終わりの始まり
異世界に訪れて二日目の朝。清々しさ陽気に誘われ、ノンストレスで目覚めるなど久しいことだ。現実では平日の朝は憂いが勝り、体は鉛のように重かった。いつまでも夜が続いて欲しい、けれど否応なしに訪れてしまう。
それが一転、今では朝を待ち焦がれる程になる。浮いた心持ちは行動にも表れ、これまでは疎かにしていた朝食も、しっかりと食べることにする。健康管理を鑑みてのことだが、よくよく考えれば仮想に食事がいるかは不明である。しかし旨いとも感じるし、なにより気分は上々だ。
これにて準備は万端だ。あとはギルドへ行くだけなのだが、昨日の受付嬢は今日もギルドにいるだろうか。楽しみや期待があるだけで、こうも昂るものなのだなぁと、逸る気持ちを抑えながらに玄関の扉の前に佇む。
億を超える人間たちが渇望し、その中で選ばれた神の奇跡。数多の冒険と出会いを求め、希望へ続く扉を開け放つ。
…………
………………
……………………暗い
待っていたのは深淵の暗闇。一寸先の未来も照らされず、お先真っ暗が正解だ。
「と、扉の前に何か置かれてるのか? 断りもなしに荷物を置きやがって」
迷惑行為なんて概念もあるのか。リアルだが、しかし困った奴もいたもんだ。一体何か分からないが、面倒を被っているのはこちらだし、倒れて壊れようが知ったこっちゃない。だから物体の安否など度外視して、強めにそれを押してみたのだが――
「重い……というか、跳ね返される。なんだこれ、そもそも物質なのか?」
触れてはいないのに弾かれる。まるで磁力の反発のようで、そんな体験は初めてのことだ。しかし体験ではなく経験なら、似たような現象に思い当たる節がある。
それは空想のゲーム世界に於いての話。キャラクターの立ち入りを拒む領域で、衝突することで生じる奇妙な感覚。例えば区切りの付いた壁だとか、陸と海との境だとか、モブキャラの立つマスだとか、あとはそう――立ち入れるはずの場所に踏み込めない、バグった箇所の領域だとか。
それが頭に思い浮かび、同時に悪寒が背筋を撫でた。成功は確約されたはずだと思っていたが、しかし全てを手にする者であろうと、身に不幸が起きない訳ではない。どころか俺の場合は実力でなく、豪運だけが頼みだった。仮にその運勢が、既に終わりを迎えていたら。
目の前の漆黒は押せど引けどもビクともしないが、幸いにして窓は外の景色を映してる。闇を背にして、光の差し込む窓から外へ這い出ることに。
改めて入口の方に回ってみると、自宅の扉は閉まっていた。屋内では開いたままだというのに、外からは漆黒の影すら見当たらない。それが余計に薄気味悪く、未知が恐怖となって精神を蝕む。試しに表から開いてみようなどと、その気は微塵も起きなかった。貴重品は持って外に出たし、家屋に大した価値はない。大事なのは何より自分の身体で、開いた窓は放置して、ギルドへと向かうことにした。
「おはよぉございまぁぁぁ……って、クロスさん? 今日はしおらしいというかぁ、気持ち悪くなぁいというか、元気がないでっすねぇ」
首を傾げて、まあるい瞳で見上げる受付嬢。健常体なら興奮ものだが、今は素直に喜べる気分ではない。
「ちょっと色々あってね、それより何かお勧めの依頼はあるかな?」
「色々ねぇ、まあどうでもいいですけどど。お勧めなら幾つかありましてぇ、Dクラスでもピンの方。そぉんな依頼はどどうでしょぉ?」
「そんな君も、今日は活舌が悪いね。とりあえずそれにしとくとするよ」
「え? そうでですかぁ?」
そうだよ、今まさにだ。しかしまあ、それを根掘り葉掘り問い詰めるだとか、昨日みたいに口説くだとか、そんな心の余裕は今はないのだ。できれば休んでしまいたい気持ちもあるが、最強といっても金はないし、嫌でも依頼はこなさなければならない。とっとと終わらせて、それで今夜はゆっくり休むとしよう。
「かっシこまりましたぁ。ではお気を付ケてていってらっしゃいませェェェ……」
か、風邪でも引いてるのか? 声が裏返っちゃってるぞ。
そうして、その後の依頼はあっさりと終わる。所詮はDクラス、一桁の足し算が二桁になったくらいの違いあり、特筆すべきことは何もない。続く査定では受付の体調は回復していて、それを軽く問うてみたが、彼女は体調不良にすら気付いていないようだった。馬鹿は風を引かないというより気付かないというが、彼女も少しアホの子なのだろうか。
報酬を受け取るも、その日は心がまいってしまって、買い物もせずに自宅へと直帰する。窓から入る姿は不審者だが、しかし入口を開くのは気が引ける。部屋に入れば嫌でも目に付く、玄関の先の底なしの闇。光の一切を受け付けず、吸い込まれそうなそれは正視を憚れ、すぐに目を背けると、力なくベッドにもたれかかる。
やりたいことは沢山ある、旅のプランだって色々立てたい。しかし疲弊した精神は安息を求めて、眠りに就くことを優先した。