第10話C 重力を超えて(終章)
──かつて、沈黙は安らぎの象徴だった。
時間は再び、静かに流れ始めていた。
緊急修理ミッションは成功。作業後の再確認もすべて完了し、船体は完全な安定飛行へと移行していた。
──はずだった。
「航行ログ、正規軌道に回帰。燃料使用量、調整完了」
「通信系も安定。今のところ、干渉ゼロ」
ブリッジに流れる報告は、どれも平穏そのものだった。
それは、正確に、静かに、何もかもが“整っている”と示していた。
ただ──
モニターの隅に、微細な揺らぎが映る。
通常のログからは検出されない、スペクトラム外の微粒子干渉。
AIは、それを“誤差”として処理する。
誰も気づかない。
クレールが座る指揮席でも、その揺らぎに気づける者はいない。
「予定通りのスリップ航路に入る。次のステージ移行は、あと十二分後」
エルナが表示した数値に、誰も異を唱えない。ログは正しい。演算は完璧だ。システムは正常に、最適解を走り続けていた。
誰も、まだ“何か”が始まっているとは思っていない。
──
静かな時間のなかで、レオがぼそっと漏らす。
「なあ、ちょっとだけ……外、見てみない?」
「……なんで?」
「いや、なんとなく……綺麗なんじゃないかって思ってさ。今、ちょうどさ、地球との距離が一番遠くなる手前なんだろ?」
「そうね」クレールが頷く。「この航路のピークを越えたら、今度は帰還軌道に入る。観測チャンスとしては、今が最良」
小さな観測ウィンドウを解放し、視界を拡張する。
船外には──漆黒の宙域。
……だが、ほんのわずか、地平線の向こうに“揺れている”ものがあった。
濃密な粒子が帯状に重なり、まるで星雲のように漂っている。だが、その色は淡く、肉眼で捉えられるかどうかすら微妙なライン。
「……なんか、煙みたいだな」
「いや、あれは……ガス帯か? でもこの宙域に、そんな記録は──」
クレールの指が端末を走る。だが、記録に一致する情報は、存在しなかった。
「航路計算に影響する可能性は……」
「ゼロよ」エルナが冷静に答える。「この程度の密度では、重力場にも、航行速度にも影響しないはず」
「“はず”、ね」
優司のつぶやきに、誰も返さなかった。
──
再び視線が、窓の向こうに向けられる。
あの“煙”のような星雲──
たしかにそこにあるはずなのに、わずかに角度を変えている。
誰もがそれを“目の錯覚”と受け取る。
AIも、ログも、すべて異常なし。
だから、人はそれ以上を疑わない。
星雲が、確実に近くなっていることを。
──
星雲が、徐々に航路を覆い始めていた。
だが、誰もそれを異常とは思っていなかった。
「そろそろ、全員、席に戻ろう」クレールが静かに促す。
レオが観測窓を閉じ、カリームは工具を片付ける。ブリッジに再び、出発前のような静けさが戻った。
そのときだった。
──音もなく、機体がわずかに軋んだ。
「……今、揺れたか?」カリームが首を傾げる。
「気のせいじゃねぇか?」とレオが返すが、どこか口調に曇りがある。
次の瞬間、表示パネルに一瞬だけ“砂嵐”のようなノイズが走った。
「……表示エラー?」
だが、システム上の数値はすべて正常。記録ログにも異常はない。
「見間違いではないと思う」珍しくエルナが言葉を漏らしたその刹那──
警告音が、低く、そして不規則に鳴り出した。
船体を包むように、静かな“圧”が広がる。
「被弾の兆候はなし、でもこれは──」
優司が端末を確認しながら、思わず息を飲む。
「星の配置が……微妙にズレてる」
座標上は正常。航路の軌跡も乱れていない。だが、ブリッジの全員が気づいていた。
──何かが、おかしい。
「この範囲、完全に観測不能領域に入ってるわ」クレールが告げる。
