【第八話】鬼退治
【第八話】鬼退治(四千倍の治癒力に四千分の一の老化速度)
チベットの、とある丘の上に立つ巨大な寺院の奥の間にショートモヒカンの男がひとり、僧侶の前で深々と頭を下げていた。橙色の袈裟を纏った僧侶は深いため息をついたあと男に言った。
「私達は信じています。貴方のその能力が、この難局を打開する突破口を切り開いてくれると」
「猊下のご意向、改めて承知致しました。貴方方を虐げている黒龍率いる軍隊のこれ以上の侵攻は、現在行なっている裏工作で何としてでも食い止めてみせます。そしていつの日か、此の国に再び平和な日が訪れることを祈念しております」
「有難う。本来民族間の問題は民族同士で解決すべきだと思いますが、私達には彼等に対抗し得る能力を持ち合わせておりません。それでも私達は彼等を支配したり滅ぼしたりすることを望まない。私達の望みは、自らの意思で働き、家を建て、子を生み、育て、そしてこの土地に骨を埋めることです。あなたの国では当たり前の事かもしれませんが、いまの我々にとってはそれこそがシャングリラなのですよ。タイラさん」
「シャングリラ・・貴方方にとっての桃源郷とはつまり、争いの元となる水や食料、寒さや暑さから身を守る衣服や住居が必要十分にある、あるいは不要な世界のことなのでしょうね。ですがそのような場所は、残念ながら現実の世界では我が国を含め何処にも無いと思っております。それより、その名前はどうかご勘弁を・・」
そう言ってゴウが頭を下げると僧侶は笑みを浮かべて言った。
「そうでしたな、これは失礼しました。確かにシャングリラなぞ現世には無いのかもしれません。ですがその昔、其処に行ってきた者がいるという話しを聞いたことはありますよ。同士、ゴウさん」
ゲンジとモモがはじめて出会ったあの日から八年が経過した今、ゲンジは二十六歳になっていた。この八年間で日本を取り巻くアジア情勢、近隣諸国との関係は“中国韓国北朝鮮の三カ国連合”対“日本、台湾、フィリピン、インドネシア等を含めたそれ以外のアジア諸国”という二大勢力に分断されつつあった。一方、九年前に発生した新型鳥インフルエンザは、これまで収束する事なく世界中に蔓延していた。そしてこの影響で、深刻な食料不足問題に頭を悩ませていた中国政府は“いまとなっては貴重な鶏、豚、牛といった肉類より魚類を食べる事で必要なタンパク質の摂取量を確保する政策を急速に進めてきた。だがその結果、政策前の五倍に膨れ上がった漁業従事者の乱獲により中国領海内の海洋資源が僅か数年で枯渇してしまう。困った漁師達は魚を求めてより外洋へ向かっていったことから、中国漁船の他国への領海侵犯はここ数年で一気に倍増した。そしてそれを後ろ盾する中国の海洋監視船が日本の領海を侵犯してきただけでなく、領海内で操業していた日本の漁船が拿捕されるといった事件がこのところ頻発していた。
しかしながら先頭切って領海侵犯してくる相手は数百隻という数で押し寄せてくる漁船であるのに対し、海上保安庁が配備した数隻の巡視船が威嚇発砲や身を呈しての進路妨害の対応をしたところで有効な措置とはならず、結果じわりじわりと日本の領海侵犯は常態化されつつあったのである。
だが、いつまでも手をこまねいている自衛隊ではなかった。海上自衛隊が計画している次期主力護衛艦の概要が、ここ最近メディアに少しずつ公開されるようになってきた。それは例えば、複数の無人偵察機を高高度に張り巡らせて索敵から攻撃目標のロックオンまで行う最先端のイージス機能であったり、STOVL(短距離離陸垂直着陸)機能を有する純国産戦闘機の搭載であったりといったものであったが、これら最新鋭の装備に対し“日本の右傾化反対”や“軍拡より内需”、“戦争より福祉”等、国内外で大規模な反対運動が沸き起こっていた。
