違和感・変貌
初投稿です。気長に書いてまいります。よろしくお願いします。
10年続いたとある大戦が集結して20余年、この国の社会は大きく変容しつつあった。
国土が戦禍に巻き込まれることはなかったものの、敗戦国に軍事的・経済的な支援を行ったとして戦勝国による社会制度への介入が行われた。
それまでの旧き慣習は改められ、文化や経済も大きな変化を遂げている真っ最中である。その改革に伴って特に大きく変わったものは行政、つまり貴族家の扱いであった。
戦前には、貴族家は長らく王命によって代々己の領地を治めており、民はその庇護下で暮らしていたが、このたび各領地は貴族家を通さず中央から派遣される役人によって統治されることとなったのである。
よって貴族家の解体は最優先で議論のテーブルに上がったが、東方で勃発した小競り合いに重きが置かれたこと、重税の取り扶持を残す目的でその処遇は運よく宙ぶらりんになっている。
さて、この物語の主な舞台となるバクスター子爵家は、戦事中に功績を得た当主が他家から令嬢を迎えることで若くして興した子爵家である。しかし家を興して数週間で戦況は急激に悪化、戦後に約束されたはずの領地は与えられず、領主としての肩書のみがあり領民もいない『水のみ貴族』となったのであった。
戦況が傾き、国を、そして夫を憂いた子爵夫人は思った。特権階級が解体された時に備えて後ろ盾が必要である、と。それは国内では心もとない。外つ国との貿易こそ我らの生き残る最善の道である。
そうして、元公爵令嬢の夫人は自身の実家の、元軍人の夫は軍事的なコネクションを活かした”様々な”物品の貿易で『成金』と呼ばれる子爵家が誕生したのである。とは言っても、バクスター子爵家にも決して扱わないものがある。武器と、人間。この二つの貿易に手を出すことで何が起こるのか、当主は若いながらもよく理解していた。
人間の貿易といえばまともに聞こえるが、つまりは人さらいである。終戦後20余年経った今でもこの悪しきビジネスは公にされずとも確かに存在し、仕事を失った貴族家が一枚噛んでいる場合すらあると言われていた。
そして子爵夫人はもう一つ、奥の手を用意していた。しかし元公爵令嬢という強大な肩書きを持つバクスター家夫人の「法に触れない奥の手はいくつあっても良いものですのよ」という微笑みの前には誰もそれ以上の追及ができなかったという――。
朝の静かな空気に沈んだ白亜のタウンハウスに、場違いな起床喇叭が鳴り響く。バクスター屋敷名物、文字通りの起床喇叭である。
すでに厨房で作業をしていた料理人見習いのオリバーはパンの生地をオーブンに突っ込むと、小麦粉まみれの手をエプロンで拭いながら足取りも軽く玄関ホールへと向かった。朝の中庭には光が差し込み、晴れ晴れとした青空が秋の訪れをそれとなく感じさせていた。絵に描いたようなさわやかな朝に、新学期への期待と不安がないまぜになった高揚感がオリバーの背中を押していた。サマーバケーション中のいろいろな話を、学校の友人や、幼馴染でもあるこの家の令嬢たちと早く交わしたくてたまらなかった。
2度目の喇叭までに屋敷の全住人および使用人は本館玄関ホールに集合、点呼、朝礼。それはこのバクスター家当主の意向によるしきたりであり、この屋敷に住まう令嬢たちも例外ではない。
オリバーが玄関ホールに到着すると、使用人たちの和やかな談笑の中、3人の令嬢が揃って中央階段を降りてくるところであった。先頭を歩く年長者らしい令嬢は、落ち着いた顔立ちにチョコレートのようなつややかな茶色い髪を低い位置で緩く結っている。真ん中の令嬢は輝く天の川のような銀色の髪が眠そうな顔を繊細に縁取り、星の妖精が目覚め降臨したと言わんばかりの美しさである。最後尾を歩く背の低い令嬢は前者と対照的な目の覚めるようなプラチナブロンドであるが、大変しゃっきりとした表情だ。
