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第9話 重力を超えて(前編)

──音のない場所で、人は何を見るのか。

 空調の音が、まるで鼓動のように規則正しく響いていた。

 ブリッジ通路の照明は柔らかく落ち、床には小さな振動が伝わってくる。目に見えぬ“準備の音”が、遠く機体の中心で鳴っているのだろう。


 優司は、無言のまま一歩ずつ足を進めていた。

 足裏から伝わる金属の感触は、普段整備室で感じる“機械の皮膚”とは違っていた。これは乗る側の感覚だ。送り出す側ではない。


 ──いよいよだ。


 彼の前を歩く背中──クレールは、直立したまま一度も振り返らなかった。

 肩の動きひとつなく、寸分狂いのない歩幅。すべてが“訓練通り”の動きだった。


 その数歩後ろで、レオが軽く肩を揺らしながら歩いている。緊張と高揚をごまかすように、左右を見回しながら小さく口笛を吹いていた。


「なあ……映画だったら、ここで『誰かトイレ』とか言うやついるよな」


 誰も応えない。だがその軽口が、確かに空気を少しだけ緩ませていた。


 一番後ろを歩くカリームは、拳を握ったまま黙っていた。

 たまに視線だけで前方のメンバーを順に確認し、何度も呼吸を整えている。まるで今から戦場に向かう兵士のように。


 通路の先にある、分厚い金属扉がゆっくりと開いた。

 軽い霧が吹き出すような音とともに、眼前には巨大なロケット本体が姿を現す。


 優司の目が細くなる。

 機体の表面には、整備ログでしか見たことのない実働ユニットのパーツが並んでいた。

 溶接痕、強化リブ、無数の小型バーニア──すべてが“本番仕様”だ。

 自分が整備していた試験機とは違う。これは、宇宙へ行くための“現実”だ。


 静かに立ち止まると、彼は思わず左手を握った。

 指の関節が鳴る。あの時、仕込んだチューブは正常に稼働しているのか。微細なセンサー類は大気の誤差に耐えられるのか──思考が、技術者としての反射で巡る。


 ⸻


 重量扉が、ゆっくりと閉じていく。

 密閉音が響いた瞬間、外界とのすべてが遮断された。もう後戻りはできない──


 照明の落ちた格納区画に、一筋の青いランプが点灯した。乗員搬送軌道の誘導光だ。

 その光に導かれるように、クルーたちはロケットへと歩みを進める。

 足音は、硬質な通路に乾いたリズムを刻んでいく。誰も口を開かない。目の前の現実が、彼らの言葉を奪っていた。


 機体コード《XR-01〈ステラリンク〉》。

 宇宙圏テスト用に設計されたこのロケットは、操縦と観測を重視した多目的仕様で、機動性こそ劣るが安定性と安全性に特化している。

 機体中央部には小型の居住区と作業エリアがあり、コックピットは前方上部に位置する。乗員数は最大6名。個室はなく、狭いカプセル型の仮眠ユニットが壁際に設けられていた。