「フォオォーンッ、フォオオオォーッ!・・キュン、キュン、キュウウーンッ・・・キィーン・・ズズズッ」
青い空の下、甲高いエキゾーストノートがピタリと止み、回生ブレーキの音をさせた後、モーターの駆動音を静かに発しながら滑走してきたパールホワイトのハーフカウルを纏ったバイクが、広大な敷地にそびえ立つ巨大なコンクリート建屋の一角の、とある駐車場に停車した。
ヤマハが開発した250cc並列4気筒エンジンをベースにYTMS(YAMAHA TURBO CHARGED ENGINE & MOTOR DRIVE SYSTEM)と呼ばれるエンジンへの過給器と電気モーターを組み合わせたこのハイブリッドバイク“FZ250TM PHAZER”は、リッターバイク並の動力性能を有しているにも関わらず大型自動二輪免許は不要、価格はスーパースポーツ系リッターバイクの半額、そして軽量コンパクトで取り回しが楽、更にはリッター50kmを超える低燃費といったスペックが若者の心を捉え、爆発的なヒットとなっていた。
公営住宅の4階の窓から、その最先端のパールホワイトの最新バイクをスマートフォンの画面に映しながら小声で話す男がひとり。
「見つけたぞ。間違いない、ヤツだ。各員、予定通り作戦を実行せよ」
誰かに監視されていることなど露知らず、PHAZERに跨ったままAraiのジェットヘルメットを脱いだのは、二十六才になりキリリと引き締まった顔立ちになっていたゲンジの姿であった。ゲンジはMax–Fritzの白い皮ジャケットの左腕から覗くスマートウォッチの画面に目をやりながらつぶやいた。
「白龍、陽子に電話」
するとゲンジが左腕に嵌めていた、従来のスマートフォンの全ての機能を詰め込んだ腕時計型ウェアラブル端末の画面に、白い龍が現れる。
このところ急速に進化したもののひとつに、いまゲンジの腕時計に現れた白龍のような対話型人工知能“コンシェルジュシステム”が挙げられた。
次世代の機能として期待され、鳴り物入りでスマートフォンに搭載されはじめたばかりの頃は、音声認識機能のレベルが低く検索機能も限定的であった事から、利用率が高いと言えなかったこのシステムは、情報処理能力の著しい進歩により現在では音声認識はほぼ100%、検索機能も知りたい内容をストレスレスで探し出せるようになっており、自動車と連携することで目的地を告げるとルートガイドをはじめるのは勿論の事、自動運転装置が付いている自動車と連携した場合、殆ど人間が操作することなく目的地へ到着する事も可能となっていた。また別の使い方の一つとして、このコンシェルジュを芸能人やアニメーションの主人公に置き換えて、ゲームの対戦相手や友達のひとりとして利用する者もまた爆発的に増加の一途を辿っていた。
ゲンジの腕時計に現れたこのコンシェルジュもまた一見何の変哲もない民生機器のAIに見えるものの、実はモモの背後に見え隠れする謎の組織“AMATERAS”から支給されたものであり、今後世界を支配、或いは滅ぼす事が出来る程の性能を有する人工知能へと成長していくことなど、このとき未だゲンジは知る由もなかった。
「フジワラヨウコ、だな。一秒後に繋ぐぞ」
白龍がそう言った直後、画面に藤原陽子の写真が表示されて間もなく電話の呼出音が鳴る。
(プルルル・・プルルル・・あ、もしもし。ゲンジ?)