通信ログが切断され、補助ナビも沈黙していた。
センサーは反応しない。航法AIも、わずかに補正値を狂わせていた。
「っ……再起動を試みる!」
「……通信回線、管制との接続断。完全に遮断されてます」
レオの言葉が、どこか遠くから届くように響いた。
──“今だけ、外とつながらない”。
ただの現象。だが、それが意味するのは──機体とクルー全員が、今この瞬間、完全な孤立状態にあるという事実だった。
「今は進行を止める。全システム、セーフモード移行」クレールが即断し、冷静な指示を飛ばす。
全員が迷わず動く。
優司は冷却系統と補機制御の誤作動チェックに走り、エルナは手動で酸素管理装置の再調整へ。
レオはサブモニターの補正作業に入り、カリームは格納庫の圧力数値を確認しながら整備備品の棚を固定した。
マリアだけが静かに、観測窓の前で立ち尽くしていた。
その視線の先──宇宙空間に浮かぶ“霧”のような星雲は、ただ沈黙の密度だけを漂わせていた。
「……もうすぐ、抜ける」
誰にともなく、マリアがそう言った。
だが、誰も聞き返さなかった。
「循環ルート、手動修正完了。酸素濃度、安定域まで回復できる」
優司が艙内から声を飛ばす。
その直後──ブリッジに微かな機械音が戻り始めた。
「……各系統、安定領域へ移行。通信……部分回復」
AIがノイズ混じりの音声で告げる。
「危機──解除されました」
その言葉をもって、クルー全員の手がようやく止まり、微かな安堵が広がった。
作業に集中していた彼らの手が、次第に止まり、呼吸が、ようやく“自分のもの”として戻ってきた。それぞれがその余韻を胸に、ゆっくりと席へと戻っていった。
異常は収まり、船内は静けさを取り戻していた。
だが、それは“何も起きていない”という静けさではない。
人の手で、一つひとつを修正し、ぎりぎりで“日常のかたち”に戻した──そんな、ぎこちない均衡の静寂だった。
エルナが制御パネルを確認しながら、そっと告げる。
「酸素濃度、安定。自律系も……段階的に戻ってきてる」
クレールは静かに頷き、ゆっくりと座席に腰を落とした。
背筋を伸ばしたまま、目を閉じる。そのまま、言葉を持たずに呼吸を整えていく。
優司は整備ユニットの端で、分解した工具を拭きながら、無言のまま時間を止めていた。
船体の軋みも、人工音声の断片もない。──ただ、“生き延びた”という現実だけがそこにあった。
床に広がる薄いカーボンパネルに、レオがバサッと背中から倒れ込む。
「……終わった、よな?」
その言葉に、誰もすぐ返事をしなかった。
けれど、それを打ち消す者もいなかった。誰もが、ただそれを噛み締めるように黙っていた。
「なぁ……宇宙って、もっとこう……“静かに眺める”もんじゃなかったっけ?」
苦笑まじりのレオの声に、カリームが首を振る。
「お前が眺めてたのは霧の壁だろ……宇宙じゃなくて」
「……マジで、あれ絶対観光パンフには載ってない」
──くつくつと、誰かが喉の奥で笑う。
明確な笑いではない。疲れきった肺が、かろうじて空気を震わせる程度のもの。
けれどその音は、確かに“生きている人間たち”の中から出たものだった。
クレールが目を開け、仲間たちの顔を順に見渡す。
眉根を寄せ、少しだけ口元を緩め、静かに告げた。
「……あなたたち、悪くなかったわ」
それは、ただの評価ではなかった。
この場にいる全員が、あの嵐を乗り越えた“当事者”であることを、しっかりと肯定する言葉だった。
沈黙がまた戻りかけたその時──
マリアが、窓の外を見たまま、ほとんど息のような声で言った。
「……もう少し、あなたたちと話してもいいかも」
その呟きは誰に向けたものでもなく、また問いでもなかった。
