失恋は突然に
目覚めを迎えるのは見慣れぬ宿の天井だ――って、未だこの世界には、俺の見慣れたものなど何一つない。自分の顔にだって未だ違和感を感じるくらいだ。これから段々と馴染んでいくのだろうが、しかし自宅の屋根に限ってそれはない。なんとか脱することはできたものの、二度と立ち寄らない方がいいだろう。
自宅をなくした以上は、これからの宿泊は宿に頼らざる負えず、それなりの資金が必要になってくる。おまけに昨日は閉じ込められて、何もしないままに一日を終えてしまった。今日こそはしっかりとお金を稼がなければならない。鬱な心に気合いを入れて、そして宿を発つ間際のこと、愛らしい宿娘が笑顔で俺を見送ってくれる。
「有難うございました! どうかお気を付けていってらっしゃいませ」
引き締めたはずの顔がだらしなく緩んでしまう。やはり美人に見送られるのはいいもので、そして今日はギルドにも行ける。つまりはあの、ぼいんぼいんな受付嬢もいる訳で、デュフフとふしだらな笑いが込み上げるが、残念ながらいるかどうかは定かではない。彼女にもきっと休みはあるし、必ずしも受付だけの仕事とは限らない。いてくれれば嬉しいが、今の俺は不幸に塗れて、なんだか嫌な予感がしてしまう。
だが実際にギルドを訪れてみれば、そんな心配は杞憂であり、受付嬢は相も変わらず明るい笑顔を振り撒いていた。続け様に美女を見れたことで、憂いた気分にも晴れ間を見せる。そんな浮ついた調子でもって、元気いっぱい爽やかに、キザだなんて口が裂けても言えない声量で、受付嬢に挨拶を投げ掛けた。
「おはよぉおおお!」
「おハよォォォごゼェェマアあア、あ、アア、あ……ス」
瞬間、俺の身体は凍りついた。
「クろォォォすサん? 昨日はイラっしゃいませせせせせせんシたけド、どうシまシたかぁぁぁ、あ、あ、あ、あ」
特徴だとか、愛嬌だとか、風邪とか喉が潰れたとか、もはやそのような次元など、優に超越した異質の怪声。
「イけなイッ! 依頼ノじゅチュうでシたねん。ごぶリリん討伐があリマすけどどど、いカガでショぉぉぉぉ…………カッ! かかか」
何を言わんとしているか、それはかろうじて判断できる。ゴブリン討伐はいかがでしょうかと、そう言っているに違いない。言葉の節々に喘ぎ声が混ざるが、色気なんてものは欠片もなく、機械音染みた声質は、薄気味悪いというのが本音のところ。
「と、とりあえず、その依頼にしとこうかな……」
「かしこ……かシこ……かシこまシた…………ひひ」
声だけを聞けば不気味なのだが、見た目はそのまま普段の通り。胸元は深き谷間を露わにしているし、愛らしく咲かせる微笑みは前に見たものと変わらない。変わらないのだが、それがかえって恐怖を煽って、異常な様子を際立たせる。
麗しきギルドの受付嬢。転生後の俺を迎えてくれた、異世界で最初のアイドルだった。きっとここから仲良くなって、沢山のお喋りを交わしていって、次第に絆を深め合い、そうしていずれは、俺の傍にいてくれたら、なんて――
そんなのは端から幻想で、告白することも、振られることもないままに、今この瞬間に恋心は、音を立てて崩れ去った。もはや関わりをもつこと自体が不吉であり、最低限のやり取りを交わした後に、足早にその場を去ったのだった。
「イイ……イッて、らっシゃい……ま死……」