「ああ、陽子か。久しぶりだな」
このところゲンジと陽子は頻繁にSNSや電話で連絡を取り合っていた。
というのも、ふたりには共通の話題があったからである。
陽子は昨年、これまで六年間在籍していた山梨県内の医大を卒業して医師免許を取得し、現在は新潟県のとある大学病院内にある脳研究所に勤務していた。一方、ゲンジはというと飛行機を飛ばすテクニックがそこそこ身に付いた時点で三沢基地を離れ、いまは宮城県のとある大学病院の研究室で、免疫学を学んでいたのである。
ゲンジが腕に嵌めたウェアラブル端末から陽子の声が聞こえてくる。
「そういえばゲンジも医学部で何か研究しているんだって。いま何やってるの?」
「免疫学だよ。最近流行りの新種の鳥インフルとかさ、なんとか食い止める方法ないかなって思ってさ。お前は?」
(へえ、すごいねゲンジ。私はね、脳の研究をしているの)
「すごいな陽子は。おまえならいつか、日本一の脳外科医になれると思うよ」
それからしばらく話した後電話を切ると、ゲンジの腕時計型端末に白龍が現れる。
「楽しそうに話しをしていたな、ゲンジ。心拍と体温の上昇がみられるがこれは所謂、人間の“恋”というものか?」
白龍の言葉を遮るように、顔を赤らめたゲンジは苦笑いしながら言った。
「よせよ白龍。友達だよ、ト・モ・ダ・チ」
本当は陽子に会いたかった。だがモモと関わりをもつようになって以来、ゲンジは親しい者との交流は控えるようにしていた。大切な人を危険な目に遭わせない為に。
ふと、腕時計型端末から再び電話の呼出音が聞こえてくる。ゲンジが左腕を上げると端末の画面に白龍が再び姿を現わす。
「ゲンジ、モモからだ」
ゲンジはニヤリと笑って「ああ、繋いでくれ」と返す。
「どうした、モモ。久しぶりだな」
腕時計型端末の画面に向かってゲンジがそう言うと、端末に内蔵されたスピーカーから雑音混じりの声が聞こえてくる。
(今そっちに向かっ・・あと3分で病院の屋上・・到着・・から、お主も・・)
バタバタという風切り音の影響で途切れとぎれになるモモの声に、ゲンジは返事をした。
「お前、飛行機かヘリにでも乗っているのか?よく聞こえないけど今度はなんだ」
(それ・・またあと・・うから、はやくこ・・・ザザッ)
それから階段を駆け上り、病院の屋上の扉を開いたゲンジの目に、こちらに向かってくる濃紺色の巨大なプロペラ輸送機の姿が映る。それから間も無くその機体は両翼のローターの角度を変えながら病院の真上でホバリングすると、ゆっくりと屋上のヘリポートに向かって降下していった。それからゲンジの目の前で着陸したティルトローター機、MV-22[オスプレイ]の搭乗口が開くと、中からモモが身体を乗り出し、手を伸ばして言った。
「つかまれっ!」
ゲンジの手を握り身体を引き寄せたモモが「よし、出してくれ!」と中のパイロットに言うと、オスプレイはローターの回転数を上げて浮上した後、それまで垂直にしていたローターの向きを水平に変えていきながら飛び去っていった。
その様子を公営住宅4階の窓からこっそり見ていた男は、舌打ちをして言った。
「ちいっ、気付かれたか。各員撤収!引き上げるぞ」
それからしばらくした後、真っ白な雪に覆われた白馬岳の山頂付近に降り立った紺色のオスプレイの中から、モモとゲンジが姿を現わす。
「オスプレイって図体でかい割にはさっきの病院の屋上とか、こんなところでも降りることが出来るんだな」
ゲンジの言葉にモモは頷いて言った。
「これだけの体格だからのう、着陸できるとことは限られておるが、例えば病院の屋上であればドクターヘリを2機以上置ける場所があれば、耐荷重も含め一度や二度着陸したところで強度上問題ないであろう。それは山頂でも同じこと。シングルローターの民間機が2機以上並んで置ける場所があれば概ね着陸可能と聞いておる」
「そうなのか、それにしてもお前はいつも大胆だな。今度はオスプレイ使ってヘリスキーかよ」