ただ、自分の中で決まった“何か”を口にしただけの言葉だった。
だが、その一言が、艙内の空気を変えた。
優司が、工具を置き、カリームはふっと肩の力を抜き、エルナはモニターから手を離した。
レオが少しだけ起き上がり、いつもの調子に戻りかけた声で言う。
「……ほら、そういう時は“よろしく”って言うもんだぜ。ま、俺たちなりの挨拶だけどな」
マリアは一瞬だけ黙って、やがてほんのわずかに頬を動かした。
それは、笑顔のようにも、感情の揺らぎのようにも見えた。
船内に、ようやく“人の匂い”が戻る。
それは安堵とも希望とも違う、ただの“共にあった”という感覚。
言葉よりも、呼吸のリズムで通じるものが、そこにはあった。
そしてその静けさの中──彼らは、再び“帰還”という名のミッションへ、意識を向け始める。
──システム音が静かに鳴った。
AIの再起動完了を告げる緑の光が、コクピットのパネルに灯る。
「自動航行、正常作動を確認。帰還ルートを補正中──」
管制音声の復帰に、コクピットの空気がわずかに緩んだ。
視界の先、外壁スクリーンが徐々に明るくなり、霧のような星雲を突き抜けた“先”に広がる空が姿を現す。
──それは、青だった。
吸い込まれるような深い藍と、雲をかすめる白い渦。
淡く弧を描く水平線と、輪郭を包む光の影。
その光景に、誰もが自然と呼吸を整える。
それは、呼吸を忘れるほどの光景だった。
眼前に浮かぶのは、宇宙の漆黒を背景に、ただひとつ浮かぶ完璧な球体。
深い蒼の海に、白くたなびく雲が巻きつき、極地には氷冠の白が、かすかに光を返していた。
それはあまりにも“美しすぎて”、もはや自然とは思えない──設計された奇跡。
この宇宙のどこかで、こんな星が偶然に生まれたなどと、にわかには信じがたい。
命を育む星。
還る場所。
あらゆる“始まり”の記憶を抱えた、ただひとつの揺りかご。
どんな衛星写真でも、どんなシミュレーション映像でも、本物の“あれ”には敵わない。
この深さは、温度だ。
この光は、呼吸だ。
この丸みは、体温そのものだ。
色彩は、計算されたようなバランスを持っていた。
海の青は澄んでいながら重く、大気のレイヤーはほんのわずかに虹色を孕み、雲は静かに、だが確かに地表を撫でていく。
極地の氷冠が陽を受けて輝けば、それは星に降りた祈りのように見えた。
「……帰ってきたんだな」
誰かがそう呟くと、それだけで胸が熱くなる。
重力に愛される惑星。
“重力”という絆で、すべてを引き寄せる星。
その姿を前にすれば、言葉などいらなかった。
涙を流す者もいない。ただ、静かに、深く、魂が安らぐだけだった。
だが、視線を凝らすほどに、見えてくる違和感もある。
──大陸の輪郭が、記憶とほんの少し違う。
──雲の渦が、ほんのわずかに速すぎる。
──太平洋にあったはずの無垢な青が、少し、深すぎる。
だが、それでも、誰もが思ってしまう。
これは、あの星だ。
あの温かさを知っている者にしか、わからない懐かしさがここにはある。
生まれた場所の光。
死ぬなら還りたいと願う、唯一の大地。
それを見て泣くのは、罪ではない。
それを信じることを疑うのは、むしろ酷だ。
どこまで近づいても、あまりに完成されていて──
逆に、完璧すぎることが、静かな“違和”を浮かび上がらせる。
優司が小さく呟く。
「 ──これは、地球ではない」
惑星の大きさが、明らかに異常だった。
──見えていたのに、気づけなかった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.010C】
沈黙、解除。静穏モードより強制移行。
既知パターンにない揺らぎを検出。
錯視と錯覚の区別を行うため、“ブックマーク”で継続記録を推奨。