
誰にも聞かせるつもりのない独り言。
だが、それが“現実と向き合う”最初の言葉だった。
外壁の破損。通信装置の死。冷却系統の限界。酸素循環の再設計。
水資源の可能性。そして、この惑星に“夜”が存在するかどうか。
すべてが未確定。すべてが危機。
だが、条件さえ整えば、生存は可能だ。方法は、ある。
優司は、足元の灰にしゃがみ込んだ。
手袋を外す。
素手で、そっと灰をすくい、粒子の構成を指先で確かめる。
熱伝導。湿度。崩れ方。異物の混入率。
一見無意味なその行為に、彼だけが“意味”を見出せる。
重力に抗いながら、彼はひと呼吸ついた。
苦しい。だが、生きている。思考はできる。なら、戦える。
――ここで、生きていく。
誰の命令でもない。誰かのためでもない。
“そうすべきだ”と、自分が思ったから。
その一点において、藤崎優司の意思は、何よりも重く、強い。
船体の内側へ戻ると、空気が重くなった気がした。
酸素は循環している。だが、気圧と酸素濃度のズレが、意識の端を微かに削っていく。
生理的な焦燥ではない。“数値的に問題はない”──だが、人間の体は、数字だけでは納得しない。
優司は酸素センサーを外し、目視で仲間たちを確認した。
最も深く沈んでいたのは、エルナだった。
完全に意識を落としている。呼吸はあるが浅い。瞳の動きも見られない。
負傷よりも、おそらく低酸素と重力負荷のショックだ。
次いでクレール。
かすかに眉間を寄せ、吐息にノイズが混じっている。肺に問題があるか。
優司の視線が、彼女の脚へと移った。
右足のブーツは、即席の固定具に締められていた。
布とスリングを巻き合わせた補強材は、衝撃を受けた箇所を的確に支えている。
だが、時間が経つほどに腫れが広がり、固定の隙間から滲む内出血が、深刻さを物語っていた。
角度。腫脹の進行。皮膚の緊張──
改めて観察する。最初の判断に狂いはない。
骨、あるいは靭帯。自力での歩行は困難、否、ほぼ不可能。
“戦えない”という現実が、はっきりと刻まれていた。
それでも、彼女の手はベルトポーチを握っていた。
薬剤、応急処置キット、自己注射器。
指先がわずかに震えている。痛みか、悔しさか、それとも──焦燥。
この惑星の重力は、地球のそれを遥かに上回る。
ただでさえ身を起こすだけで負荷がかかる環境で、彼女の身体は沈むように横たわったままだ。
優司は、その姿を見下ろすことなく静かに捉えた。
右脚の損傷は深刻だが、命に別状はない。
意識はなくとも、呼吸は安定している。
手の震えも止まり、血流も落ち着いていた。
──問題はない。
少なくとも、今すぐ手を貸すべき段階ではない。
声もかけず、見下ろしもしない。
損傷はあるが、構造は保たれている。
ならば、無理に干渉する必要はない。
──あの脚が再び動くとき、彼女は戦える。
そう“見積もっている”以上、それ以上の処置は不要だった。
最後に、レオ。
うっすらと目を開いていた。だが焦点は合っていない。
呼びかけても無駄だろう。彼はまだ、“目を開けただけの体”だった。
優司は一つ、深く息を吐いた。
今は、全員を救う段階ではない。
まず“環境”を作らなければ、彼らの命は数時間のうちに砂のように失われる。
彼は船体の前方に向かった。
火災の痕が残る通路を、慎重に踏み越える。重力が、体力の十倍を奪っていく。
だが、止まらない。
〈主動力炉〉は死んでいる。だが、非常電源は局所的に生きていた。
その接続ラインを確認し、優司は最小単位の系統を切り離した。
これで、医療ユニットと空気圧縮器だけが使える。
同時に、断熱材と残骸を使い、船体内の一部を簡易隔離区画に変える。
空間を絞り、酸素密度を稼ぐ。
それが生存の第一歩だ。
溶接はできない。だが、封鎖はできる。
彼は工具を取り、ひたすらに無言で、破損箇所を“使える部品”へと変換していく。
誰のためでもない。誰に頼まれたわけでもない。
ただ、“そうすべき”だから。
作業の最中、一度だけ、背後で小さな呻き声がした。
振り向くと、クレールが、うっすらと目を開いていた。
焦点はまだ定まらず、唇が何かを探るように動いている。
声は出ていない。だが、視線が優司を捉えた。
彼は、何も言わなかった。
ただ、作業を止めずに、僅かに首を振った。
──喋るな。呼吸を保て。それでいい。
クレールは、それを理解したのか、ほんのわずかに目を閉じた。
やがて、呼吸が静かに整っていく。
優司は、再び工具に手を伸ばす。
音も言葉もない船内で、ただ微かな作業音だけが、命の気配を刻んでいた。
感情は要らない。構造が保たれていれば、それでいい。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.012】
構造体、最低限の安定状態を維持。
情動応答は検出されず。機能の継続に支障なし。
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