ゲンジの言葉にモモはニヤリと笑うとスキーウェアの袖をめくり、腕に嵌めたPANERAIに表示された時刻を確認して言った。
「何故このような事をするのか、と言いたいのであろう?当然理由はある。儂やお主を監視し、情報を得ようとしている輩がいることは知っているな。気付いていなかったかもしれぬがお主は先刻、複数の不審者に尾行されていたのだよ。奴等がお主の命を狙っていたのか否かは分からぬが、そうなってからでは遅い。そんな時この機体は実に有効だ。これで奴等は追跡が不可能となり、双六は振り出しに戻る」
「確かにこの状況でオスプレイを追跡出来る乗り物はこの世に無いな。陸路では絶対追いつけないし民間のヘリでもこの速度は出せない。かと言って飛行機はというと滑走路が無ければ乗降り出来ないからね。でも何でわざわざ雪山に降りたんだ?」
「先ずは奴等の待伏せが困難な場所を着陸地点とした。次に着陸後の移動がスキーであれば足取りを辿るのはより困難になる。それにだ・・折角ヘリに乗ったのだから、たまにはお主と一緒にスキーでもと思ってな。スキーは体幹、バランス感覚を鍛えるのに実に良い訓練となる。そして最後にもうひとつ、此処でならお主にしか話したくない事も云える」
「なんだかんだ言って、結局お前はスキーがしたかっただけなんだろ。で、俺にしか話したくないことって・・何?」
「いつもの昔話だ。その前にゲンジ、今日もやはりお主を狙っている輩を感じたり、儂が来ることは予知できなかったのか?」
「ああ、全然分からなかった。まあ今回だけじゃなくて最近めっきりだけどね」
「左様か、あの怪我を境にお主は一時的に能力を失ったという事なのかもしれぬ」
眉間に皺を寄せ、真剣な眼差しで詰め寄るモモに、ゲンジは後頭部に手をやりながら苦笑いして答えた。
「モモと行ったモンゴルの事だよな。あれからずっと何も思い出せない。何か重大な事があった気がするんだけど・・。俺ってもう・・役立たずなのかな」
「余計な事を考えるな。一時的に記憶を失う事や能力を失う事など、儂とてよくある。それに能力とは、それを持つ者の潜在能力と体内に有している活力から引き出されるものだ。それ故、何れかひとつが足りなければ能力は発揮できぬ」
「潜在能力だの活力だのと、日本語は分かりにくいね。要するにポテンシャルとエネルギーのどっちもそれなりに要るって事だな。今の俺に何が足りないのか分からないけど、でも腰の具合はいいよ。ご覧の通り車椅子も要らないし絶好調。ただ、怪我する前にはあった“モモがやってくる予感”みたいな感覚はいつの間にか無くなっちゃったけどね。それでも念話は出来るよ、相手の姿が見える位の距離までだけど」
(おーい、モモ、聞こえるか?)
目の前で念話で話しかけるゲンジの言葉に、モモは苦笑いして言った。
「フム、確かに聞こえる。能力を完全に失った訳ではなさそうだな・・・。ところでお主の“研究”とやらは、その後何か進展はあったのか」
「免疫学か?面白いよ。学校の教科書にも出てくるエイズにエボラ、SARSにMARS、そしてコロナウィルスは勿論の事、いま大流行している鳥インフルの事も偉い先生が非常に分かりやすく説明してくれるからさ」
「コロナ・・か。コロナと言えば儂にはストーブか、ビールしか思いつかぬ。何せウィルスなぞ、これまで儂の身体には何の影響も無かったからのう」
「そうか、確かにお前は普通の人間より4千倍の回復力があるからな。だとすれば免疫力も同様、きっとどんなウィルスが侵入したところで4千倍の速さで抗体を作り、やっつけるんだろうな。でもさ、知っているか?ウィルスってのは細菌とちがって、自分自身で繁殖できる能力を持っていないって事」
「その程度の基礎的な学問は概ね理解している。だが医学だけでなく最近の学問は苦手でのう、此処数十年の新しい科学技術に関しては疎い。それに今ならば儂の浅い知識よりも白龍に聞く方が遥かに正確な答えを導いてくれるであろう」
