第11話 重力の底
数式では触れられない“気配”という名の重さが、あった。
何かが、狂っていた。
数字には、出ていない。
警報も鳴っていない。
だが、工具の重さが――違う。
藤崎優司は、握っていたパネルリフターを持ち直した。右手の指がわずかに震える。振動ではない。“質量”が変わったような感覚。手首の内側からじわりと締めつけられる。
「……今、ちょっと傾かなかったか?」
誰かが言った。おそらくレオの声だ。だが、優司は答えない。言葉で確認するより、計器を見た方が早い。
表示は正常。内部重力0.93G、船体姿勢安定、換気率異常なし。
だが――表示されている“変化量”が、生体リズムに似ていた。
優司は息を整え、ひとつの仮説を立てる。
重力ベクトルが、ごく緩やかに、だが確実に曲がっている。
「重力圏……外れかけてる?」
その声に、冷静な女の声が重なる。
「違う。“掴まれてる”。この船、今──引き込まれてるのよ」
クレールの声だった。
ふだんは理路整然と話す彼女が、“焦り”を抑えるように言葉を繋いだ。
それだけで、他の全員が一瞬で“まずい”と悟る。
警告音が鳴り始めた。
低く、断続的に。耳の奥を叩くような機械音。
船の内側から聞こえるそれは、あまりに現実的で、あまりに冷たい。
「重力異常反応。姿勢制御不能。推定降下開始まで──一二、秒」
船体が軋む。天井が、水平ではなくなる。
優司は工具を手放した。放そうとしたのではない。手が開いたのだ。
工具は床に落ちず、斜めに滑った。ゆっくりと、ねじれるように。
「これ……地球じゃないな」
誰かが呟いた。
優司は、答えない。答える時間も惜しい。
彼の中にあったのは、ただ一つの感覚。
――“あの訓練時と、同じだ”
宙を掴もうとして、全てが足元から引きはがされるあの感覚。
整備試験中、重力シミュレータで一度だけ味わった、“重力が、牙を剥いた瞬間”。
だが今度は、シミュレーションではない。
本物の重さが、命を刈り取ろうとしている。
クレールの声が怒号に変わる。
「姿勢制御、反応なし! 耐衝撃姿勢に移行、今すぐに!」
優司は端末に走った。指を滑らせ、最短ルートで非常対応コードを入力する。
機械は、まだ動いている。自分の命令を受け入れる限り、まだ、死んでいない。
その時。
船体が、落ちた。
感覚ではない。空間ごと、真下へ沈んだ。
肺が縮まり、骨が軋む。
視界の端が、白く震える。酸素の流れが追いつかない。
「耐衝撃シールド、展開。落下姿勢、固定。」
機械の声だけが、冷たく響いた。
誰も叫ばない。
ただ、重さが語っていた。
これは、落ちる。
筋肉が、骨ごと沈んでいく。
呼吸は薄くなり、胸の奥が静かに締めつけられる。
脳が遅れて“危険”を告げたが、もう言葉は浮かばない。
落ちるのは身体だけじゃない。何か、大事なものが剥がれ落ちていく。
計器の針が、振り切れる寸前で止まった。
船体が、軋む。
床に転がった工具が、まるで命を持ったように、重力の線を描いて滑っていく。
優司は拳を握り、かすかに歯を噛みしめた。
この状況でも、冷静でいる。判断を捨てない。それが自分の“筋”だ。
この重さは、ただの重力じゃない。
生き残る代わりに、何かを棄てる重さだ。
呼吸音と機械音が混じる中、彼はただ一点、船体の骨格を見つめていた。
これが――地獄の入口だと、確かに理解した。
振動が、徐々に変質していく。
最初は軋みだった。だが今は、捻じれだ。
構造材が耐荷重の限界に近づき、船体の“重心”が割れている。
――このままでは、持たない。
優司は即座に判断し、非常端末のコードを呼び出す。
船体設計図がホログラムで浮かび上がる。
主機構のうち、熱制御ブロックと後方推進ユニットを切り離せば、落下質量を約12%削減できる。
「パージをかける。残したら死ぬ」
それだけ言って、クレールを見る。
彼女は一瞬だけ目を見開いたが、うなずいた。
レオとカリームには伝えていない。それでいい。判断に“感情の確認”は要らない。
優司は、“必要な質量だけを残す”。
指が動く。ロックを解除、切り離しシーケンスを入力、再確認なしで実行。
「後部ブロック、パージ開始」
船体が、咆哮した。
金属が裂ける音。制御音ではない、“痛み”のある悲鳴。
船体後方が爆風を起こし、視界が赤に染まる。
衝撃。だが、予定通り。
「衝撃エネルギー、後方に逃げたわ。揚力に変わってる!」
クレールの声が届く。