三者三様の外見であるが、彼女たちはれっきとしたバクスター家令嬢たちである。愛しの銀の髪の令嬢は眠そうに星色の目をこすっていたが、目の端でホールに入ってきたばかりのオリバーをふととらえると、たちまち視線を前に戻し背筋を伸ばした。その様子に、オリバーは虚をつかれた心地で上げた手をエプロンのポケットに突っ込んだ。代わりに大きな戸惑いが浮かび上がる。
これがバケーションの前の彼女なら、にこやかに手を振り返してくれたものだが。機嫌が良ければそのままこちらにやってきて、一緒に朝礼を聞くことさえあったというのに。今朝は姉妹で喧嘩でもして機嫌が悪いのかもしれない。
先頭の令嬢は階段を足早に降りきると玄関ホールの中心へ進み出て軽く会釈をする。その表情はいかにも堅物然としており、ほんの少し上げた口角も事務的な印象をさらに強めている。
「皆さん、おはようございます。本日も朝からごくろうさまです。これより朝礼を行います」
朝礼の開始を告げるのはバクスター家第3令嬢のミルドレッド・バクスターである。当主不在時は当主に代わって屋敷の一切を取り仕切っている。
「本日も引き続き当主ご不在のため、使用人の皆様は普段通りにつつがなく業務の進行をお願いします。来客の予定はありません。レナーテは既に家を出ております。ファティマ・ソランジュ・オリバーは本日より新学期ですので定刻よりも少し早く通学してください。わたくしは15時ごろまで執事と共に執務室におりますので、用向きのある者はわたくしの自室ではなくそちらに」
ミルドレッドは他にもつらつらとよどみなく予定を伝えたのち
「では、本日もよろしくお願いします。解散」
と声をかけると、使用人たちは一斉に散開した。
先程最後尾を歩いていた小さな令嬢ソランジュ・バクスターが去り際ににっこりとオリバーに手を振るも、それに応える彼の視線は別の人間に向けられており、表情も何となく冴えない。視線の先の別の人間、ファティマ・バクスターは何かから逃げるようにそそくさと階段を上がって去っていくところであった。
その姿をぼんやりと眺め、なんと挨拶すらさせてもらえなかった、とオリバーは内心混乱していた。仕方ない、あとで通学の車の中で詳しく聞いてみればよいだろう、と気を取り直して自室へ戻ろうと踵を返したオリバーを「ああオリバー、ちょっと待って」と呼び止めたのは困り顔のミルドレッドである。
「ミルドレッド様、どうかされましたか」
「あなたには悪いのだけれど、ファティマは今日から一人で通学すると言って聞かないの。今週はあなたにも車を出すけれど、来週からは別の方法で通学してくれないかしら」
冷や水をかけられた気持ちとはこういうものなのだろうか。オリバーは先ほどファティマが姿を消した方向を思わず見やる。逃げる対象は僕か。どうしてという気持ちだけが心中を支配する。
「わかりました……あの、僕は何かファティマ様の気に障るようなことをしてしまったのでしょうか」
実のところ、これまでも喧嘩した時や喧嘩した時、喧嘩した時なんかは一方的に一緒に通学しない宣言を出され、遅刻を避けるため必死に自転車を漕いだことは数えきれない。
しかし今回は「そこまでやられる理由がわからない」。理由を尋ねたオリバー自身、何も心当たりはなく、第一、バクスターの一家が何日か前にサマーバケーションのバカンスより戻ってきてから、オリバーはファティマとはほとんど話していなかった。
僕はファティマに避けられているのか。なぜ?