「確かに白龍は頭がいいよ。で、実は白龍に俺の腰の事について一度聞いてみたことがあるんだけど、この症例はかなり特殊なんで回答困難って言われたよ。それからお前の事も聞いてみたんだけど、お前の治癒力については白龍のデータベースと一致するものが何ひとつないから検証、考察は不可能だってさ。確かに俺もあのとき、普通は治らない筈の怪我が治ったけど、傷口が塞がるスピードは変わらなかった。でもお前の身体は根本的に違う、人間離れしたスピードで怪我が治るだけで無く、失った部位までもが再生しちゃうじゃないか。この違いはなんなんだ?」
「それは儂を産んだ母親が住んでいた世界と、いま儂らが居るこの世界とでは“時間の進み方が異なる”ことが影響しているのだと考えている」
「それって以前言っていた“常世国”(とこよのくに)って世界のことか」
「左様、対してこの世界は“葦原中国”(あしはらのなかつくに)という」
それからひと呼吸置いてモモは、葦原中国と常世国の事を話しはじめた。
「常世国の一日は葦原中国の約十八年に相当する事は、今までの儂の経験からほぼ間違いない。つまり儂等のいるこの世界は、常世国の四千倍の速度で時間が進んでいるという事になる。だからこそ儂は葦原中国で生を受けてからたった一日でこの身体に生長したのであろう。それから儂を生んだ母親が常世国から持ってきた桃の種が大きな木となり実った桃を儂が食したことで、儂の身体はそれまでの著しい生長をピタリと止めた。だがそれは完全に止まったのではなく儂の身体はいままでずっと、四千分の一の速度でゆっくりと生長、或いは老化し続けているのであろう。一方治癒力、回復する速度はゲンジも見ての通り四千倍程度とみなせる。つまり儂の身体の細胞は『ふたつの異なる世界の時間軸の影響を受けている』と考えておる」
「四千倍の治癒力に四千分の一の老化速度の身体・・まさに不老不死だな」
「否、儂は不老不死ではない。過去に儂と同様の身体を持つ者が、再生能力以上に身体を破壊されて死んでいくのを目の当たりにしたことがある。そして儂もまた、これまで幾度となく死の瀬戸際を彷徨った事があるがこれまで辛うじて生き永らえることができたのは、単に運が良かっただけの事。さて・・今日はお主にこんな話を聞かせてやろう」
それからモモはゲンジに念話で昔話をはじめた。
むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんと、ひとりの若者が住んでいた。この若者はおじいさんとおばあさんの子や孫ではなく、一年程前のある日、川から流れてきた女の腹の中にいた赤子が生長した姿であった。赤子は生まれて間もなく急速な生長を遂げ、わずか二、三日で見た目は二十歳前後の青年の姿となる。一方、おじいさんが、この赤子の母親が川から流れてきたときに持っていた桃の実を植えてみたところ一晩で立派な木となり、沢山の大きな桃を実らせた。青年の姿となった若者がこの実を食べてみると若者の身体は急速な生長を止め、歳をとらなくなった。それを見たおじいさんとおばあさんも桃を食べてみると、これまで体のあちこちに煩っていた病気や怪我がすっかり治ってしまう。こうして元気になったおじいさんとおばあさんは若者に“桃太郎”という名前をつけ、三人で一緒に暮らすことにした。
そんなある日、ひとりの男が桃太郎の家をたずねてきた。
その男は刀で斬られたらしく胸や背中の切り傷から大量の血を流していた。今にも倒れそうなその男に、おじいさんは例の桃の実を食べさせてやった。すると男の怪我は出血が止まり、痛みも引いたのであろうか、しばらくすると表情を和らげその場に倒れ込むように眠りについた。翌朝、男は目を覚ますと何度もおじいさんとおばあさんに深々と頭を下げ、礼を言って去っていった。
それから何日かたったある日、男が再び訪ねてきた。だがこのときはひとりではなく、数人の怪我をした男達と一緒だった。そしておじいさんに例の桃の実をくれないかと言った。おじいさんが人数分の桃の実を渡すと、男達は早速その桃を食べ、怪我がすっかり治ると喜んで去っていった。