それは希望じゃない。今が“生き延びられる角度”に入った、というだけの事実だ。
優司は、さらに次の操作に移る。
船体姿勢を“仰角37度”に固定。着地面を広く取るため、クラッシャブル構造部に衝撃を逃がす配置に切り替える。
酸素残量:36%
空気温度:上昇傾向
姿勢安定率:52% → 49% → 47%
落ちている。制御はできているが、止まってはいない。
あとは、“どこで、どう壊れるか”だけの問題だ。
誰も喋らない。
誰も騒がない。
レオは、歯を食いしばって祈るように天井を睨み、カリームは腕を押さえて沈黙している。
クレールが、そっと口を開く。
「着地予測、十五秒後。地形は不明。水域か、岩場か……」
「どこでも同じだ」
優司が答える。
その声は低く、割れも震えもなかった。
彼にとっては、落ちること自体に意味はない。
意味があるのは、“落ちた後に何が残るか”だけだ。
「全員、身構えろ。次の数秒が、生死を決める」
誰も返事はしない。だが、全員が頷いた。
この船の中で、最も冷静で、最も“判断に一貫性のある者”が言うなら、それが正しい。
優司は最後に、端末から手を離した。
今からの時間は、技術ではどうにもならない。
だが、それでも「やるべきことはすべて済ませた」という確信が、胸の奥に静かにある。
「残り、五秒」
クレールが静かに言う。
だがその声には、冷静さの裏で“覚悟の音”が滲んでいた。
優司は、ホログラムに表示されたスラスター制御パネルを睨む。
姿勢制御用サイドスラスターC-2、残燃料2.3%。
推進剤としての利用は不可。
だが、船体下部を押し上げる一瞬の逆ベクトル噴射なら──衝撃を僅かにでも減殺できる。
「……やる」
声に感情はなかった。
クレールが何か言いかけたが、それを遮るように指が動く。
スラスターC-2、緊急トリガー予約:高度推定3.7m地点。
その瞬間、船体が引きちぎられるような音を立てた。
――パラシュートが展開された。
「っ……!?」
誰かが呻く。
だが、悲鳴ではない。ただ、体が前方へ投げ出される寸前で止まった。
船体が震える。
張力。空気との抗争。
落下の勢いが“完全には殺せない”まま、船体が空に逆らって揺れる。
スラスターのカウントが、胸の端に浮かぶ。
──残り、1.2m。
優司は、目を閉じない。
その視線の先には、床でも壁でもない。
主機構下部に走る衝撃吸収材の骨格。
――そこに力が伝われば、死なない。
「噴射、起動」
C-2が吠える。
推進というにはあまりに短く、あまりに弱い火。
だが、その一瞬の“反力”が、船体をわずかに浮かせた。
そして、地面が来た。
レオは目を閉じなかった。
「最後に見るのがこの景色なら、文句ない」
そう思えるほどには、もうこの場所に馴染んでいた。
カリームは片腕で支えながら、歯を食いしばって構えていた。
「止まらねぇなら、受け止めてやる」
その強がりが、たぶん誰かの盾になることを知っていた。
クレールは沈黙の中で計器を見続けていた。
「彼なら、やる」
そう信じて、指を止めた。データではなく、判断に身を預けたのは初めてだった。
そして、エルナは動かなかった。
ただ、座ったまま船内を見ていた。
優司の動き、クレールの判断、カリームの呼吸、レオの視線。
すべてを、まるで“録画するかのように”観察していた。
落下中でさえ、彼女のまなざしには一点の揺らぎもない。
その静けさが、不思議と他の全員に伝わっていた。
「ドン」という音は、なかった。
代わりに、“砕けた”音。
骨組みがひしゃげ、床がたわむ。
視界が白く弾ける。
誰かが前のめりに崩れ、壁に叩きつけられた。
そして──
すべてが、止まった。
静寂が戻った。
重力がある。それは、生きているということだ。
だがその重さは、先ほどまでとは違う。
“この惑星の現実”が、いま彼らを抱えていた。
優司は、崩れたフレームの隙間から、かすかに光が差しているのを見つける。
船は、まだ死んでいない。
自分もまた、“棄てきれなかった”。
それはただの残骸。──けれど、その影には、確かに“形”があった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.011】
重力反応、既存値を超過。感知不能な要因を含む。
物理形状は確認可能だが、“気配”としての質量を伴う異常体あり。
観測継続のため、“ブックマーク”にて記録支援を推奨。