第0話 期待されなかった機体
静かに捨てられたものは、静かに火をつける。
「お前にはもう、何の期待もない」
父にそう言われ勘当されたのは、十五の冬。
その瞬間、俺の人生は“持つ者”から“切られた者”へと転げ落ちた。
俺は、帝王学を叩き込まれて育った。
統治の哲学、組織運営、戦略理論。
感情より理性。支配より管理。
“導く者としての思考”を刷り込まれる──そんな家だった。
……けれど、あの日を境に、すべて終わった。
きっかけは、弟の成績。
三つ下の弟は、筆記で常に満点。教官の評価も異様に高い。
対して俺は、記述を飛ばす癖があり、「過程が足りない」と減点される。
答えにはたどり着いていた。だが、“書き方が違う”という理由で誤答とされた。
ある日、俺がつまずいた課題を、弟が横からあっさり解く。
教師はそれを業務報告のような口調で言い放った。
「上の子は……もう限界です。下の子に切り替えましょう」
また別の日、別の教師が父に進言する。
「上の子は帝王学には向いていません。下の子の方が遥かに優秀です」
父は“数字”しか見なかった。人格も努力も、眼中にない。
そして弟が俺を一度でも上回った、そのとき──父は冷酷に告げた。
「お前はもう不要だ。後はあいつに任せる」
それだけで、教育の席は消えた。
“支配する側”から“機械を組み立てる側”へ。
命じる者から、黙って従う者へ。
変化はあまりにも滑らかで、誰ひとり疑問を抱かなかった。
そして──
その瞬間から、俺は感情を捨てた。
叫んでも、逆らっても、意味はない。
なら、黙ってやるべきことをやる。それが合理的だ。
「期待されないなら、期待に応える必要もない」
そう決めたとき、自分という俺が形になった。
初めて工具を握ったとき、胸の奥で何かが“噛み合った”。
それからというもの、手だけは止まらなかった。
回路の流れ、構造の重心、歪みのない音。
数式では表せない感覚が、この手と耳に宿っていた。
バラし、直し、組み上げる。
その繰り返しの中に、“誰の評価もいらない自分だけの正解”があった。
今、俺は宇宙開発企業の下請け工場で働いている。
三畳半の寮。壁は薄く、夜中に隣の咳が聞こえる。
ベッドと工具棚の間に段ボールを敷き、そこが俺の“食事スペース”。
食堂はない。朝は缶詰、夜は白湯と残り物。
給料明細には「技術作業補助」と書かれているが、実態は“何でも屋”。清掃、搬送、加工、夜勤の修理まで。
工場の廊下は夜明け前でも騒がしい。
鉄板を叩く音が遠くでこだまし、換気口からは焦げた油の匂いが漂ってくる。
錆びついたロッカーを開ければ、制服に染みついた汗と薬品の臭気が混じり合い、胸の奥までじわりと張りついた。
仮眠室には同僚が数人、うなされるように寝返りを打ち、誰も目を覚まさない。
椅子に腰を落とすと、背中に染み込んだ冷気が一層重くのしかかる。
夜勤明けの空気は、鉄と汗の匂いが混じっていた。
指先にこびりついた黒ずみは、どんなに擦っても落ちない。
薄い壁の向こうから、咳と独り言が途切れ途切れに響いてくる。
ベッドに腰を落とせば、蛍光灯が一瞬だけ明滅した。
報告書を間違えれば怒鳴られる。
納期が遅れれば、関係ない俺にまで罵声が飛ぶ。
けれど、怒鳴られたところで手を止める理由にはならなかった。
「怒られるより、作業が止まる方が問題だ」
──そう考えるようになったのは、いつからだったか。
服は油で黒ずみ、手は工具の金属で荒れている。
だが、誰に見せるものでもない。
機械は文句を言わない。
整備した分だけ、黙って動く。それで十分だった。
工場の休憩室に置かれた古いモニター。
画面には、父と弟が並んで笑う姿が映っていた。
モニターの中で弟は記者の質問に応じていた。
「父の教えがあったから今の自分がある」と、よどみなく答える。
横に並ぶ父は静かに頷き、会場からは拍手が響いた。弟の胸には新しい記章が光り、彼の背後には企業のロゴ入りバナー。
笑みを浮かべる二人の姿は絵に描いたようで、画面を見ていた作業員たちから「すげえな」「やっぱ違う」と声が漏れる。
俺は言葉を返さず、視線を机に落とすしかなかった。
胸の奥が空洞になる。
隣の作業員が羨望の声を漏らしても、俺は視線を落とすしかなかった。
弟は父の会社の役員になり、制服の胸に企業ロゴを誇らしげにつけている。
メディアでは「若き天才技術者」と持て囃され、
“実家の長男”がどこにいるかなど、誰も気にしない。
──だけど。
俺が整備した推進ユニットは、実際に宇宙へ人を運んだ。
誰の名前にも残らない。
それでも、俺の締めたボルト一本が、誰かの命を乗せて大気圏を超えていった。
十分だ、と。
ずっと、そう思っていた。
打ち上げの映像を前に、心は二つに裂かれていた。
『これで十分だ』と繰り返す声と、『まだ終われない』と告げる声。
どちらが自分の本音か分からない。
父の声が遠い記憶から蘇り、弟の顔がまぶたに焼きつく。
喉の奥で何かが焦げつき、拳を握りしめても熱は消えなかった。
逃げたいのに、画面から目を離せない。あの瞬間、心の奥底で何かが音を立てて軋んでいた。
打ち上げ中継の映像を見たとき、思わず拳を握りしめていた。
『十分だ』と繰り返してきたはずなのに、胸の奥で別の声が囁く。
──これで終わっていいのか、と。
……でも、違う。
俺は、もう一度登る。
ただの補助じゃない。
整備士の手で、自分自身を宇宙へ押し上げる。
期待されなくていい。
誰にも認められなくていい。
だが、あのとき俺を切り捨てた者たちの“正解”を──
この手で、超えてみせる。
世界最高の宇宙飛行士になる。
支配する側でも、選ばれた者でもない。
ただ、自分の道を、自分の手で作った者として。
“あんたらの宇宙”じゃなく──
俺の宇宙を、この手で飛ぶ。
この手でしか、届かない空がある。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.000】
記録開始:落下時刻より3年経過。
冷却された現実の中、再点火する動力を探し続けた。
この手に残ったのは、誰にも認められなかった整備の痕跡──
だが、それこそが俺の誇りだ。
“俺の宇宙”は、ここから始まる。