それからまたしばらくすると、突然大勢の男達がやってきておじいさんに言った。
「此処の桃の木は俺達がもらった。お前達は今すぐここから出て行け」
助けてやったにも関わらず勝手な事を言う男達に腹が立ったものの、争いを好まぬおじいさんとおばあさんは桃太郎を連れて家を出て行くことにした。
三人は幾度となく山を越え、これまで住んでいたたところに似た景色の場所に辿り着くと、其処に新しい家を構え、痩せた土地をせっせと耕した。それから半月ほどが経ち、三人がようやく以前のような生活が出来るようになったある日、山を降りて町へ出てみると山賊が数人暴れまわっていた。略奪、強姦、そして老若男女問わずの殺戮、それは酷い光景であった。耐えかねたひとりの町民が山賊達の背後にそっと近付き、持っていた包丁で山賊の背中を突き刺した。だが山賊は苦痛に喘ぐ事もなく、ニヤリと笑うと背中の包丁を左手で抜きながら右手で町人の腕を掴み、握った包丁を一振りして男の腕を身体から切断した。それから山賊は、ゲラゲラと笑いながらもぎ取った町人の腕を喰らいはじめた。
口の周りを真っ赤にした山賊の前に向かっておじいさんは走り寄り、腕を切り落とされた町人を背に仁王立ちして言った。
「なんということをするのじゃ!人様の肉を喰らうなど、人間のすることではない」
山賊は口元から牙を出し、ニヤリと笑いながら応えた。
「なんだ、あのときのじいさんか。俺にあの桃を食わせたあんたがいけないんだよ。あの桃はあまりにも旨くてな、その後沢山喰わせてもらったよ。そしたらどうだ、頭には角が生え、口からは牙が生えてご覧の通り鬼になっちまった。でもな、身体中の力が漲り、怪我もすぐ治る、そりゃあもう最高の気分さ。そしてこの身体が求めるんだよ。もっと血をくれ、肉をくれってな」
それから鬼と化した山賊が、持っていた包丁を軽く横に振ると、おじいさんの服はバッサリと裂かれ、胸から大量の血が吹き出た。
このとき生まれて初めて抑えきれない程の怒りを覚えた桃太郎は、持っていた狩猟用の弓を構え、おじいさんを切りつけた山賊めがけて矢を放った。
包丁を背中に刺されたときは“蝿が止まった程度”の反応しか示さなかった鬼が、桃太郎から放たれた矢が腹に刺さると大声を出して身悶え、みるみる痩せこけていった。そして山賊が元の姿に戻り、ミイラ化して死んでいくのを見届けた桃太郎は、先程放った矢と同じ木でつくられた杖で他の鬼達に向かっていった。複数の鬼に囲まれた桃太郎が、次々と素早く桃の杖で突き刺していくと、鬼達は身悶え、痩せこけながら死んでいった。
こうして鬼と化した山賊達を殲滅した桃太郎の前に、幼子を連れた女が現れて礼を言った。
「ありがとうございます。あの山賊達は町中の男達が槍や鎌で応戦しても全く歯が立ちませんでした。切っても刺しても、直ぐに傷口が治ってしまい、山賊と戦った男達は皆、死んでしまったのです」
山賊達の人間離れした能力は、例の桃の実が原因であることは間違いなかった。そんな驚異の回復力を持つ山賊達を殲滅させた弓矢や杖は、桃太郎のおじいさんが“最初に植えた桃の木”をつかって作ったものだと云う事を思い出した桃太郎は考えた。
「あの桃の木で作った武器は、桃の実を食して体力や回復力を高めた者に対し、その能力を無力化する効果があるのではないか」
それから数日経ったある夜、桃太郎はおばあさんに頼まれて塩を買いに町へ向かう事にした。町に着いた桃太郎が目にしたのは夥しい死体の山だった。町民は既にひとり残らず殺されており、その中には先程の女やその子供の遺体も積み重なっていた。
ふと、複数の大男の人影が桃太郎の眼に映る。すると桃太郎の姿に気づいた大男は言った。
「まだ生きている者が居たのか。おいお前、俺の仲間を殺ったのは誰だ?」
その言葉に対し無言のまま睨みつける桃太郎に、大男は苦笑いして言った。