「再確認だ。各自、所定のステーションに着席しろ」

 クレールが短く指示を出す。軍の訓練を受けているだけあって、声に曇りはない。

 副操縦席へと滑るように腰を下ろす彼女の姿に、自然と誰もが従う空気が生まれていた。


 レオは、そんな緊張をどこか面白がるように座席へ腰を下ろす。

「……おーし、ナビ補佐、了解。んで、俺はどこ押せば爆発すんだ?」

 その冗談に誰も笑わなかったが、かすかに肩が揺れた。空気が少しだけ、ほどけた。


「爆発スイッチは君の座席にだけ設置されてる」

 クレールが淡々と返すと、レオが「うわ、やっぱ特別待遇だわ」と肩を竦めた。


 優司は最後に乗り込み、荷物をロッカーに収めると、黙って機内壁面に設置された予備装置のチェックに向かう。

 彼が扱うのは、乗員の生命維持ユニットや衝撃吸収装置の動作確認だ。

 整備士という立場はここでは直接的ではないが、「備え」がどれほど命を左右するかは、彼自身が一番理解している。


 静かな空間の中で、微かな電子音と、確認済を示すインジケーターの緑が並んでいく。

 それはまるで、目に見えない安全という名の鎧を一つ一つ装着していくようだった。


「地上管制より《ステラリンク》。信号受信、全システムチェックを開始する」

 スピーカーからの声が、機内の静けさを切り裂いた。


「受信確認。こちらステラリンク、副操縦クレール・ド・ルナ。全システム、接続準備完了」


 クレールの返答は、理路整然としていた。

 だがその指先に、一瞬だけ迷いが生じてしまった。


 レオだからこそ、見逃さなかった。わずかな緊張すら、誤差に変わる。


「ナビの補正、俺がやる。ちょっとその項目、押さえてて」


 レオは自分のパネルに身を寄せながら、自然な流れでクレールの手元に視線を向ける。

 命令ではなく、協力要請の口調。それが、彼なりのやり方だった。


「……わかった」


 クレールは頷き、作業に加わる。

 操作音が、二人の指先から静かに重なっていく。


 しばらくして、同期表示が安定した。

 レオはふっと息を吐いて、低く呟く。


「なあクレール。こうして並ぶと、意外と息合うな、俺たち」


 クレールはちらりと彼を見たが、何も言わずに視線を戻した。

 だが、もうその手元に迷いはなかった。


 小さく息を吐くクレールの声に、今度は誰もが静かに耳を傾けていた。


「《ステラリンク》、Tマイナス6分。最終チェックに入る」

 カウントダウンが始まる。


 優司は、最後に座席へと戻り、拘束ベルトを締めた。目を閉じて、深く息を吸い込む。

 機体の震動はまだない。だが、心の内側には確かに――重力を超える気配が、満ちてきていた。


 ⸻


 計器の表示が次々と緑に変わり、最終チェックを通過していく。

 搭乗者全員の生体反応、通信状況、燃料圧力、船体構造──どれも基準値内。

 だが、空気は凍りついたままだった。


「──発射まで、Tマイナス300秒」


 無機質なカウントが、船内に響く。

 座席ごとのスピーカーが、低い警告音とともに、確実に“本番”を告げていた。


 クレールは操縦席に深く腰を沈めたまま、視線をフロントウィンドウへ向けた。

 その奥には、雲の層を突き抜けるようにそびえる夜の空──そして、その先にある未知の闇。

 彼女の眼差しには、恐れではなく、研ぎ澄まされた集中だけがあった。


 だが、背中の汗は、すでに冷えていた。


「乗員各位、着座および拘束を再確認してください」

「酸素循環、加圧、異常なし──現在、慣性シート起動中」


 地上管制の声が、マイク越しに届く。淡々と、確実に。

 その声を聞きながら、クレールはひとつ深く息を吐いた。


「地上より最終確認──ユニットC-4、起動準備完了報告を」


 クレールは短くうなずき、通信スイッチを押した。


「ユニットC-4、全システム緑。機体および乗員、発射準備完了です」


 その声に、機内の誰もが一瞬、目を閉じた。

 儀式のような静けさがあった。


 ⸻


「……よし」


 重い沈黙を切るように、レオが静かに言った。

 さっきまでの軽口は消え、瞳には鋭さが宿っている。


「この時間、結構好きかも。最初に命を預ける場所を信じられるかって──そういう時間だろ?」


 誰も返さなかったが、その言葉に何かが解けた気がした。


 ⸻


「Tマイナス60秒。イグニッション準備に入ります」

「緊急ブレーキ解除、燃料ライン開放」


 警告灯が赤から青へと変わる。

 機体下部からの微振動が、徐々に鼓膜を揺らし始めていた。


「ねぇ、揺れ始めたね」

 マリアの囁きが、どこか遠くから聞こえた。


「Tマイナス30秒」

「全乗員、加圧状態に入ります。急加速度に備えてください」


 クレールは操作パネルに指を添えたまま、誰よりも先に覚悟を決めていた。

 この数分を超えれば、もう地上には戻れない。


 ⸻


「Tマイナス10秒──9、8、7……」


 管制塔からのカウントが、鼓動と重なる。

 シートベルトがきつく締まり、視界の端で誰かが拳を握りしめていた。


「6、5……」


 パネルの表示が、白熱する。


「4、3──」


 振動が増す。


「2、1──イグニッション」


 機体が轟音とともに震え、次の瞬間、

 彼らの乗ったユニットC-4は、炎と圧力の柱に乗って、大気を突き抜けた。


 ⸻


 加速の波が、身体を貫いていた。

 意識が押しつぶされそうなほどの圧力が、胸の奥から臓器ごと押し込んでくる。


 クレールは、歯を食いしばって耐えていた。

 額から汗が流れる。思考すら、引きちぎられそうになる。


 だが、その一方で──視界の先、パネルの中の数字は、確かに上昇していた。


「加速度……順調。現在、第二ブースター切り離し完了。軌道へ……移行」


 低く、しかし揺るがぬ声がスピーカーから届く。


 ガス圧の衝撃音とともに、一部の推進器が切り離されると、

 機体の揺れは一転、奇妙なほどの“無”へと転じた。


 重力の暴力は、突然、音を立てて消えた。


 ──それは、静寂だった。


 ⸻


「……宇宙だ」


 誰かが、吐息のように呟いた。


 窓の先には、黒よりも深い闇が広がっていた。

 無数の星々が瞬きながらも、音もなく──ただ、そこに在る。


 その光景は、地上からのそれとはまるで違っていた。


 星は遠く、空は恐ろしく冷たく、何より、沈黙が支配していた。


「すげぇな……本当に来ちまった」


 レオの声も、どこか上ずっていた。

 いつもの軽さではなく、“子どものような素の驚き”が混じっていた。


 ⸻


 それでも、誰も歓声を上げなかった。

 静かすぎる宇宙の中で、誰もが言葉を選びかねていたのかもしれない。


 ただ、わずかに──


「……あ」


 マリアが、眉を寄せて、静かに宙を見つめていた。


「どうかしたか?」


 カリームが低く問いかけると、彼女はほんのわずかに首を横に振った。


「ううん。ただ……耳鳴り、じゃないんだけど……静かすぎて、逆に……何かが遠くから、来るような──そんな、感じがして」


 誰もが目を伏せたが、誰も否定はしなかった。


 ⸻


 機体の揺れがぴたりと止んだ。

 まるで、水のない海を滑るような静けさ。

「重力加速度」が完全に失われ、地上で感じていた加速も減速も、今はもう存在しない。

 機体は一定の速度を保ったまま、外気も空力もない空間を“滑って”いた。

 レオが窓の外を指差す。「おい、見ろよ……」

 その先にあったのは、どこまでも青く、曲線を描いて広がる惑星だった。

 クレールが短く呟く。「……軌道上、到達」──


 誰の耳にも届かないほどの、かすかな気配が。

 ただ一度、機体の外を、かすめていった。

 音でも光でもなく、予感とも錯覚ともつかない曖昧な感覚。

 何かが“そこにいた”という証だけが、瞬きの裏側に置かれた。

だが、宇宙は、何も言わない。


……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえると、うれしいです。


……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。


【整備ログ No.009】

環境音消失。通信は断続。

重力干渉領域を離脱中。各記録は微弱ながら継続。

この先の観測を希望する者は、“ブックマーク”による軌道記録を推奨。

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