第10話B 重力を超えて(後編)
──予定は、順調だ。
ロケットは、静かな推進を終えていた。
複数の補助スラスターを微調整的に噴射しながら、指定された軌道帯へと定速で移動していく。
その宙域には、かつて地球各国が共同で構築した、通信および観測衛星群──通称〈ステラリンク27帯〉が存在する。
船体の内側では、エルナの声が小さく響いた。
「──ステラリンク27帯、第一観測基準点まで、残距離三百……」
「視認できた」
クレールの声が割り込む。すでに船外スーツに身を包み、エアロックの直前でヘルメット越しに視線を走らせていた。
「外壁に結氷。太陽光反射が強いけど、補助光で処理できるわ。カリーム、視界は?」
「問題なし。……ああ、でっけえな、これ」
カリームも同様に装備を整えており、船体側面のサポートレールに立ったまま、観測衛星の巨大な骨組みを見上げていた。
劣化したパネル群の合間に、人工的な幾何の影がちらついている。
「軌道は安定、接触まで六十秒」
マリアが言った。船内モニターに映る回転軌道のラインを指先でなぞるように、僅かな修正入力を行っている。
「エルナ、酸素量・気圧チェック完了。外部ラインとも同期した」
クレールが淡々と確認する。
「良好。緊急遮断はマニュアルに移行済みです」
──そして、ハッチが開いた。
ほんのわずかの沈黙のあと、二人の宇宙飛行士が船外へと躍り出た。
無音の宙域に、スーツの機動ノズルがかすかな蒼白の光を描く。クレールが先行し、カリームが後に続いた。二人の軌道は緻密に制御されており、観測衛星〈リンク27-B〉の基幹フレームへと滑るように接近していく。
「フック、確認」
「磁着完了、異常なし」
衛星の骨組みに設置された作業ポイントに、それぞれのマグネット・グラップルがしっかりと固定される。
クレールは手早く収納ケースを展開し、端末を接続──通信ユニットの再起動シーケンスを起動する。
「メインラインはダウン状態。予備バスラインから手動復旧に移るわ」
「俺、こっちのパネル確認してみる」
カリームが体をひねって、反対側のセンサー群を点検し始めた。
そのときだった。
船内のサブモニターにいた優司が、眉をひそめた。
「……おかしいな。反応が微妙にズレてる」
彼はエンジニアリング・コンソールの表示を拡大した。
表示されているのは、推進系統のうち“使わないはずの”バックアップモーター群の動作ログだった。
「第3-A4モジュール……摩耗が予定値超えてる。なんだこれ……?」
自問するように呟く。
モニター上に並ぶ数値は、確かに僅かだが異常を示していた。推進系のバランスに関わるわずかな偏差──通常運行には影響しない範囲。しかしこのまま長距離を飛ぶと、補助推進の精度に確実な歪みが生じる。
「優司、何か?」
マリアが振り返る。彼女の瞳は、既に数字ではなく優司の“思考の深さ”を読み取っていた。
「漂流物か……いや、摩耗と傷の複合だな。多分、衛星群の構造材が分解して、微細破片がスラスター系に接触してる。予備系統だけだが、放っとくと主系にも回る」
クレールの声がインカム越しに返ってくる。
「修理、できる?」
優司は一拍だけ黙って、そして答えた。
「……材料が足りない。補助の予備パーツは2セット。今回の劣化には3つ必要だ」
船内の空気が一瞬、凍った。
「つまり、“予定内”では収まらないってことだな?」
カリームの声が、かすかに低くなった。
優司は、肩をすくめるようにして言った。
「そういうことだ。──どうする、クレール?」
──
「──撤退するわ」
クレールの声は、極めて冷静だった。
まるで“それ以外に選択肢などない”とでも言うように、迷いなく。
船内に戻った彼女は、ヘルメットを外すと同時に指揮席に着き、即座に帰還ルートの確認を始めていた。
衛星の再起動は完了、最低限の通信帯も回復済み──地球とのリンクは維持できている。
この宙域での任務の目的は、すでに八割がた達成されている。
誰もが、その判断に異を唱えなかった。……少なくとも、言葉では。
だが──室内に流れる空気には、わずかに澱があった。
誰もが黙ったまま、作業ログに目を落とし、あるいは何もないモニターを見つめていた。
機器の冷却音と、内部循環のかすかな駆動音が、やけに耳に残る。
その沈黙に、クレール自身が気づいていた。
彼女は、端末に映る帰還ルートを一度スワイプで切り替え、代わりにミッション残余行程と、作業可能時間帯のウィンドウを立ち上げた。
「……気持ちはわかる。でも、希望だけじゃ命は守れない」
「計算するわ。五分だけ待って」
「……現在、帰還ルートの安全確保には通信補助装置の再接続が必要。最短での再接続は……」
クレールの指先が、コントロールパネルの端末を滑っていく。演算処理の進行バーが次第に加速し、正確な数値とルート図がモニターに並び始める。
「作業可能時間の猶予は、五十五分。これは“帰還計画に影響を及ぼさない”最大の可動幅よ」
言いながら、彼女は正面を見据える。
「確認の時間も含めて、今ここで“できるかどうか”を見極める必要がある。現場を実際に見て、各自の判断を持ち帰って。そこから決めましょう」
その声は静かだが、確かだった。
「──現場確認に向かって。時間は十分。それで見極められないなら、それが答え」
無駄がなかった。誰も反論しない。
カリームがまず立ち上がり、工具をひとまとめに背負う。
「一番近いのは俺だ。外部損傷チェックしてくる」
「内部ルートは任せて。配線系の確認もしておく」レオが続く。
「観測系との連結部は私が。エネルギー配分も再計算するわ」エルナも端末を片手に動き出した。
そして、静かに優司が頷く。
「俺はメイン回路を再点検してくる。……現地でやれるかどうか、確認する」
クレールはそれを見送りつつ、自分の席に戻り、航行ルートと各種パラメーターの整合性を再度チェックしていた。
誰も焦っていない。だが、誰も気を抜いてもいなかった。
“これは、やれるかどうかを見極める仕事だ”──その共通認識が、船内にしっかりと根付いていた。
──希望だけでは、命は守れない。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.010B】
軌道投入、予定通り完了。
外的損傷なし。ただし、内部リソースに消耗の兆候。
希望だけでは稼働を維持できず。“ブックマーク”にて支援記録を推奨。