「そんな目をして、まさかそのか細い腕でこの俺とやり合おうというつもりではないだろうな」
目の前の大男達は皆、頭から角を生やし、口元から牙を覗かせた鬼の姿をしていた。それは以前桃太郎が殺した山賊達の仲間で、何時まで経っても帰ってこない自分達の仲間を探しに町へ出向き、そこで仲間達が殺された事を知ると激怒して、町人達を皆殺しにしたのであろう。
目の前に広がる死体の山をみて心拍が急激に上昇した桃太郎は、感情を抑えることなく鬼の群れに向かっていった。だがこのとき桃太郎は、前回持っていた桃の木で出来た弓や矢、そして杖といった武器を何ひとつ持っていなかった。それでも桃太郎は素手で三人、四人と鬼達を倒していったものの、強大な筋力や驚異的な回復力を持つ数十人の敵を相手に素手で立ち向かうのは流石に無理があった。遂に刀を手にした数人の鬼に囲まれ、同時に腹部を出刃包丁で数箇所刺された桃太郎は、大量の血を流しながら倒れていった。
視界が霞み、思考能力が低下していく中、それでもなんとか立ち上がると近くの川に飛び込んだ。それからしばらく川の流れに身を任せて下っていったところで一本の丸太を見つけた桃太郎は、丸太にしがみついたところで気を失った。
翌朝、桃太郎が目を覚ましたのは、穏やかな波の音が繰り返される砂浜の波打ち際であった。立ち上がって怪我の状態を確認しようと全身に目をやりながら触れてみると、腹部の刺された傷口はほぼ塞がっていたものの手足は痩せ細り、頰はげっそりと痩けていた。そして思うように身体を動かすことが出来なかった桃太郎は立ち眩みをしてその波打ち際に座り込んでしまう。下に目をやり、からからに喉が乾いているのを感じた桃太郎は無意識のうちに海水を手で掬って一口飲みこんだ。すると徐々に身体が動くようになり、空腹を感じるようになる。それから桃太郎は海に潜り、小魚を次々と素手で捕まえては生のまま、頭から尻尾まで丸ごと喰らっていった。
こうして体力を回復した桃太郎は、おじいさん、おばあさんと三人で一緒に暮らしていた家を目指し、川上に向かって歩き始めた。それから丸一日、日が暮れるまでひたすら歩き続けて、ようやく自分の家に着いた桃太郎はおじいさんとおばあさんに再会し、おじいさんが刀で切られた胸の傷は、例の桃の実のおかげで無事回復していたことを確認すると“自分はこれから鬼退治をしに行く”とふたりに伝えた。
おばあさんは、おじいさんが最初に植えた桃の木から成った桃の実を使ってつくった保存食を桃太郎に持たせて言った。
「次に命の危険があったときには、このきびだんごを食べなさい」
桃太郎は最初の木から作った弓と矢と杖、そしてきびだんごを持って、以前住んでいた家に向かっていった。
途中、鷹にでも襲われたのだろうか、怪我をしたサルに遭遇した桃太郎は、ふとした興味本位でサルにきびだんごをひとつやることにした。すると、だんごを食べたサルは間もなく傷口の出血が止まり、元気に動き回りはじめたのである。多少は期待していたものの、きびだんごの予想以上の効果に桃太郎は驚いた。そして元気になったサルは桃太郎のうしろをついてくるようになる。それから桃太郎は、先日町民達が皆殺しにあった町を通過したところで、今にも息絶えそうな一匹のイヌが倒れているのを目にする。サルの驚異的な回復力を目にした桃太郎は、もういちどきびだんごの効果を確かめてみようと、目の前のイヌにも与えてみることにした。するとやはりイヌの身体も、きびだんごを食べた直後からみるみる回復していった。そしてしばらくすると立ち上がって尻尾を振り、サルと一緒に桃太郎の後ろを付いてくるようになる。サルとイヌを従え山道を登っていた桃太郎の前に、今度は羽根を痛めたキジが現れる。そこで桃太郎は三つめのきびだんごをキジに与える事にした。するとキジは間もなく羽根をはばたかせはじめたかと思うと、翼を広げ桃太郎の頭上を飛び回った。
