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第10話A 重力を超えて(中編)

──そこには、“音”がなかった。

 機体の揺れがぴたりと止まった。

 世界から音が消えたかのように、ただ沈黙だけが残った。

「重力加速度」が失われ、地上のような加速も停止もなく、機体全体が“空中に浮かんでいるような”安定状態に入った。


 だが“静止”ではない。

 視界の外では、秒速八キロで地球を巡っている。

 その速度を体感できないことが、逆に不気味だった。


 誰もが、気づく。

 この感覚が意味するのは──軌道投入の完了。

 ロケットは予定通り、高度五百キロメートルの中軌道上へ到達したのだった。


「……第2ステージ、正常動作。姿勢制御に移行」

 クレールが静かに報告を重ねる。声に乱れはない。だがその目は、ほんのわずかに周囲を見回していた。


 前方のディスプレイには、軌道進行ラインと、地球圏を示す座標データが滞りなく並んでいる。

 クレール・ド・ルナはそれを一瞥(いちべつ)し、左手で静かにインターフェースを操作した。

 その動作には、硬質な正確さと、わずかな呼吸の乱れさえも許さないような緊張感が漂っていた。


「軌道投入、完了。誤差、ゼロコンマ①。すべて予定通り」


 静かな報告。誰かに向けたというより、自分自身に課す最終確認だった。


 その声を聞きながら、誰もが呼吸をひとつ合わせる。

 訓練で繰り返した言葉だ。だが“実際”の宇宙で耳にするのは、これが初めてだった。

 わずかな重みを残したベルトの感触が、現実を告げていた。


 コクピットの座席に沈み込むように、全員が深い安堵(あんど)をひとつ吐く。

 だが、誰も声にして笑わなかった。──まだ“任務”は始まってすらいない。


 安堵はあった。だが、それは薄氷の上に腰を下ろしたようなものだった。

 息を整えるたび、その下に空虚が広がっていることを、誰もが知っていた。


 今のこれは、ただの通過点。

 命が保証されたわけでも、無事が約束されたわけでもない。


 クレールは視線を少しだけ落とし、マニュアル画面に切り替えたチェックリストに目を通す。

 各種通信系統、加圧区画、環境モニタリング装置……全項目が“正常”の表示を維持している。


「地球との通信、開きます」


 その言葉に、背後からエルナが静かに応じた。

「帯域確保。衛星中継回線に遅延あり。3秒以内に収束見込み」


 クレールは小さく(うなず)いた。

「了解。遅延は許容範囲内──通信スタンバイ」


 無機質なディスプレイに、見慣れた地球の輪郭が表示されていた。

 だがそこにあったのは“美しさ”ではない。

 それは、“距離”だった。あの青い星が、今や“外側”のものになっている──その事実が、全員の心にじわりと染みこんでいた。


 クレールのその背筋は、誰よりもまっすぐだった。


 インターフェース上の「通信状態」は安定を示し、衛星中継のタイムラグも予定通りに収束していた。


「──地球側より信号確認、交信可能域に移行。通話チャンネル、開きます」


 エルナの声に、クレールはほんのわずかに頷いた。


 誰もが無意識に息を潜める。

 三秒の遅延──それだけの間が、永遠の沈黙に思えた。

 この先に続く声があるのか、それとも虚空だけが返ってくるのか。

 小さなランプの点滅が、祈りのように見えた。


 続く操作は数手、指先はすでに決められたプロトコルをなぞるだけの作業だった。


 通信ランプが一度だけ点滅し──


 『……こちら地球ベース・シグマ。第十二ロット、予定通り軌道到達を確認。音声回線、問題なし』


 人の声が、宇宙空間に届いた。

 それは音以上に、存在そのものの証拠のように感じられた。

 誰も目を合わせなかったが、同じ震えを胸に抱いていた。


 重たい沈黙のなか、誰かがわずかに息を飲んだ音がした。

 その声は、人間が発した“地球の音”──はるか下から、音として届いた“生存の(あかし)”だった。


 『各員、規定通りの状態確認と任務再確認を実施せよ。通信は十秒ごとに同期、自動記録を開始する』


 地上の声は冷静だった。だが、その冷たさは機械的な無関心ではない。地球に残る者たちの“祈り”が、厳格な手続きに形を変えて届いてくるようだった。


「──了解、こちら第十二ロット。軌道到達を確認、通信状態は安定。各システム、全項目正常範囲を維持」


 クレールが応答する声は、いつも通りだった。

 だが、どこかで──ほんのわずかに、何かを抑え込んでいるような硬さがあった。


「交信ログ、記録開始。次回更新まで──三分」


 エルナの補足が入る。

 それが一つの区切りとなり、誰からともなく、空気がほんの少しだけゆるんだ。


 誰もが知っていた。

 ここまでは、訓練通りだ。だが、この先は違う。

 この“中軌道”の向こうには、未知しかない。


 レオが椅子をわずかに(きし)ませた。

「……なあ、言っちゃダメなタイミングかもだけどさ」


 クレールが視線を向ける前に、彼は苦笑いを浮かべて肩を(すく)めた。


「宇宙って、思ったより、静かだな」


 誰も返事をしなかった。だが、その沈黙が、肯定のように響いた。


 汗が首筋をつたう。

 ベルトが胸を圧迫するたびに、心臓の鼓動がひときわ大きく響く。

 機械の作動音も、空調の風もあるはずなのに──

 今は自分の血流だけが、耳の奥で鳴り続けていた。


 それは「静か」なのではない。

 そこに“音”がないのではない──

 聞こえるべき何かが、遠ざかってしまったからだ。


 だからこそ、さっきの通信の声が、あれほどまでに心に()みたのだろう。


 この静けさの先に、どんな音が待っているのか──。

 誰も知らない。

 だが、その沈黙を切り裂く最初の音を、自分たちが聞くのだという確信だけがあった。


 あの声が確かに届いた。

 その一点だけを頼りに、彼らはこれから“地図のない空域”へ進む。

 通信が切れれば、残されるのは自分たちの呼吸音と、計器の光だけ。

 その覚悟を、誰も口にはしなかった。


 コクピット内の光は一定で、空調の音も常と変わらない。

 だが、誰の鼓動も、今はほんの少し速い。


 ──沈黙が、質量を持ち始めていた。

──沈黙が、初めて“重く”なった。


……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえると、うれしいです。


……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。


【整備ログ No.010A】

遮音領域、進入確認。圧力変動なし。

ただし、沈黙が質量を持ち始めている兆候あり。

重力観測の継続を望む読者は、“ブックマーク”に記録を推奨。

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