ミルドレッドは額に手を当て少し考えるそぶりを見せ
「正直なところ、わたくしにもわからない……と言ったら嘘になるわ。でもね。あなたに落ち度は一切ないと思うのよ。たぶん、あの娘の中で何か考えがあるのでしょうね……」
あの子ほら、ちょっと変なところがあるから。と階段の方を見やってつぶやいた。
ミルドレッド様、仮にも妹に向かってそういう言い方はいかがなものなのでしょうか、とうつむいていたオリバーは少し笑う。手がとても冷えていることに気づき、少し深呼吸。
そして、ええあの、僕は使用人ですし、と前置きして続けた。
「年頃の大切なご令嬢と変な噂が立ってもバクスター家に迷惑がかかりますし。きっとファティマ様もそう思いなおされたのだと思います。バクスター家の事情を鑑みれば、これまで同じ車に乗せて頂いていただけでも感謝しなければならない立場ですから。ミルドレッド様も、そう悲しい顔をなさらないでください」
その言葉を聞いたミルドレッドの表情はますます曇っていく。
何か言いたげな顔をしていたがややあって躊躇うように口を開いた。
「……わたくしたち、あなたのことは昔から大変買っているのです。それこそ、あなたが料理人見習いとして厨房に立つずっと前から」
あの子もそれがわからないほど愚かではないでしょうに、と零す。そしてミルドレッドは夢から覚めたようにハッとして、じゃあ悪いけど、そういうことでよろしくね、朝食のパンを楽しみにしているわ、とオリバーを解放した。
買っているも何も、僕の方は一介の料理人見習いですし。人生を捧げてもいいファティマ様にはなぜか既に見捨てられているようなのですが、とオリバーは思った。外の天気は最高だが、オリバーの心中は混乱の雲からこぼれる『なぜ』で土砂降りであった。
さて、新学期といってもやることは変わらない。学年が上がり、使い古しのテキストが配られ、少しのガイダンスを挟んだらいつも通りの授業が始まる。あっという間に2週間が過ぎたが、それでもなんとなく空気が浮き足立っているのはおそらく、新しい季節への期待だけではなくファティマ・バクスターのことだろう。
新学期初日以来、彼女は別人のようになってしまったと専らの話題である。廊下の人垣が二つに分かれたら、それは彼女が登校した合図にほぼ間違いない。
「おい、お出ましだぜ」
戸惑うもの、ニヤニヤ笑いで見送る者、夢心地の表情をする者、苦々しげに見る者などギャラリーの表情は様々だ。人垣の隙間から場を覗くオリバーの仲間たちのそれは、まるで棚の上の手の届かないおやつを見る子供のような表情であった。
オリバーは落ち着かない様子で、自転車通学で少し焼けた半袖の腕をさすりながら、少し離れた廊下のくぼみから銀色のセミロングの髪がその歩みに合わせて揺れるのを眺めていた。
人垣が分かれた空間の中心にいるファティマには今朝も、学年もタイプも様々な男子学生が群がっている。
「ファティマ、今朝も素敵だね」
「先輩!おはようございます!好きです!」
「ファティマ様!今日はランチをご一緒しませんか!」
「バクスター嬢にぜひプレゼントを!」
これまでのファティマは全校から注目されるほどの派手な活動もない少女で、家にさほど力がないことも相まって令嬢然とした振る舞いは不得手であった。誰にでも分け隔てなく接し、身分に関係なく人から好かれる明るい人柄であった。しかし今のファティマはどうだろう。
拒絶とも男子学生らの手を取るともつかないその手は口元で華奢な指をさまよわせており、自身のつややかな唇へと異性の視線をくぎ付けにしている。上目遣いの恥じらうような表情。異性への蠱惑的な仕草や表情が増え、これまでとのギャップであっという間に男性陣の噂のマドンナになってしまった。社交界を席巻するのも時間の問題だろう、とも言われ始めている。
今朝のファティマ嬢もかわいいなあ、と誰かがつぶやく。その言葉に反応するように微笑みのままのファティマがつとこちらを見、銀色の瞳とオリバーの瞳がばっちり合ってしまった。何週間ぶりかの接触に戸惑いおずおずと片手を挙げたオリバーの姿をみとめ、一瞬真顔に戻ったファティマは何もなかったようにふいと視線を外して去っていった。
「なあ、やっぱり今オリバーのこと見たか?」
仲間に詰め寄られるのを「俺が仕込んだ朝食のパンが美味かったとかかなあ?」と適当に躱すのも朝のローテーションになりつつある。
「前はしもべみたいに連れ歩かれてたのに、最近は捨てられちゃったんだもんな、オリバーくんかわいそうに」
「泣くなよ、女にうつつを抜かしてないで、給費留学生目指して一生懸命勉強しろっていう神様・ファティマ様からのお告げだよ」
「そういうことにしとこうぜ」
友人たちに慰められながらも、自分にはほかの人間と同じように微笑みではなく、つれない態度を取ってくることに少しの優越感となぜという激しい戸惑いだけが心の中に広がっていく。
……まあ、使用人の子供と喧嘩して、腹いせに車に乗せないなんていう姑息ないやがらせする令嬢なんて聞いたことなかったもんな。あれはきっと他人には見せない一面であったのだろう、と都合よく考える。
そんな対象の僕にならば、いつか真実を話してくれる日がくるのだろうか。
読める体になっているか不安です。