こうしてサル、イヌ、キジを連れた桃太郎は野を越え山を越え、以前おじいさん、おばあさんと三人で住んでいた家の前に辿り着いた。すると家の中では沢山の鬼達が、ある者は酒を飲み、ある者は女を抱き、そしてある者は人間の足を喰っていた。
「お前、まだ生きていたのか。それとも殺されにきたか。その棒切れで俺と渡り合おうなど、クックック・・笑止な!」
そう言って笑う鬼達に桃太郎は無表情のまま弓を構えた。先ずは一匹の鬼に矢を浴びせた後、隣に居た鬼は杖で刺し、その隣に居た鬼は拳で殴り脚で蹴り上げた。
一方、桃太郎の頭上を飛び回り続けていたキジは鬼達の前に降り立つと一声鳴いた。すると突然、鬼達は耳を押さえ身悶えはじめた。そこへサルがやってきて鬼の肩に乗っかり指で奴等の目を潰していった。そしてイヌもまた鬼達の耳や鼻、両手の指を噛みちぎった。
こうして桃太郎は、鬼達が二度と再生出来ないように奴等全員の首をはねた後、家の外にあった桃の木に火を点けて、桃の木林を全て燃やした。
ゲンジの脳裏には映画のように映っていたモモの念話がここで途切れると、モモは一息ついてゲンジに言った。
「それから儂は、しばらくの間サル、イヌ、キジと行動を共にした」
「それが今も伝わる桃太郎伝説の真実・・なのか。それにしてもなんでお前は、こんなところでしかそういう話をしないんだよ」
ゲンジがノースフェイスのボア付きフードを深く被り、両手を抱え小刻みに震えているのに対し、寒さなど何も感じていないかの如くモモは飄々とした顔で応えた。
「言っておくがな、ゲンジ。ここまで細かい話しはAMATERASの者にもした事がない。何故だと思う?」
「そりゃあこんな現実離れした話、ベラベラ喋ったら皆んな引くよな。それもあるけど、お前の弱点を突きやすくなるからじゃないのか。例えばホントは不老不死じゃ無いとか、身体の再生能力にも限界があるとか、空は飛べないとかさ」
ゲンジの言葉にモモは笑いながら言った。
「はっはっは、確かに儂は空なぞ飛べぬわ。まあ、常世国ならば多少跳ぶ事は出来るがのう。そしてもうひとつ、念話をしているときは他の五感が鈍くなるのだよ」
「だから絶対に誰も居ない場所、こんなところでしか話さないのか・・」
「さて・・此度のトレーニングは“骨盤を立ててスキーの真ん中に乗ること”だ。以前バイクでトレーニングした内容と本質的には同じ。つまり、これから下っていく斜面は、傾斜が急になるほど・・」
「斜面が急になるほど前に体重を掛けないと“真ん中に乗れない”って事だろ」
「それだけ分かっていれば十分だ。途中休憩なし、一気に麓まで降りる」
「マジかよ!モモ、お前はこの程度じゃ疲れないんだろうけど、俺はそこまで持たないよ、きっと」
「筋力に頼るな。体重を加重に変えて板を踏め。お主の周囲に発生する力をうまく利用するのだ。さすればここで体得した技術はバイクや乗馬にも適用できる技となる。さて、腹が減ってきたのう。麓に着いたら兎でも捕まえて喰うか。結構美味いぞ」
「うさぎを食うだって?・・・俺は大丈夫」
「そうか、ではお主も手伝え。皮を剥ぐくらい出来るだろう」
「だから大丈夫だって。それに皮を剥ぐって・・因幡の白兎じゃ無いんだからさ」
「因幡の白兎か。実はその話は・・まあ良い。兎に角、麓まで一気に降りるぞ」
それからふたりは真っ白に輝く粉雪を青い空に舞わせながら山を降りていった。
こうしてふたりの姿が消えていった後、雪の中から筋肉質の男が姿を現した。
その男はニット帽を脱ぐとショートモヒカンの髪を掻き分けながら言った。
「ぷっはーっ、暑い!雪の断熱効果というものを改めて痛感したよ。このN3—Bタイプの特殊戦闘服だと暑いくらいだ」
そして辺り一面を覆う銀世界を見渡した後、男はひとりつぶやいた。
「真っ青な空に真っ白な雪景色、今日は絶好のスキー日和だ。いいなぁ、アイツら楽しそうで・・。そんな中、こんなところにかまくら作ってひとりで隠れてみたり出てみたり、何やってんだろ・・俺」